青年団「隣にいても一人」

◎それでも誰かが隣にいる 平田オリザ流不条理劇
鈴木励滋(舞台表現批評)

▽「夫婦になる」とは

「隣にいても一人」公演チラシある朝、目を覚ますと昇平とすみえは夫婦になっていた。
高校で非常勤講師をしつつ小説家を目指す昇平と看護師のすみえは旧知の間柄である。昇平の兄で会社勤めをする義男とすみえの姉で国語教師の春子は別居中でありながらも、良子という子どももいる夫婦なのであった。

戸惑う二人の元へ呼び出された義男が訪れ、腹を立てて去ってしまう一場。すみえに呼ばれた春子に昇平が苦言を呈される二場。義男と春子が二人で気まずくいるところに、昇平が婚姻の届けをして戻ってくる三場。荷物を整理するために自宅に戻ったすみえはここでは登場しない。そして、すみえと義男と春子と三人いるところに習慣的に外で執筆をした後に帰宅した昇平が加わる四場。やがて義男と春子はそれぞれ退場し、舞台にはまた二人だけが残される。慌しく過ぎた奇妙なその日の朝から夜までの様子を、約一時間で描いた平田オリザ流不条理劇である。

外見の変化もなければ、第三者から認定されたというのでも、二人の間に関係を変化させる何事が起こったわけでもないのだが、朝起きるとすみえは昇平の部屋にいて、「お互いに夫婦だなと、夫婦以外の何ものでもないなと、認識してしまったのね、今朝、お互いに、どうしても」と昇平が語るように、お互いにそう認識してしまっただけなのである。けれど、義男は二人が「ものの弾みでセックスしてしまった」と思い、春子は馬鹿な話だと相手にもしない。

春子に昇平はカフカの『変身』を模した悪い冗談なのだろうと詰られるのだが、彼とすみえに起こったことと『変身』の主人公グレーゴル・ザムザの身に生じたこととは大きく異なっている。ザムザの外見が甲虫となったという物理的な変化は、家族や上司といった他者をして瞬時のうちに了解されたのだが、昇平とすみえが「夫婦になった」という変化は、二人以外の誰の目にも明らかではない。昇平は後になって婚姻届を役所に提出に行くので、朝の時点では法的に結婚しているのでもないし、兄に必死で弁解するように実際に二人はセックスをしてはいない。それでも頑なに二人が口をそろえて「夫婦になった」という辺りが深長である。

こうなると観る者は自問せざるを得ない。「夫婦になる」とは一体どういうことなのだろうか、と。とうに成人している二人にとって親の同意もましてやセックスも結婚の必要条件ではなく、婚姻届を出すことは、少なくとも法治国家においては結婚の条件かもしれないが、事実婚なる形もあるぞと思うのみならず、結婚することが「夫婦になる」ことと同義なのかという疑念すら生じてしまう。台詞の上でも言葉遣いに限っていえば曖昧で、役所に届けを出す前、昇平は春子に「結婚は、どうぞ、ご自由に」と言われ、「ご自由にって言うか、もうしてるんで」と答える。上掲の義男に対する昇平の弁明が英語版でも「we found ourselves married」や「we realised that we were married」となっていたり、僅かながら「we are husband and wife」という表現も混在していたりすることでも、「夫婦」とは何なのか、疑問は深まるばかりである。

三場でついに顔を合わせた義男に向かって春子は、彼のリストラを心配し「良子だって、これからいろいろお金がかかるんだから」と語る。たとえ離婚したとしても、二人は良子の父と母であるということだが、義男は、離婚したとしたら「俺は、すみえさんの義理の兄」で「春子は、昇平の義理の姉」なのだから「義理の兄と、義理の姉の関係は...ギリギリか?」とおどけて皆にあきれられる。

