◎舞台が遊び場(play-ground)となる条件
木村覚(美学/ダンス批評)
▽リミックス、あるいはデスクトップ画面としての演劇
ハイバイ(岩井秀人)が2005年に上演した同名作品のリミックスである本作は、単なる翻案とは言い難いし、ましてや岩井戯曲の単なる再演ではない。ハイバイ版の骨組み、どうしようもない男ヨシヒロとヨシヒロを愛するヒドミとヒドミを愛する幽霊(三郎)という3人の登場人物の力関係を、ほぼそれだけを活用して、それ以外のほとんどすべてを北川陽子が仕上げた、それ故に、限りなくオリジナルと言ってよい戯曲の舞台である。
とはいえ、本作にはやはり、ハイバイ版の「リミックス」というべき点がある。音楽の「リミックス」と同様、もとのソースがそのまま素材として舞台に持ち込まれているからである。重要なのは、ただ単に台詞が、ではなく物理的に過去の上演のソースが持ち込まれているということ。例えば、冒頭、ヨシヒロにドンキホーテでナンパされる場面、ヒドミは奇妙な名前の由来を問われ、自分と同名の主人公が登場する、自分の誕生当時、母がお気に入りだった映画の話をはじめる。『霊感少女ヒドミ』というその映画を思い起こしながら、ヒドミがナレーションをリズミカルに模倣しはじめると、ヒドミの声に当の映画のものらしき滑舌のいい男のナレーションがときおり重なってくる。観客の多くは気がつかなかったかも知れないが、それはハイバイ版『霊感少女ヒドミ』上映時に用いられた音声なのだった。
過去の音声素材と舞台上の役者の声とが重なるとき-そして、舞台上のヒドミが自分の名の由来を告白するとき-、それはおどろくほど明確にしかしさりげなく、北川の戯曲が自らの素性を、すなわちハイバイ版のリミックスであることを告白するときであった。ただし、そればかりではなく、それは同時に、おどろくほど明確にしかしさりげなく、この舞台が「リミックスの演劇」であることを観客に告げ知らせる瞬間でもあったのである。
自分たちの周囲に散らばっている様々なイメージや情報を、ソースとして舞台上にそのまま持ち込み、それぞれをクロスさせ、それらの重なりの内に、新たな、リアルな相貌を舞台上に浮かび上がらせること。それを仮に「リミックスの演劇」と呼ぶとするならば、音楽の世界であれば目新しくはない、むしろ私たちにとってなじみのある表現方法に、小指値が劇団としてアクセスしているだけ、と見るべきなのかも知れない。ただし、リミックスの方法を踏襲しようとすると、舞台は既存の「演劇」の表情を崩してゆく。後であらためて述べるように、既存の「演劇」は、ほぼすべて、ひとつの演出法のもとで舞台の空間、時間、身体をひとつのテイストになるよう様式化してきた。様式を観客に賞味させるのが演劇のあるべき姿といわんばかりに、ひとつの権力のもとに諸要素を統制し、諸要素を配置してきた。小指値の舞台には、そうした支配の力が機能していない。少なくとも弱い。だから、ひっちゃかめっちゃかに見える。そして、こうした「弛緩」が機能しているからこそ、それぞれのソースは自分のキャラクターをいきいきと舞台上にあらわしもするのである。
話を戻そう。舞台はまだ始まったばかり。ヒドミがヨシヒロにナンパされる冒頭。場所はドンキホーテ。しゃがむ足、狭い通路ですれ違う体同士の捩れ、それらの記号が、ドンキ店内の表情を表象する。するとそこに、ドンキのテーマソングが、素材のまま流れ出した。ただし、舞台美術作家・田中敏恵が手がけるポツドールや庭劇団ペニノなどの舞台に代表的なように、美術がスーパーリアリズムな空間を作り、もののディテールによって見る者の個人的な記憶を呼び覚まさせるわけではない。田中の空間が高解像度でハイビジョン的であるとすれば、小指値の空間はデスクトップ的である。多種多様な事物を同じ「情報」として一律に置き、舞台は、それらが節操なく交差し、重なり合う空間と化している。見れば、そこでヒドミを演じているのは「アイドル」初音映莉子だ。蜷川幸雄や野田秀樹がアイドル俳優を用いるやり方とは異なり、ここで初音は「このアイドルにはどれだけ〈演劇〉が出来るのか」といった近年お決まりのレール(見方)には乗っていない。そうではなく、ただ「アイドル」というひとつの消費対象、ひとつの情報ソースとして舞台に持ち込まれているように見える。仮に明瞭には「初音映莉子」を同定出来なくても、テレビなどで流通している一アイコンであることを、見る者は初音の顔、声、身体の情報から察知するだろう。そのアイコン性のために、初音はここに招かれている。ぼくにはそう思えた。
