川口隆夫×山川冬樹「D.D.D. -私の心臓はあと何回鼓動して止まるのか-」

◎ダンスは死に抗う生のわめきである
伊藤亜紗(ダンス批評)

「D.D.D.」公演チラシダムタイプのダンサー川口隆夫とホーメイ歌手山川冬樹が2004年の初演以来国内外で再演を重ねてきた作品「D.D.D.」の日本ファナル公演。パフォーマー二人の実力に対する絶対的な信頼とカリスマ性、そして「封印宣言」というべきか「解散ライブ」というべきか、いずれにせよ伝説化を匂わせる事前の触れ込みが相まって、観客席は開演前から異様な興奮に包まれていた。

そのざわめきを引き裂くように、ギターを首にかけた山川がブーツのかかとでシンバルをぶち鳴らす。爆音がゴング代わりの合図となり、客席後方から白いプロレスマスクで顔面を覆ったタンクトップ姿の川口がひらりと登場。山川が一方、観客がぐるり三方を取り囲むように設置された、床高約1メートル、一辺が1.2メートルの正方形のテーブルが今日の川口に用意されたリングである。このリングといい、川口の衣裳といい、楽器を破壊しかねない山川の体当たりプレイといい、五分程度で小刻みに区切られるラウンド形式の進行(Round1, Round2, Round3…)といい、さしあたり基本フォーマットとして想定されているのはボクシング(?とにかく何らかの格闘技)の試合である。

屈辱的にも観客の目の高さにあわせて作られたリング。その上にまるで実験のサンプルのように一人乗せられた川口は、飛び交う視線の網目のなかで、足の裏から横腹の痙攣に至るまで、体のすみずみを事細かに観察されるさらし者である。股のあいだで組んだ手のせいで足をもつれさせ、かと思えば不安定な姿勢に耐えきれず背中から激しく転倒し、危うくテーブルから落ちそうになる。そんな滑稽なまでに真剣な(真剣だからこそ滑稽な)体を川口は体現してしまうのだ。だがそんな姿を周囲から見られていることに、彼自身は全く気づいていない様子である。いわんやダンサーらしくポーズを決める余裕などあるわけもない。ただ終始顔を緊張させて真っ正面を向いたまま、川口は前方にある何かを見据えて戦っているらしい。

シャドウボクシングとしてのダンス。そう、リング上で繰り広げられているのは、気配のみ伝えてくる敵に対する、たったひとりの孤独なシャドウボクシングである。いったいそのジャブが想定する相手は、気配のみで見えない敵は、何なのか。

川口が自らの肉体をリング上にさらしているあいだ、山川は Super Deluxe の空間をまるごと内蔵の内部に変えてしまう。川口もろとも観客は、巨大化した山川の内蔵にのみ込まれる-もちろん比喩だが、ある意味では文字通り。つまり、ほぼ暗転に近い洞窟のような暗闇のなかで、アンプリファイされた鈍いホーメイの抑揚や、胸に貼り付けたマイクがライブで拾う心音のドクッ、ドクッ(というより猛禽類が飛ぶようなバサッ、バサッに近い)、ダクトを通る風にも似た呼吸音がこだまし、さらには視覚的にも、心臓の電位の変化に反応して明滅する束ねられた電球が、ストロボのようにまぶしく観客の目を射るのだ。声帯の震え、気道の収縮、血流の波打ち、弁の開閉…、普段は人目に触れることのない、妖しく光る内蔵たちの密やかだが強靭な活動が、ノイズとして光として空間を震わせる。

「D.D.D.」公演

「D.D.D.」公演
【写真は「D.D.D.」公演から。撮影=Hiroki Obara © 提供=precog 禁無断転載】

しかも驚くべきことに、山川は心臓のリズムをコントロールすることができる。心拍と連動した電球の明滅は妖しく不規則であり、灯台のようにゆったりと等間隔で辺りを照らしたかと思えば、突然加速して集中砲火のように際限なく閃光を巻き散らす。暴力的な生のざわめきと輝き。まさに「空間にのみ込まれる」という感覚に襲われる。その明滅のただなか、川口の肉体は、あるときはくっきりと、あるときはわずかにシルエットとして浮かび上がる。筋肉を疲弊させるスローモーションから呼吸器を追いつめる激しい回転まで、ラウンドごとに速さと質を変える川口の戦いぶりは、山川の内蔵が立てる音と光に追い立てられ、あるいは落ち着きを取り戻すようにみえる。

