スロウライダー「手オノをもってあつまれ!」

◎未知なる関係性への呼びかけ 「家」意識の希薄な世代
木俣冬(文筆自由労働者)

「手オノをもってあつまれ!」公演チラシああ、矛盾。
舞台には人間の生々しい鮮度を求めているはずだったのが、現実がデジタル化されていく中で、現実を鮮度高くつかもうとすると、言葉を使ったコミュニケーションも、身体を使った表現もどんどん生とは違っていく矛盾を感じる今日この頃だ。

『手オノをもってあつまれ!』(以下、手オノ)は、現実の世界と、彼らがやっているネットゲームの世界と、さらにネットゲームの中で生まれているもうひとつの物語、という3層で構成されている。

冒頭、不自然なまでに真っ白でツルッとしたセット。背後の壁面はキラキラ光るリボン状の素材がびっしり垂れ下がってカーテンのようになっている。その後ろに人が蠢いている。現実じゃないな…。少なくとも、いまの時代ではないなと警戒心をもつ。

倒れているミッチという青年が起きあがり、後から現れる人物と対話をはじめる。そこに落ちてくる手オノ。それが妙に軽そうだったのは、後から思うと、現実ではないことを示していたのだろう。

ミッチの恋人ヘル子のどこか不自然な動き方としゃべり方。これも、後から思うと、ネットゲームのCGキャラの表現だったのかと思う。コロスが出てきて小道具を動かしたりするのも、「現実ではないですよ」というお知らせなのだろう。

スラムと化した団地。その団地のある地域は、南米の人たちを雇用して農業を営んでいる。そこで使用した農薬の副作用で奇病にかかった人。あやしい呪術師めいた女、ナンミンによる革命……。現実の世界情勢をつまんで盛り込んだような世界観に、魅力を感じながら見ていくうちに、次第に、これはゲームの世界なのだとわかっていく。

時々、背後で、紐を動かして三角の分岐を作っていくところで、ゲームがプレーヤーの選択によって進んでいくことがわかってくる。

話がだいぶ進んだところで、2007年の現代に物語は映り、プレーヤー・ミッチは、どうやら亡くなった彼女のことが忘れられないでいるらしいという背景が見えてくる。ここでやっと、それまでの俳優達の演技が意識してフラットだったことに気づく。

「手オノをもってあつまれ!」

「手オノをもってあつまれ!」
【写真は「手オノをもってあつまれ!」公演から。撮影=西田航 提供=スロウライダー 禁無断転載】

山中隆次郎氏は、本来、日常のちょっとした動きに敏感な演出家だ。以前、彼の舞台で、オタクの青年がPCをいじりながら箸でポテチを食べている動きに目がいったことがあるのだが、今回も、2007年のとある部屋で男ふたりが、コンビニ弁当を食べているという地味な動きにものすごく生活感が滲み出ていた。

世界の異なる位相を表現するために、照明を変えるなどすれば簡単かもしれない。けれど、山中が挑んだのは、身体表現だったように思う。残念なのは、それがそこまで効果的にはなっていなかったかもしれないなあということ。今後の課題にして頂きたい。

こうして、物語は、2007年のミッチとその彼女・佳子をめぐる物語にもなっていく。佳子を好きな臥多緒(ゲームの中の名前)は、ネットの中で彼女を追いかけ、さらにはアクセス解析して住居まで突き止めている。日下部そう演じる臥多緒は、絶対人の目を見ない、知ってるコトは流暢で多弁だけどそれは決して他人と言葉や気持ちを交わすことにはならない、という内気な青年。ちょっとオシャレにしたら元がいいからかっこいいのになぜだか冴えない陰気で地味な青年っている、いると思わせる。

ミッチも臥多緒も、いわゆるリセット世代の人間で、ゲームの中で何回も人生をやり直そうとしている。

こういうデジタル世代の話や、多重人格の話などは、過去ずいぶんと描かれてきてしまっているので目新しくは感じられない。が、新生した『新世紀エヴァンゲリオン』はどうやら、以前のシリーズの多元宇宙的な世界らしいと噂されているし、山中氏、さっそく採り入れてみたか?と勝手に思ったりする。