さらに義男は、昇平とすみえにとってその晩が「初夜」であると気づいて慌てたり、自分たちの新婚旅行の話を聞かせたりと騒々しくした後に帰っていく。ほどなく春子も去ってから、「兄さんたちは、本当に戻らないのかな、もとに」という昇平の問いかけに、「分からないよ、二人のことは・・・私たちのことだって分からないのに」とすみえは応じる。そのつぶやきは、別居中の義男春子夫婦の先に可能性をもたらすだけではなく、まさにこれから始まろうとしている昇平すみえ夫婦の前途に不安を立ち現させる。

けれど同時に、人間が関わりを持つということは、紙切れ一枚で保障されたり雲散霧消したりするようなものではないという思いも湧き起こった。義男と春子には夫婦としてよりを戻せる一縷の望みやかすがいとなる良子の存在だけではなく、「新婚さんいらっしゃい!」に本気で出ようとしたことや旅行先の動物園の猿の話のような他愛もない出来事の積み重ねとしての、二人の日々がそれぞれに残されたのではなかろうか。どうなるか分からない昇平とすみえのこれからの時間にも、きっと他愛もない出来事は堆積していく。

「隣にいても一人」

「隣にいても一人」
【写真は「隣にいても一人」公演青森編(上)帯広編(下)。撮影=佐藤誠 提供=青年団 禁無断転載】

本作の題名は自由律俳句の代表作「咳をしても一人」を想起させるが、この句に尾崎放哉の孤独を読み取っても、信仰に裏打ちされた単独者の達観を見出したとしても、本作のいう「一人」とは馴染まないように思う。それは、隣に伴侶がいたとしても往々にして孤独なものであるというのではなく、また、神との連なりこそ一人を脱する拠り所だというわけでもないということで、そこから見えてくるのは、平田は単に夫婦を「二人」という安住の場所を意味させてはいないということ、「一人」を超克するために「二人」という行き先を目指す道など敷こうとしてはいないということであろう。人間は結局のところ一人でしかないということには抗いようがない。〈わたし〉はどうしようもなく一人であり、それでも〈あなた〉と関わりながら生きて、なすすべもなく一人で死ぬのだ。

登場する人々の先行きが不確かであるのは、それを観る私たちの道行きが霧の中であるのと一つ事である。決定的な断絶を見て取れない義男と春子の間にあるすれ違いも、あの朝昇平とすみえが抱いたお互いに「夫婦以外の何ものでもない」という認識と同じくらい根拠のないことである。「宿命」を知らせてくれる絶対者に導かれることなどなくとも、そんな不条理に満ちた日常を懸命に生きているだろう彼/女らが愛しく見えて仕方ないのは、それが劇場を出た私たちそれぞれが過ごしている日々のことに他ならないからである。

この作品を観た後に到来するのが、逃れようもなく一人であることを嘆く絶望の闇ではないのは、たとえ水泡に帰する刹那の輝きとしてなのかもしれないが、彼/女たちの姿を見ながら、〈わたし〉が〈あなた〉たちと織り成すとりとめもない毎日のことを美しいと思えたからに相違ない。

▽かけがえのない呼びかけ

帯広編以外の演出は平田オリザによるものであるが、出演者からのアイデアも取り入れて作り上げていったらしい。それぞれに個性豊かな作品に仕上がっている様を見ただけで、いかにその遣り取りが充実していたのかを知らされたように思う。

一場では昇平とすみえのいる部屋に訪れた義男は、昇平にコーヒーを勧められたついでに「パンも食べていいよ」と言われて、要らないと答え手をつけないのだが、関西編の永井秀樹は「要らんわい」と言うや否やパクリと食べてしまう。義男が「甘くしないと飲めない」とかわいい事を口にしつつ大量の砂糖を入れるというのが他のバージョンでも笑わせどころとなっていたが、コーヒーフレッシュの容器をカップの中で洗ったのは永井だけであった。

