◎「見える顔」と「顔のない声」 「ソファー」が示す権力の在処
水牛健太郎(評論家)
言葉の力は、暴力と対極にあるものだと思われている。ペンは剣より強し、という格言もある。五・一五事件で海軍将校のピストルに向かい合った犬養毅首相は「話せばわかる」と言葉を遺した。暴力に立ち向かう言論の雄雄しい姿。
しかし、そのような構図では忘れられていることがある。暴力の背後にあるのもまた、言葉の力、言論だということだ。言葉のない暴力はせいぜい街のちんぴらレベル。組織だった強力な暴力はいつも、言葉の力に支えられている。
五・一五事件の首謀者らの檄文は「国民よ!武器を執つて立て、今や邦家救済の道は唯一つ『直接行動』以外に何者もない、国民諸君よ!天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!」と雄弁に訴える。世界最強の暴力装置であるアメリカ軍は、大統領の演説とともに外国に侵攻する。アメリカを敵視するテロ組織を動かすのもまた、神への帰依を訴える言葉の力。世界中どこでも、暴力を抑制する本能の留め金を外すために、人は言葉に訴える。
暴力を発動させる言葉のあり方。肉体を持った言葉を表現手段とする演劇にとって格好の題材だ。青年団公演「革命日記」は、この問題に正面から取り組んだ作品である。鋭い言葉の応酬の果てに、際限ない暴力の発動を確かに予感させた。
舞台は都市近郊の小奇麗なマンションの一室。ある過激派のアジトだが、中心メンバーの増田武雄と典子が夫婦として生活する場でもある。部屋では若い男女数人が、近く決行する空港突入と大使館襲撃の計画について話し合っている。指導者佐々木の強いイニシアチブによる計画だが、メンバーの一部は弱小党派の身の丈を超えているのではないかと不安を募らせている。佐々木は劇の後半まで登場しない。
この弱小党派の設定は、実在したある党派をモデルにしているようだ。日本共産党革命左派神奈川県委員会、略して革命左派と呼ばれるその党派は、後に赤軍派と合同して連合赤軍を形成し、十二人の同志の命を奪う凄惨なリンチ事件とあさま山荘の銃撃戦を起こしたことで有名だ。革命左派は一九六九年、劇中で計画されているのと同じ、運河を渡ることによる羽田空港への突入を決行しており、その前後にはアメリカやソ連の大使館を火炎瓶などで襲撃している。空港突入は指導者川島豪の主張によるものだが、メンバーの中には不安の声があった。中心メンバーの永田洋子と坂口弘は空港突入の後に結婚する(二人とも死刑が確定)。
この劇の舞台であるマンションは、増田夫婦が一般市民を装っているため、党派と関係のない者が訪れることもある。関係者はチャイムを三回連続で鳴らすことで合図としているという設定だ。このマンションを隣人や党派メンバー、非合法活動を知らないシンパなど様々な立場の人が訪れ、劇が進行していく。
平田オリザの方法論は一般に超リアリズムと理解されているが、平田は日常生活で見かけるものと一見何の違いもない空間の中に、巧妙に象徴性を導入する。この劇では、部屋の奥に客席と平行に置かれた横長のソファがそのための小道具だ。上演台本には書かれておらず、演出の過程で置くことになったと見られるオレンジ色のソファ。ここに座って観客に正面から向き合う人物が、この劇では一貫して、その場における言説の主導権を握る。このソファに座った典子が、計画の根拠があやふやであることについて「・・・まあ、行くのは私たちだからさ」と投げやりな態度を見せたメンバーの篠田を難詰する場面。
篠田 え、
典子 それは、今回は、たまたまあなたが前線に行くってことでしょう。
篠田 いや、すいません。
典子 でも、私たちは、この革命を組織として闘っているわけでしょう。
篠田 すいません。
典子 それは、前線と後方支援を分断しようってことかな、
篠田 いえ、違います。
典子 ・・・それは、どうして、そう即座に違いますなんて言えるのかな。
篠田 え?