さて、実は、私は、この作品について語る時、「血の繋がりを必要としない世代のドラマ」と考えていた。いまちょうど寺山修司の『身毒丸』のパンフレットを作っているから影響を受けているかもしれないことを断っておく。

本谷有希子氏の『偏路』でヒロインは親戚や父に対する嫌悪を描きつつ結局はそこに帰っていく。岡田利規氏の作品には、批評的に、核家族、団地、郊外という入れ物が出てくる。2006年には菊池寛の『父、帰る』をシスカンパニーが上演していた。『身毒丸』はまさに家という国が勝手につくった制度からの脱却を描いている。

何かにつけ、家とか家族とかは作品につきものだが、それらに比べると、山中氏の作品には、そもそも家に対する認識が希薄に思う。装置として家はよく出てくるけど、それは本当に住む場所でしかないし、そこには怪物が住んでいたりする。

ネットゲームという仮想空間は、山中氏には恰好の舞台だと思えた。現実ではネットゲームでも出会って恋してセックスして子供ができたりするらしいが、絵空事でしかない。でも実際に、現代社会少なくとも日本では、生身の人間関係よりも、仮想空間の人間関係が急激に進化している。

おもしろいことに、その生々しくない関係性の中に、生々しいセリフがあった。
「僕、広島です。外は土砂降りです」。
これは、臥多緒が、ヘル子(佳子のゲーム上のキャラ名)とネット上で語り合っている時のセリフ。
「外は桜よ」
これは、クライマックス、ヘル子が恋人ミッチに言うセリフ。この時、ヘル子も亡き佳子に代わってミッチが演じているらしいのだが。要するに、散々、いろいろな謎を散りばめているが、佳子という少女に恋した2人の男の話だったようだ。

雨、桜……自分のまわりの風景-自然の様子を、好きな相手に伝える。デジタルな言葉や身体を示してきた中で、ふと、生を感じる言葉が挿入された。ネットゲームを知らなくても、老若男女誰もの記憶にある風景がその時やっと広がるだろう。

家や家族や都市とかそういう決まった枠組みとは離れても、どこかで誰かと繋がりたい。
「手オノをもってあつまれ!」
このタイトルが山中隆次郎の、未知なる関係性への呼びかけに思えた。

いや、これはいつの間にか私がはまりこんだ仮想世界かもしれない。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第78号、2008年1月23日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
木俣冬(きまた・ふゆ)
フリーライター。映画、演劇の二毛作で、パンフレットや関連書籍の企画、編集、取材などを行う。キネマ旬報社「アクチュール」にて、俳優ルポルタージュ「挑戦者たち」連載中。蜷川幸雄と演劇を作るスタッフ、キャストの様子をドキュメンタリーするサイトNinagawa Studio(ニナガワ・スタジオ)を運営中。個人ブログ「紙と波」(http://blog.livedoor.jp/kamitonami/)
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimata-fuyu/

【上演記録】
スロウライダー第10回公演「手オノをもってあつまれ!」
新宿・THEATER/TOPS(1月4日-7日)

作・演出 山中隆次郎
出演
山中隆次郎 數間優一 日下部そう 金子岳憲 町田水城 山口奈緒子 松浦和香子 石川ユリコ 山田伊久磨 多門勝 ほか
スタッフ
舞台美術:福田暢秀(F.A.T STUDIO)
照明:伊藤孝(ART CORE design)
音響:中村嘉宏(atSound)
舞台監督:西廣奏
宣伝美術:土谷朋子(citron works)、仲麻香
記録写真:西田航
記録映像:トリックスターフィルム
Web運営:栗栖義臣
当日運営:安元千恵
制作補佐:坂本明、三好映子
制作:三好佐智子
企画・制作:有限会社quinada
助成:芸術文化振興基金

チケット料金
前売 2800円 当日 3000円 [全席指定・税込]

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