◎「羊のナイフ」-劇作家の覚悟が生まれた瞬間
徳永京子(演劇ライター)
太田省吾さんが存命中、ある年の岸田戯曲賞の審査を終えて書いた講評に「羊か狩人か」という文章がある。「作品をつくる時、観客を羊と想定するか、狩人と想定するか」という内容だが、その主旨は「戯曲を書く時、劇作家は観客の羊となるか、狩人となるか」と言い換えても差し支えないと思う。ストーリーの展開、それに付随する感情やカタルシスを、観客の望む種類のものにしていくのか、観客の予想や期待を裏切るのか。
もちろん、一般的な観客の嗜好は岸田戯曲賞の基準とは別にあり、すべての劇作家が「羊派」と「狩人派」に分けられるとも思わない。ましてや、どちらが悪い、正しいと言うつもりもない。観客にとってはどちらがより好きか苦手かであり、劇作家にとっては前者であれ後者であれ、最終的な着地点とそこに至るまでの過程を、どれだけ深く掘り下げられたかどうかが大切なのだ。
劇団ONEOR8の田村孝裕は、主に家族を扱い、家族ならではの軋轢と痛み、そして修復と再生を描くことが得意な作・演出家として認識されている。物語の途中にはタイミングよく笑いが挿入され、激昂があり、最終的には再生の兆しが用意される。その手腕への評価は高く、一部で“現代の向田邦子”と称されるのも何となく理解できる。仮に田村が「羊派」だとしても、かなり上級の「羊派」であることは間違いない。
『莫逆の犬』は、そんな田村の作品の中で、極めて異色の作品となった。同時に、大きな成果を得る作品となった。
主人公は、実母を殺して指名手配となりながら、恋人の家に潜伏して時効を待つ青年だ。彼の父もこの逃亡に加担し、息子と息子の恋人が住むマンションに定期的にやって来ては生活費を渡している。しかしやがて、事情を知らない彼女の弟がマンションにやって来て主人公と交流したり、当初は主人公と一緒に家にこもっていた彼女がパートに出るようになって、徐々にふたりの生活が変化していく-。
細かい設定にはいくつも無理がある。事件からそれほど経っていない時点で物語は始まるが、警察の存在がまったく出てこないし、青年の不自然な引きこもりに対して周囲の反応はあまりに牧歌的だ。また、彼女のパート仲間や弟の同僚のキャラクターは、いずれもステレオタイプ過ぎる。物語の出発点となる自分の罪について、主人公がほとんど感情的な思いを口にしないのも気になるところだ。
しかし、それらの欠点を差し引いてなお、『莫逆の犬』がこれまでの田村作品(2000年の第5回公演から全作を観ているが)より鮮やかに胸に刺さっているのは、たったひとつのせりふの力だ。パート先で新しい恋を見つけ、彼女はマンションを出ていく。荷物の引き取りに来た新しい恋人が「彼女は俺と新しい生活を始めている」と話す。それでも主人公は、彼女の心変わりを信じようとしない。最後の別れを告げに姿を現した彼女に、主人公は次々と“ふたりの大切な思い出”を話しかける。自分が風邪をひいた時のこと、彼女の弟がやって来た日のこと、インターネットの観光サイトで旅行気分にひたったこと、入浴剤で日本各地の温泉巡りをしたこと……。笑顔で「僕達、楽しかったじゃない」と話す主人公に、彼女はあっさりこう返す。「ごめん、何ひとつ覚えていない」
そのせりふを聴いて、鳥肌が立った。高い山の頂を一瞬で、深い谷底に変える言葉。世界の中心にいた主人公を一気に、宇宙の塵のような存在にする言葉。それは田村自身が、この作品で懸命に築き上げ、温度を通わせてきた物語を、自らが全面否定したせりふだ。これまで粛々と観客にとって心地よい作品をつくってきた田村は、このひとことのせりふで、観客を超えて自分に矢を放つ狩人となった。自分で自分に刃が向けられるか。この覚悟があるかないかは、劇作家にとって表面上の「羊か狩人か」の分別よりもずっとずっと重要な問題だ。たとえこの先、田村がウェルメイドなエンターテインメント作品を量産したとしても、核にこの覚悟が見えていれば、それが商業主義に組み敷かれたものでないと私は信じられる。
ただひとつ本当に残念なのは、息子を思う父親の善意が最も無責任で知性に欠け、恐ろしいものだということを描き切れなかった点だ。それを描けるポイントはいくつもあったし、それが出来れば一層、ラストが切り口鋭いものになっていたと思う。小林隆という上手い役者を配していただけに、なお、そこが惜しかった。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第93号、2008年5月7日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
徳永京子(とくなが・きょうこ)
1962年8月、東京都生まれ。演劇ライター。小劇場から大劇場まで幅広く足を運び、『せりふの時代』『シアターガイド』『weeklyぴあ』などの雑誌、公演パンフレットを中心に原稿を執筆。
【上演記録】
ONEOR8公演「莫逆の犬」(ばくぎゃくのいぬ)
作・演出:田村孝裕
新宿THEATER/TOPS(2008年4月17日-27日)
一般前売:3,500円 当日3,800円(全席指定・税込)
■CAST
田中直樹(ココリコ)
野本光一郎
恩田隆一
和田ひろこ
冨田直派
平野圭
伊藤俊輔
関川太郎
小林隆
■STAFF
作・演出:田村孝裕
舞台美術:中根聡子
照明:伊藤孝(ART CORE design)
音響:今西工
舞台監督:村岡晋、藤林美樹
宣伝美術:美香(Pre-graphics)
宣伝写真:山本圭二
■制作 高田雅士、岡本愛子、椎名浩子
■企画制作 ONEOR8