典子 だって、そういう部分は否定できないわけでしょう、私たちが後方で、あなたが前線だってところは。
篠田 はい。
典子 じゃあ、どうして、即座に否定できるの、そういうことを。
篠田 ・・・すいません。
典子 すいませんじゃなくてさ、
それまでのカジュアルな会話の様子から、漠然と党派メンバー間の平等を想定していた観客。しかしこの場面は、厳然たるヒエラルキーの存在をあらわにする。理論的指導者である佐々木を頂点に、今回の計画で後方支援を務める典子と武雄の夫婦(そして後に佐々木と共に登場する小坂)を幹部とし、それ以外のメンバーは彼らに従う。穏やかに見えた典子はこのシーンで、筋金入りの革命家の険しい表情と、言い逃れを許さない粘着性を見せる。この時、典子が座るソファの膝ぐらいの高さが、じゅうたんの上に直接座る篠田との越えがたい地位の差を現す。
その他の場面でこのソファに座るのは、組織の外部からこの部屋を訪問する人たちと、指導者佐々木だ。外部からやってくるのは、「町作り部会」の広報を引き受けるよう、彼らにとって「お隣のご主人」である武雄に迫る隣人たち、そしてシンパではあるが武装闘争については知らされていない山際と彼が連れてきた小学校の教師(杉本、柳田)である。
外部からやってきた人たちは、「お客さん」であり、組織外の社会秩序を代表する。「お客さん」たちは、武装闘争の計画を隠さなければならない党派メンバーたちよりもこの場では優位に立つ。党派メンバーに対して、自由に自分たちの言いたいことをいい、屈託のない表情を観客に見せる。その間、観客に背を向けた党派メンバーたちの表情は見えない。
ソファの象徴性は、組織の指導者佐々木と末端の女性メンバー立花の議論のシーンで最大限に発揮される。佐々木はソファの中央に座り、両側に女性メンバーの千葉、小坂を従える。佐々木を大柄な俳優が演じていることもあり、ソファがまるで玉座のようだ。一方立花は佐々木に向かい合ってじゅうたんの上に座っており、顔は観客からは見えない。
議論の種は組織内の男女関係である。佐々木が主導する空港突入・大使館襲撃の計画に立花は反対しているが、佐々木は、立花の恋人・桜井が実行メンバーになっていることが、反対の理由ではないかとほのめかす。立花はそれに対して怒る。
立花 ちょっと待ってください、
佐々木 あのね、誰もいまの議論の中でも口には出さないけど、やっぱり立花さんがそれだけのことを言うのは、桜井君との関係もあるからでしょう。
立花 え、なんですか、それ?
佐々木 いや、それは、意識するしないに関わらずね、そういうことを心配するっていうのは、通常の生活を送っている人間ならば、普通のことだと思うのね。
立花 いや、だから、ちょっと待ってくださいよ。
佐々木 でもね、僕たちは、革命をしようとしているわけでしょう。そういう議論の場でね、やっぱりそういう感情が見えてきてしまうっていうのは、どうなのかな。
立花 そんなの、だって、見せてませんよ、そんなこと。
佐々木 いや、だから、立花さんが見せてる見せてないの問題じゃなくてね、現に見えてしまっているものは、仕方ないわけでしょう。
立花 現にって、見せてないでしょう、そういうことは、
佐々木 あのね、最初にね、意識するしないに関わらずって言ってるでしょう。立花さんが意識するしないに関わらず、僕たちがね、すなわち、その論議を聞いていた客観的立場の人間がね、そう感じたってことがいまは重要なわけでしょう。
立花 でも、
佐々木 それが事実なわけでしょう。
立花 事実ってどういうことですか。
佐々木 客観的かどうかってことだろうね。
立花 だから、客観って何ですか?
佐々木 これじゃ、子供の議論だな。
立花 え、だって、(千葉に)だって、何、客観って?