私の心臓はあと何回鼓動して止まるのか。このサブタイトルが如実に示すように、また山川が生命表を用いて実際にその回数を計算して見せたように、シャドウボクシングの見えない敵は生のリズムが停止するところ、すなわち死である。シャドウボクシングとしてのダンスは死に抗う生のわめきである。山川がいかに内視鏡の映像や模型図を用いて心臓の仕組みを解説してみせようとも、川口が筋肉をオタマジャクシのように震わせてみせようとも、物質的な次元に落としていけばいくほど、生は捉え難く、頼りないものに思える。弁や腺や筋肉が動いているということ自体がひとつの奇蹟にみえ、死こそ、不動こそむしろ恒常なのだ、と思えてくる。

ラスト近く、裸になった川口がリング上に直立して顔と身体を執拗なまでに左右にぶるぶると揺さぶる(照明が暗いせいで、フランシス・ベーコンの絵画のように顔が引き裂かれて見える)。やがてその頭上に山川が、手元のポンプと天井に張り巡らせたチューブを通じて匂い立つオイルを大量にそそぐ。スリッピーな状態になったリングの上で、てらてらと光りながら落ちまいと必死にバランスを取るオイルまみれの川口。まるで、落ちてしまうとそこには死が口をあけて待っているかのように。かろうじて死に落ちまいとするあがきこそ生であり、ダンスなのである。

*    *    *

…と、大真面目に「D.D.D.」のコンセプチュアルな内容、つまり作品に込められたメッセージを解き明かしてはみたものの、ある意味ではまったく無駄だったという気もする。さすがに無駄とは言わないまでも、必要な徒労ではあった。

というのもパフォーマーとしての彼ら二人のプロ意識は、もはや「伝えるべきメッセージを伝える」というようなレベルをとっくに凌駕してしまっていて、まるでメッセージなどどうでもいいかのようにさえ見えるからだ。(冒頭で述べたとおりこれは日本最後の上演だが、「最後」ということは彼らがすでにこの作品をシナリオとして反復してきたことの明示でもある。)もっとも、初めてこのパフォーマンスを見た観客の目にはそれほど明らかではないかもしれない。だがすでに2006年3月にパークタワーホールで同じ作品を見ている私にとっては、作品の内容そのものよりも今回の彼らの余裕っぷりが目立った。そしてこの余裕は、言い換えればすなわちライブ感である。最終ラウンド、オイルの入ったポンプを押す山川が「あぶらあぶらあぶらぁ!」と無意味に連呼するアナーキーな数分、川口の足元を危うくするその液体が作品の完成にとって果たす役割と、「あぶら」という言葉の持つ妙に生活感のある響きがあまりにも解離してしまっていて、思わず大爆笑してしまった。メッセージ自体はシリアスなのだから、これは完全に破綻である。メッセージを伝えるためのシナリオという安定した土台と、それを逸脱するエネルギーとしてのライブ感、この両方を同時に味わうという体験の貴重さこそ、今回のパフォーマンスの伝説化されるべき部分かもしれない。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第56号、2007年8月22日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
伊藤亜紗(いとう・あさ)
1979年東京生まれ。東京大学大学院にて美学芸術学を専攻。現在博士課程。ダンス・演劇・小説の雑食サイト「ブロググビグビ」も。
・Wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ito-asa/

【上演記録】
川口隆夫 x 山川冬樹 パフォーマンスアート・ショー『D.D.D. -私の心臓はあと何回鼓動して止まるのか-
六本木・Super Deluxe(2007年7月22日-23日)

料金
前売¥3000 / 当日¥3500


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