それから、熊本編の義男(河原新一)が弟を何かにつけ引っ叩いたのは「さすがは九州男児」というよりも、八人の昇平の中で群を抜いて情けなく「肥後もっこす」という言葉がアイロニカルに響くほど最弱の昇平を演じた奥村泰自に導かれたといえる。むしろ虚勢は張るものの春子に対しては弱々しく、大事なところでは頼りないところが九州男児の愛らしさであったか。また、義男の来訪に際して食卓を楚々と片付けた熊本編すみえ(根本江理子)に、阿呆な男たちを良い気分にさせつつしっかり制御する強かさを見た。

つづく二場から登場する春子は四人のうちで最も各バージョンのキャラクターの違いが際立ったといえる。心配性だったりキツイ印象だったりさばさばしていたり豪快だったり大らかだったり...と。森内美由紀(青森編)や松田弘子(英語版)といった達者な俳優が人情の機微を解しつつ演じた役どころだが、脱いだストッキングを嗅ぐというベタな(?)おばさんを好演した三重編の山本裕子が印象に残った。

その他にも、英語版のすみえ(齋藤晴香)は下品で失礼な義男にパンを投げつけ、三重編の義男(片田俊二)は二人の「初夜」に異様に興奮し、「それ面白いの?」と春子に問われる“アメリカンジョーク”を面白く演じて見せてしまった広島編の義男(河村竜也)など、散りばめられた各地の小ネタはお国言葉や微妙に異なる小道具同様に比べるだけでも楽しいものであった。

それらの相違点は風土の影響を受けていたことは否定できないだろう。けれども、数編の作品を観ていくとそこに現れる人物像の違いは風土によってのみならず、さまざまな要因で作り上げられたものだと思えてくる。なかでも、オリジナル版の(もともとこの戯曲は帯広劇研の25周年公演のために書き下ろされた)帯広編を観て、登場人物の年齢という構成要素が物語に重厚さを裏打ちするものだと改めて思い知らされた。帯広編では平田ではなく、帯広演研の片寄晴則が演出をしたこともあったかもしれないが、俳優の年代が他のバージョンと一線を画す作品にさせていたと思う。

こちらのすみえは四十代で、昇平も少し年上という設定だったのだが、他のすみえのほとんどが二十代後半で昇平も同世代と設定されていた。(熊本編では二人とも三十代後半)三十前後と四十過ぎでは互いに独身の看護師と小説家を目指す男という役どころ自体が帯びるものが異なってくる。兄や姉との会話から察するに、それまでずっと独り身であったらしい二人について、語られない多くのことを想像してしまった。

歯を磨こうとするすみえに、意を決したかのように「パジャマに着替える」と宣言して上手の寝室へと向かう昇平。洗面所のある下手に消える前にすみえは一瞬振り返る、というラスト。英語版の齋藤晴香は目を輝かせて振り返った後、歯ブラシを口にくわえて笑顔で颯爽と退場する。他のすみえたちは少々緊張した面持ちで振り返る者が多かったのだが、帯広編の上村裕子はとても穏やかな表情をしていた。物憂げでもなく驚きや不安すら無いかのような、まるで演技をしていないかのような抑制の効いた表情には、こちらが勝手に想像したその日までのすみえの人生の厚みが説得力を授け、誰もいなくなった舞台に味わい深い余韻と色香を残した。

不条理劇なのに清涼感のあるラストをむかえるという英語版も面白かったのだが、夫婦であると認識してしまった自らの感覚を疑うのではなく、ほんとうに夫婦になるのだなと立ち止まって束の間、ただ漠然と想うかのような帯広編のラストは抜きん出ていたように思う。自分たちの先のことは分からないと語った直後のこの場面で、不安が無いはずはないのであるが、それはもう抗いがたいことであり、かすかな感慨を伴って「ああ、そうか」と納得するような顔。

耐え難いほどに一人であるという理不尽さの只中で、彼女の感慨が共鳴した私の中に浮かび上がってきたのは、やっぱり私たちは紛う方なく一人であるという事実と、それでも隣には伴侶のみならず誰かが必ずいるというかけがえのない呼びかけであった。隣にいても一人であるが、どうしようもなく一人であるものの、必ず誰かが隣にいるのだという。