この会話が示すものは、自分が客観的であるという立場を取りうること自体が、事実とは何かを確定する権力を意味するということだ。「私」の見方を「公」として打ち出すことができるものが権力者なのだ。
ここでの立花の声は、顔が見えないために、特定の顔・表情に結び付けられることなく、劇場内の空気を怒りで満たすようにして広がっていく。顔を出して語る者と、顔のない怒りの声のコントラスト。
日本における「公」と「私」は入れ子構造だと言われてきた。「おおやけ」とはそもそも「大きな家」という意味であり、つまりは「大きな私」である。欧米では「パブリック」は、すべての個人の上に共通して存在するものであり、一つの社会につき、ただ一つ存在するものだと考えられているが、日本の「公」と「私」には質的な違いがなく、ただ上に立つ者の「私」が、彼/彼女の下にいるものにとっては「公」となる。その「公」も、更なる上位者に対しては「私」となる。
家臣は自分が仕える家の都合に従う。それが家臣にとっては「公」である。その家の当主は、(例えば)大名に従う。この時大名は「公」であり、個々の家は「私」である。そして大名は、その上に立つ将軍家ないし天皇家に対しては「私」となる。このようにして、将軍家や天皇家の「私」が「公」として日本全体の秩序を規定してきた。
日本の伝統的な公私概念は現在でも健在で、私たちは自分の上位にあるものの「私」を「公」と見なして従うことを求められている。逆に言えば「私」をどこまで下位者に対し「公」として強制できるかが、その人物の社会的地位を現す。例えば私の勤める中小企業では、絶対者である社長の判断が「会社の判断」と呼ばれ、会議室で「会社」という言葉が口に出されるとき、社員たちは社長室の方向にそっと顔を向ける。一人の人物の「私」と「会社」という「公」はぴたり一致し、その外には何もない。
この劇の党派でも、組織の判断とは、立花が後に指摘するように、「実質的には佐々木さん個人の判断」である。武雄と典子がアジトを住まいにし、夫婦として暮らすことを許されているのは、彼らの組織内の地位が高いからだ。それに対して組織内の地位の低い桜井と立花の間の愛情はあくまで「私的」なものとされ、それを旗印に「公」である佐々木に逆らうことは許されていない。
この劇を通じて貫かれる「見える顔」と「顔のない声」の対比は、まさにこの日本的な「公」と「私」の具象化である。「私」の表情を観客(=「公」)に見せることができること。それこそが権力だ。下位の「私」の声は顔を与えられず、ただ虚しく空間を満たすだけなのだ。
この「公」と「私」の関係が揺らぐとき、暴力の可能性が生まれる。佐々木と立花の激しい議論はスリリングなものだが、それは立花に対する暴力の可能性を生々しく感じさせるからだ。
この党派のモデルと目される革命左派にも、永田と坂口だけが共に暮らし、自分と同志である恋人が表立って一緒に暮らせないことに不満を持っていた女性がいた。この女性は後に、恋人の子供を妊娠したまま、山岳アジトで総括(リンチ)死している。恋人は彼女を裏切り、生還した。
この劇では最後に、外出した篠田が何者かに襲われたという知らせが入り、佐々木、武雄らは一斉に出ていく。典子と、典子の妹・晴美の夫で党派の元メンバーの英夫が後に残り、意外な人物の短い訪問を間に挟んで、英夫に預けた一人息子のことや、うまくいっていないらしい晴美と英夫の関係などについて話す。
篠田を襲ったのが誰であるにせよ、ただでは済まない。暴力の黒い雲が接近しており、どんなきっかけで組織内部の粛清に発展するやも知れない。誰が死に、誰が傷つき、誰が生き残るのか全くわからない。
英夫との会話は典子にとって、小さな「私」の空間を確認する数少ない機会である。そのしんみりした調子は、文字通り嵐の前の静けさであり、戦士の休息のはかなさを感じさせた。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第84号、2008年3月5日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。大学卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。そのほか経済評論も手がけている。
【上演記録】
青年団若手公演「革命日記」
アトリエ春風舎(1月30日-2月12日)
作・演出 平田オリザ
出演 福士史麻 小林亮子 長野海 宇田川千珠子 大久保亜美 海津忠 木引優子 近藤強 齋藤晴香 酒井和哉 桜町元 佐山和泉 鄭亜美 中村真生 畑中友仁
スタッフ
舞台美術:杉山至
照明:岩城保
宣伝美術:京
制作:木元太郎 宮永琢生
追加公演決定
2/3(日)19:30
2/12(火)19:30
2/11(月・祝)19:30
チケット料金 前売・予約・当日共 1,500円(日時指定・全席自由・整理番号付)
・本公演は芸術地域通貨ARTS(アーツ)でもご観劇いただけます。
(1ARTS=1円。ARTSは、桜美林大学演劇施設内で施行されている地域通貨です)
主催 (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
企画制作 青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場