「アイドル」は「ドンキ」と重なり「ナンパ」と重なり、そして「ヒドミ」と重なってゆく。そうした小指値の舞台空間では、初音に限らず、登場する役者たち、オブジェ、音響などは皆、キャラ立ちが求められている。残酷なくらい単なる素材として。リミックスとして。リミックスに映える素材として。
▽5人いるヒドミ、あるいは「幽霊」について
残酷だけれど、そうしたあり方は、ぼくたちの現在の生ときわめて整合的である。デスクトップ画面みたいな演劇。そう、本当に文字通りそうで、例えば、ヒドミが携帯でこまめに発信する「ヒトミ・ブログ」に記された内容が、ヒドミの語る台詞のほとんどを構成しているのである。小説をケータイユーザー対応化したケータイ小説とは正反対に、北川の戯曲は、ケータイ(ブログ)というフォーマットを演劇に移しかえている。ケータイもまた小指値にとって、リミックスの対象なのである。
ところで、北川は、2人の男たちの人物を造型するのに、一人を心はヒラヒラと表面的でダメだけれど外見的には魅力的な存在(ヨシヒロ)として、もう一人は外見的にはダメだけれどやさしい面のある存在(三郎)として描いている。ハイバイ版の場合、男たちは2人とも、小学生みたいに未熟な人物たちである。岩井秀人という男性作家の目線で面白いキャラが選ばれているように見える。対して、北川が選んだのは、女性の視点からすれば現実の男などこの2種類しかいない、とでも言い捨てるかのように(男性の観客であるぼくにはそう言い捨てられているように感じられたのだ)、あえて類型化すれば「DQN」と「オタク」である。三郎は毎夜、ヒドミの住むアパートの一階にあるコンビニの雑誌コーナーでヒドミを待ち伏せ、自分だけがヒドミを理解していると言って虚勢をはるものの、実のところは、近所で交通事故死した、実体のない幽霊でしかない。かたやヒドミの恋するヨシヒロは、現実に存在しヒドミをナンパしもしたが、ということはやはり彼は軟派でしかないわけで、決して真の意味でヒドミを愛そうとはしない。
存在の薄さ軽さは、セックスをしたところで変わらない。身体のリアリティも例外なく、耐えがたく軽い。
さて、まだ言及していなかった重大な事実がある。舞台上には、ヒドミが5人いる、のである。幽霊(三郎)と会話出来る「霊感少女」なヒドミはまた、自分の影(別人格)が見えることに怯えている、というSFホラーテイストの基本設定は確かにある。ただ、なぜ5人なのか、5人の誰が真のヒドミで誰が影なのかは問わぬまま、謎は謎のまま、ヨシヒロは5人のヒドミと大晦日の初デートを楽しみ、ホテルで一夜を過ごす。ヨシヒロは、ヒドミを5人と認識しているわけではない。そうじゃないから、彼は当然のように均等にひとりひとりのヒドミに語りかけ、ヒドミは自分のタイミング、それぞれほぼ同じ返答を返していく。
こうした演出方法は、もはや小指値の専売特許といえるものである。ぼくはすでに昨年秋の公演『[get] an apple on westside』『R時の話し』を通して、彼ら固有のアイディアを「あて振り」というキーワードから整理したことがある(「「あて振り」としてのアート 小指値の最新公演から見えたパフォーマンスの一地平」『REVIEW HOUSE 01』所収)。「あて振り」とは、もともと日本舞踊の用語で、横で歌われている歌詞に対して、それに応じた身振りを踊り手がする、という表現法。例えば今日ならば「エア・ギター」を想起すれば自ずと分かるように、そうした「あて振り」の特徴は「冗語的な可視化」にある。そうしなくてもことが成立している状況で、あえて(=余計な存在であることを承知の上で)イメージを具現化してみること。例えば、本作だと「……は空気が読めなくて……」などと誰かが漏らすと、後ろで誰かが意味もなくクラッカーを「パン!」と突然鳴らしてみたり、あるいは「ヨシヒロ君が(セックスで)はやくイッちゃって……」などと誰かが言うと、突然ヨシヒロ本人が舞台上を猛烈な勢いで駆け抜けてみたり、などがそれである。小指値の舞台では、台詞などを基点にして、その(ときにズレた)具現化を舞台で実行するタスクが、演劇と言うよりは一種のゲームとして、そこここで、突如、開始されるのである。
