地点「話セバ解カル」

◎痛ましい精神風景としての身体 過剰さを自覚的に受け続ける
 藤原央登(『現在形の批評』主宰)

 「話セバ解カル」の惹句は、5.15事件で海軍将校に暗殺された宰相・犬養毅最後の言葉であったことは広く知られている。夢想するイデオロギーを胸に秘め盲目的に駆られた者にとっては、対話による第三の道を導き出そうとする知的営為など存在しない。我が命を救うことが大命題だったはずだが、犬養はこの一瞬間後に射殺さるやもしれぬ状況においても泰然たる構えで、言論による真正面からの説得を試みようと懐柔策に打って出たという。この時の逼迫した緊張状態とは、離反する互いの思惑が支えとなったまさに命を賭した対立のドラマである。だが結局、何を「話シテモ解カラナイ」結果を生み出した。とりわけ今の時代に演劇を志向しようとすれば、この困難な認識からしか何も生まれなく、また始められないのではないかと思わされる点でこの題目はとりわけ重要な意味を持っていると私は思う。

 人間の様相は、犬養と海軍将校のように核となるイデオロギーに内包された未来変革を志操堅固する位相、そのはしごをはずされ目の前に捏造し続ける虚構の差異が齎す欲望の磁力反発を競う70年代から80年代の演戯的位相を経て、現段階においてはネット上に溢れるデジタル記号に仮託した顔のない擬似自己がさらに記号を累乗的に生み出し、暴力的なまでの無法地帯を形成するに至っている。この身体性が希釈されてゆく以上の経緯とは、世界や人間へのそもそもの信頼の欠如、まさに「話シテモ解カラナイ」の本音が深層を食い破って屹立する状態を準備し完成させることとパラフレーズだとすればどうか。表層の記号の増殖の連鎖により、これが人間から発せられたものかどうかすら判読不能となった段階を迎えた今、我々は自由にコピー&ペーストされて形成された擬似自己を武器に自由な進撃と遁走を繰り返す。それは、誰もが不信感を基底に生きざるを得ないという露骨な前提条件の顕在化である。演劇がこの終わりのない網目状の妖かしの関係性に批評性を差し入れ打っ遣ろうとすることが演劇の果たす役割の一つであるならば、まずはこの前提を抜きにすることはできないだろう。

 完結した既成のテクストの再構成と、台詞の発語が特徴的な三浦基と地点の方法論とは、常にそのことへの真摯な眼差しが根底にあった。テクストの再現上演という円環する自明的な無生産への疑義、意味内容という言語の上位性に回収されない拮抗する身体の醸成。立ちはだかる文学に演出・俳優による文体を集団としての力に結実させる活動を展開してきたのは、近代的知が要請してきた生活上における制約を振り切り突き抜ける表現を模索することに据えられているからだ。これは失われた身体性を極めてアナログに思考する歩みである。

 地点上演実験Vol.1と題された今作では思想をより先鋭的に推し進めようとする。5人の俳優が、冒頭に挙げた犬養毅を始めとしてブレヒト、ベケットや町田康、川上未映子の戯曲・小説や種々の史料から数本ずつをセレクトし<演説>するというものだ。現在取組んでいるチェーホフ戯曲連続上演での試みで、作品毎に言語性や身体性に重心をフレキシブルに移動させる様に感心したが、この舞台では双方から距離を保っているように思われた。近代の権化としての言語世界に抱え込まれることを忌避し、過剰なまでに追い抜こうと口述筆記機械へと化現した身体が弛緩するその一瞬間に我々は生身の人間性をわずかながらに知覚する。それがこのうえなく豊饒な演劇の力というものを感得させる点は保持されながら、そのことが圧倒的な言葉の洪水を強い身体がねじ倒す発語力を見せる俳優の演出・俳優言語とでも呼べるもう一つの言語を対置させることで生み出されたのではないかという側面の顕現化が身体性の先鋭度を高める。

 5人の「演説者」による演説は、聴衆である我々に決して演説を聴かせようとはしない。最も重要なのは、演説者の発話の合間にスピーカーから流れるテクスト朗読(おそらく各演説者自身による録音された声)と、付随的に身体の一部が拘束されていることの連関の内にある。よって演説者が自己客体化され、リズムとテンポに変調が生じることで演説に反して内向的に収斂してゆく身体の行く末にある。どういった演説者が登場したか素描してみよう。ウエットスーツとフィンを着用した一人目の安部聡子にとってのそれは、カッパに関するあれこれの事柄であり、犬養毅の立て板を打つような見事な国会演説が滑稽に異化され、安部の姿とカッパがシンクロしてくる。生命科学について述べる大庭裕介は、終始手錠をはめられ手の自由を奪われている。成人式の代表祝辞を述べるかのような、振袖衣装を着た谷弘恵は、硬直した身体で川上未映子の大阪弁文体の小説をがなりたてて語る。石田大は登場からフルフェイスヘルメットを着用しているためその声はくぐもり終始自らへ問い掛けるように跳ね返る。注目すべきは4人目の演説者小林洋平で、唯一客席から笑いが起きた。名刺一枚のアクセル操作を巧みに行う、小さく押さえたような声からトップギアへの切り替えの絶妙なグラデーションで魅せるこの俳優は、地点の方法論を最も体現しているように感じられる。その流れを突然そのリズムの流れを断ち切って生(なま)な身体を露呈させた時に笑いは起こる。