▽演劇の裾野を広げる

この企画の意図は「日本を代表する劇作家・演出家である平田オリザと地域の劇場が連携し、高品質で繰り返し上演できる作品をそれぞれの劇場から創出するという新しい挑戦」だというのだが、各地域の劇場は繰り返し上演するための一つの作品を得ただけではない。

平田と青年団の俳優たちが現地で長期滞在し携わったオーディションや稽古はもちろん、高校生対象のワークショップや市民に向けての講演会を催し、舞台美術の杉山至は舞台装置に関するワークショップを行なった。杉山の三重・広島・青森・熊本の各地でのワークショップから生まれたアイデアを基に、それぞれの地のプランを作成し、各公演の舞台セットを作り上げたというのだが(東京公演は三重のプランを採用)、これらのさまざまな共同作業が演劇の裾野を広げたことは疑いようがない。

今回参加していた帯広演研や青森の渡辺源四郎商店だけでなく、演劇の盛んとはいえなかった地域に種をまく人たちがいる。千葉にこだわって活動を続ける三条会、二つの町の文化会館を拠点とする宮崎のこふく劇場、空間再生事業と名乗るようにあらゆる空間を演劇で生き返らせていく福岡の劇団GIGA、彼/女たちの地域でのさまざまな試み、その点でいえば向島でのトリのマークの奮闘や各地で「お散歩演劇」を仕掛けるポタライブなども心強い担い手である。

演劇の持つ力を信じる者たちによる、こうした地道な営みが地域に少しずつ活力をみなぎらせているように、一年近くをかけて為されたこの企画の結実は今回の東京公演ではなく、これから先に全国あちこちで姿を現していくこととなるだろう。私たちの刹那の生をより豊かに彩る演劇という装置が全国のあちらこちらで稼働し始めたのであれば、それはなんとも心の躍ることである。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第83号、2008年2月27日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
鈴木励滋(すずき・れいじ)
1973年3月群馬県高崎市生まれ。栗原彬に政治社会学を師事。障害福祉の現場で喫茶店の雇われマスターをしつつ、演劇やダンスの批評を書いている。ウェブログ「記憶されない思い出」を主宰。

【上演記録】
青年団プロジェクト公演『隣にいても一人
東京公演:こまばアゴラ劇場(1月17日~27日)

【演出】
平田オリザ
片寄晴則(帯広編、帯広演研)
工藤千夏(英語版共同演出)

【出演】
青森編:畑澤聖悟(渡辺源四郎商店) 小寺悠介 森内美由紀(青年団) 工藤倫子(青年団)
三重編:片田俊二 坪井祐之 山本裕子(青年団) しんそげ(青年団)
広島編:河村竜也(青年団/ブンメシ) 坂田光平 田原礼子(青年団) 池田あい
熊本編:河原新一 奥村泰自(演劇微小集団ふわっとりんどばぁぐ) 木内里美 根本江理子(青年団)
盛岡編:くらもちひろゆき(架空の劇団) 臼井康一郎(プラシーボ) 高橋 縁(青年団) 角舘玲奈(青年団)
関西編:永井秀樹(青年団) 二反田幸平(青年団) 井上三奈子(青年団) 端田新菜(青年団)
英語版(リーディング):近藤 強(青年団) 畑中友仁(青年団) 松田弘子(青年団) 齊藤晴香(青年団)
帯広編:龍昇(龍昇企画) 富永浩至(帯広演研) 坪井志展(帯広演研) 上村裕子(帯広演研)

【スタッフ】
舞台美術コーディネーター:杉山 至(青年団)
照明:岩城 保(青年団)
舞台監督:島田曜蔵(青年団)
宣伝写真:momoko japan
宣伝美術:京
グッズデザイン:ドラゴン・ヤー
英語版翻訳:小畑克典(青年団)
英語版翻訳監修:小畑みはる
制作:尾形典子(青年団)、佐藤 誠(青年団)

主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場

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