5人のヒドミは、こうした「冗語的な可視化」という彼らの演出方法を過剰に可視化するものだった。ヨシヒロからキスを迫られても、「5人のヒドミ」という冗語的な設定が災いし、ヨシヒロと5人は頭を「ゴツン」とぶつけて、唇に届かない。爆笑する観客。現実にはそんなことは絶対起きないよ、と。じゃあ、現実の再現でないとすれば、一体何がここで起きていたのか。SFの実演?そうとも言える。けれども、もうひとつ言えるのは「冗語的な可視化というゲーム」の可視化が、演じるという行為をそうしたゲームへと変換したことの可視化がここで起きていたということであり、観客の笑いを誘発したのは、この変換の事実であったに相違ない。
こうした冗語性は、舞台で動く者たちを幽霊化する。存在の耐えがたい軽さは、単に物語上のみならず、役者の舞台上の存在する仕方にまで及んでいるわけである。5人が交替であるいは同時にヒドミを演じるということから生じる幽霊性、これを昨年末に桜美林大学の学生たちと岡田利規が制作した公演『ゴーストユース』と比べてみたくなる。15人ほどの大学生たちは、まるで入力されたデータを設定済みの時間差で黙々と実行するロボットのように、淡々と次々と、35歳のひとりの主婦の日常の思いや、友人や夫と話す情景を演じていった。ある長さをもった同じ台詞を、複数の大学生たちが何度も繰り返す。それはやはり、幽霊のような存在の希薄さを演じる大学生たちに与えた。そこに貫かれているユニークでクールな方法論に驚き、感動を憶えた。
にもかかわらず、すでに小指値の「あて振り」について考えていたぼくには、岡田演出のユニークでクールなスタイルにゲーム性の含まれていないことが、何だか寂しかった。簡単に言うと、演じている大学生が楽しそうに見えなかった(同世代同士で制作するこれまでのチェルフィッチュ公演とは異なり「ロストジェネレーション」世代の演出家が「ポスト・ロストジェネレーション」の役者たちに演出をつけているという距離を両者の間に感じてしまった)。おかしな言い方だが「これは演劇だ」と思った。演出家を中心に、彼/彼女の意志を具現化するために役者やスタッフが奉仕する、そしてそのひとつの意志が観客をリードしていく。その意味合いにおいて、一般的な既存の「演劇」だと思った。そして、ぼくはあまり「演劇」が好きじゃないのかもしれないとも思った。
これは、ぼく自身の演劇に対する興味・姿勢の問題である。だから岡田演出を責める気持ちなど毛頭ない。ただ、演劇作家のなかには、こうした意味における一般的な演劇というものが苦手で、距離をとろうとする者もいる。五反田団の前田司郎は、ぼくが判断するに、そういう一人である。例えば『さようなら僕の小さな名声』で前田は、前田自身を荒唐無稽な設定のなかで(岸田戯曲賞を二個とったので、一個を貧しい国に寄付する)主役として登場させ、しかもこの前田役を前田本人が演じた。そこでは、何重にも演出家/戯曲作家という存在が当の本人を介して反省され、笑いの対象となる。とくにおかしかったのは、役者がガムをカレー汁につけて食べるというシーンで、そんなみじめな物体を演技でも食べる嵌めに陥った役者に対して、それを指示した前田本人が舞台上で思わず苦笑しているのだった。その笑いは、一種のハプニングだったのだろう。とはいえ、自然と、演劇のヒエラルキー的な関係を浮き彫りにしたのだ。そのとき、こうした支配と被支配の権力的な関係を生み出してしまう演劇のおかしさ(愚かしさ)それ自体が演劇化されているように、一瞬、思えた。たまたまだとしても、そうした笑いを漏らす余裕が、五反田団の舞台空間には用意されていたのだ。
▽舞台が遊び場となる条件
この余裕は、演劇が自らに空ける風穴である。演劇が一瞬制度としての「演劇」を忘れる瞬間。ぼくが演劇に期待するのは、その希有な、鎌鼬の一瞬なのだ。だから、ちょっと狂った願いだとは思っている。けれども、それは何ら特別な願いではないようにも思う。ただ、舞台が遊び場になればよいのだ。演出家がシャキッとひとつの様式で役者の身体を整理整頓するのではなく、むしろそうした洗練をゆるめて、真面目な演技という行為をひとつの遊びへと変換してしまえばいいのだ。