 途中で小林は声が流れるスピーカーを抱えたり、コードを引き抜き自身の声を消音させる所がある。このことによって、この声が各演説者の内心の声であることがはっきり了解される。そして、可聴的になった内心の声によって舞台上の俳優は、発言を聴衆へ届けようとする今を生きる身体の格闘の軌跡を舞台にさらけ出す。スピーカーの声と発語内容は俳優へ回帰する自省的な内向するベクトルを辿らせるのだ。粛々と終わりへと向かい執り行われるテクストが創り上げる虚構性から、生身の俳優の行為を常に意識させる仕掛けとしての内向させる声。これは、完結したテクストを身体を用いて対置させ、時に優位性を主張しようとする俳優言語が他ならぬ新たな言語性を持ち出して均衡を保つことにしかならないことを批評するため、内省する声音によるテクスト言語が再びひっくり返すという2重構造なのである。だから俳優は我々へ言葉を投げかけるというよりも、身体とテクスト間で循環し絡め取られる矛盾の中で懊悩する様を潔いまでにただただ提示する。途中、寝袋に包まった小林がもがくように内側からこぶしを突き上げるシーンはその文脈から、どうにもならない我が身の不自由さを突き破ってしまいたいとする激しい衝動のように映った。アーチ状になった空間から張り出した舞台に放り出された俳優の身体は、痛ましく自閉する風景のみを立ち上がらせたのだ。ブレヒトの異化作用がドラマの虚構性を常態的に覚醒させるが、この舞台の俳優の姿は、赤い血液の流れる筋とひりついた感覚によってかろうじて生というものを確認せずにはおけない、自傷する人間に近似した痛みを背負った人間像を炙り出すより直截的で且つ、我々に通低したものだ。

 こういった人間存在を目にすれば、戯曲言語による物語やその立体化によるリアルな人間像がなんと幻想的な希望の次元で留まっているかに思い至る。一人歩きする擬似自己から配信され続ける過剰な記号の海で無尽蔵に戯れるこのある種楽天的な状況下で、いくら語ったところでその中で埋没し、無化されてしまうのではないかという不信感があるからだ。演劇はその中から一筋の鋭い光明を差し込むことであるとしても、それは果てしない逆説の上でのことだと認識しないとまずいのじゃないかという実感でもある。冒頭で過剰さをまずそっくりそのまま受け入れる必要を述べたのは、肯定するも否定するもその過剰さに取り込まれてしまう終幕を迎えてしまうことを忌避するゼロ地点への立ち戻りの可能性をこの身体から感得したからである。

 この舞台はかなり過剰さにあふれている。演説者がそれを受け入れ続ける姿は痛ましい精神風景としか呼べない身体だ。しかし、この痛ましさだけはすくなくとも虚構が支える場から外れ出た実感あるものとして了解できるものではないか。飽和しきった記号の海から自己認識を得るためには逃走している場合ではなく、複雑で困難な手続きを経なければならない。何も信じず、内と外の声を一人で背負い一人で痛みを実感する自傷的な身体はそれだけに押しつぶされ葬り去られ易い弱さを孕んでいる。だが同時に、諦念やシニカルさに囚われた無気力な身体とは違うからこそ強さを秘めているという幻想だけは信じてもいいのではないだろうか。過剰さを我が身で自覚的に受け続けることで記号群を後景に追いる、つまり、濾過装置として機能させて出来する何かはゼロ地点への触媒になるはずだ。そしてそこからの行動は何らの装飾をも跳ね除ける強い現実的対応に違いない。
(1月25日 ART COMPLEX 1928 ソワレ)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第81号、2008年2月13日発行。購読は登録ページから)

【著者紹介】
 藤原央登 (ふじわら・ひさと)
 1983年大阪府生まれ。近畿大学演劇・芸能専攻卒業。劇評ブログ『 現在形の批評 』主宰。Wonderland 執筆メンバー。国際演劇評論家協会会員。
・Wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/

【上演記録】
地点上演実験Vol.1『話セバ解カル』
京都公演 ART COMPLEX 1928(1月25日~27日)
神戸公演 神戸酒心館ホール(1月30日)
※神戸大コミュニティコンサート8-番外編 文部科学省現代GP「アートマネジメントによる都市文化再生」

【演出】三浦 基・村川拓也
【ドラマツルグ】桜井圭介
【出演】
 安部聡子
 石田大
 大庭裕介
 小林洋平
 谷弘恵
【スタッフ】
 照明:吉本有輝子
 映像:山田晋平
 音響:荒木優光
 舞台監督:大鹿展明
 制作:田嶋結菜

助成:セゾン文化財団
EU・ジャパンフェスト日本委員会
提携:ART COMPLEX 1928
主催:地点


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