そもそも、演技(プレイ)とは遊び(プレイ)のひとつに他ならないのではないか。「演じる」とは、英語で言うならplayで、この語は「演じる」のほかに「音楽を演奏する」ことにも使われるし「賭け事をする」ことでもあるし「競技を行う」ことでも「ふざける」ことでも「(軽やかに)飛びまわる」ことでもある。
だとすれば「演じる」とは、こうした様々な「遊ぶ」ことが周囲を取り囲んでいるもののはずだ。少なくとも、そう考えてみることは可能だろう。そして、そう考えてみるならば「舞台上で遊ぶ」ことの可能性をめぐって知恵を絞る芸術形式が演劇なのではないか?と、さらに問いつめてみたくなる。
(ずいぶんと長い迂回をしました。恐縮。)さて、再び小指値に戻ろう。デスクトップ画面に次々と呼び出される情報ソースみたいに出現しては「演劇」を「ゲーム」へと変換して飛びまわる役者たち。彼らの姿を思い返すと、小指値が『霊感少女ヒドミ』で展開したアイディアはすべて、まさに「舞台上で遊ぶ」ことへとひたすら捧げられていたのではないか、と思ってしまう。冗語的であるが故に幽霊と化した役者たちは、ただし、遊ぶ幽霊なのである。
物語は終盤。ヒドミは、幽霊(三郎)と会話している姿を見られ、ヨシヒロに「キモ」がられ、振られる。ラストシーンでは、そのヒドミに捨てられた三郎が独白する。国道16号を走る車は、三郎の体を通過していく。そうした影でしかない自分を笑う三郎も、次第にヒドミを忘れ、自分自身をも忘れ、雑誌コーナーを意味もなく徘徊する。ズーンと重い感動がせり上がる。三郎もヒドミもヨシヒロも自分だ、とぼくは思ってしまった。自分は、三郎やヒドミと同様、この世界の幽霊的存在であり、また、そんな幽霊的存在を弄ぶ軽薄なヨシヒロでもある(ヨシヒロは、デスクトップ画面を眺めるぼくたち?)、と。実体を欠いた幽霊、ただし、その事実を単に呈示するに留まらず、その事実を遊ぶこと。その過酷さを必死に楽しむこと。そうした場が生まれうる可能条件に知恵を絞ること。小指値がほぼ単独で踏み出しているその道程は、いつか彼らから「演劇」の輪郭をすっかりそぎ落してしまうかもしれない。ぼくは、でも、そうであっても構わないと思うし、むしろその先に「舞台上で遊ぶ」可能性が垣間見えているのなら、ぼくはそれにこそ演劇という呼び名をあてたいと思うのである。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第82号、2008年2月20日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
木村覚(きむら・さとる)
1971年5月千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)単位取得満期退学。現在は国士舘大学文学部等の非常勤講師。美学研究者、ダンスを中心とした批評。
・wonderland掲載の劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimura-satoru/
【上演記録】
小指値『霊感少女ヒドミ』
こまばアゴラ劇場(2008年2月7日-9日)
原作: 岩井秀人(ハイバイ)
作 : 北川陽子
演出:篠田千明
イラスト:伊藤潤二
出演:
初音映莉子 三浦俊輔 NAGY OLGA 大道寺梨乃 中林舞 野上絹代 山崎皓司
スタッフ
舞台監督:佐藤恵
美術:山本ゆい
照明:伊藤啓太
照明オペレーション:佐々木文美
音響:星野大輔
衣装:藤谷香子
振付:野上絹代
宣伝美術:天野史朗
写真:加藤和也
制作:山本ゆい
企画:山北健司/篠田千明
協力:A-team
企画制作:小指値/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催: (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場