青年団「眠れない夜なんてない」

◎夢見る力に何かができるか?
大泉尚子

「眠れない夜なんてない」公演チラシ舞台は、南国リゾート地のホテルのロビーのようなしつらえである。バックには椰子系の観葉植物が置かれ、ソファと椅子に男と女がひとりずつ座っている。一人の女が現れて、何気なく言葉をかけ合い、暗転もないまま芝居は始まるともなく始まっている。

どうやらそこは、マレーシアにある日本人向けの宿泊施設らしい。滞在しているのは、中年から老境に入りつつある夫婦やひとり者。余生を静かに送りたい定年移住者たちという設定のようだ。その暮らしぶりからは、リッチとか優雅というよりはやや控えめな〝普通の日本人〟のそこそこのつましさがうかがえる。

そこに日本から、両親を訪ねる娘たちや、老後に備えて見学したいという友達夫婦がやってくる。異国の地で、幾組かの夫婦・親子、友達などが出会う。舞台上では、いろいろな組合せの数人が現われてはテーブルを囲み、少しずつメンバーを変えたりしながら会話が交わされる。さして重大な事件は起こらない。

だが、話が進行するうち、登場人物たちについてのいくつかの事実が判明する。実は、その父親は治ることのない病気にかかっていた…実は、友達だと言う相手は、本人が意識しているかどうかは定かではないが、パシリをやらせて自分をいじめていた張本人だった…実は、短期滞在でやけにいちゃついていた中年カップルは、離婚記念旅行だった…実は…。

途中で、中では異色の存在が一人登場する。ちょっとした手間仕事を気軽に頼める便利屋的な日本人の青年。彼は、定期的にではなく、気が向いた時にやってくるらしい。

それからもうひとつ、靴の中に紛れこんだごくちっちゃな小石のように、だんだんと気になってくるのは、なぜだか繰り返し話題に上るマレーシアの“セノイ族”のこと。セノイ族というのは、夢判断をし、こういう夢を見たらこう行動をすればいいというようなアドバイスをする部族だという。その村は観光村のようになっていて、滞在者の何人かは、興味半分でそこを訪れたりもしている。

便利屋の青年と滞在者のおしゃべりで、もうひとつの「実は」が明らかになる。青年は日本では、中学時代から不登校の引きこもりで、親や周囲に迷惑をかけないようにとマレーシアにやってきたのだった。

ところで、平田オリザの「創作ノート」によれば、「バンコクなどで引きこもりのような生活をする若者を『そとこもり』と呼ぶ」のだという。彼もその一人という設定だ。外に出る気になれないと、ネットをやったりして時間をつぶすが、それさえもやる気が起こらないこともある。そんな時は夢を見るだけが、それを思い出すのだけが楽しみだ。それも人生経験が少ないから単純な夢しか見ず、人を殺すか、自分が殺されるかのどちらかだと、彼はポロリと漏らす。ここでもまた、夢について語られる。

「眠れない夜なんてない」
【写真は「眠れない夜なんてない」公演から。撮影=青木司 提供=青年団】

そして終盤近く、それまでサラサラと流れるような、当たり障りのない会話に終始していた滞在者の女がこんなことを言い出す。あの人は絶対に友達じゃないからここには来させない、でもどこまで行っても日本が追いかけてくる、どうしたらいいと思う? と。そして別の男はこう言う。日本では死にたくない、どうしてかわからないが日本にはかかわりたくない、日本がたぶん嫌いなんだと思うと。

この芝居で、家族や友だちなどのグループが、さりげない言葉のやり取りを交わす中で、人間模様を徐々に鮮明に浮かび上がらせていくさまは、手練(てだれ)の技というよりない。

そして登場人物たちは、ラストシーン以外ではほとんど何も断言しないし、声高に語ろうともしない。普通の(と感じられる)しゃべり方、普通の(に聞こえる)声で話す。

そうなのだ。今や、何事も「こうだ」とは断言しかねる時代なのだ。足場がいつも、震度1か2くらいの感じで揺れているから。ややもすれば吐き気に移行しかねないくらいの目眩がしている。無理に言い切ろうとすれば、言葉にした途端に、そこら中に嘘のカスをばらまいてしまう。「ホントにそうなの?」という疑問が無数の泡のように立ちのぼる。言い切れるのはただ一つ「言い切れない」ということ。

だから人は饒舌になる。言い切れないもどかしさやためらいが、人をさらにおしゃべりに駆り立てる。果てしのないおしゃべりをして、本音を隠そうとし、同時に本音をちらりほらりと露わにしてしまう。おしゃべりの中に嘘とホントが攪拌されて漂っている。事件現場を囲む野次馬の人だかりのように、本当に言いたいことを遠巻きにして、その周辺で囁き合う。

その意味では、本当にウマいし、リアリティのある芝居だった。と、ここまではいい。でも、「引きこもり」と「夢判断のセノイ族」と「日本が嫌い」は、一体どうだっていうのだ?(三題噺ではないから、落ちはつかないのだろうが…)

引きこもりといえば、2週間くらいのプチ引きこもりは自分にも覚えがある。
最初は、自分が外に出たくないから出ないつもりでいるのが、そのうちだんだんと、見えない手で羽交い絞めにされているように、どうしようもなく出られなくなっていく。何もできないことの苦しさがいや増して、もうどん底かと思われた時、我と我が身を渾身の力をこめて、部屋からひっぺがすようにして、鉛の錘を引きずる重たい一歩を外へと踏み出す(それがいつかひっぺがせなくなるのではないかという恐怖心もある)。

そして確かに、引きこもりたくなる時は、現実にはどうにも手をつけかねて、フィクションやバーチャルな世界へと逃げ込もうとする。だから、最終的に眠りに逃げ込み、夢を見るのだけが楽しみ、起きればそれを思い出すのだけが楽しみというのはわかる。確かにわかりはするのだが、それでどうする?…という呟きが浮かんでしまう。

日本が嫌いという時の“日本”とは、自分の外側にある日本、それとも内側にある日本なのだろうか? 自分の内なる“日本人性”からはどうやっても逃げられない。現に、この芝居に出てくる定年移住者にしても、商社の駐在員にしても、日本人は日本人同士のコミュニティを作り、固まって生活しようとすることが多い。現地の外国人の中に飛び込んで暮らす人は少ないのではないだろうか。まさに「どこまで行っても日本が追いかけてくる」のだ。で、どうする?

ところで、セノイ族については、どこかで聞いた話だと思ったら、中沢新一『チベットのモーツァルト』に出ていたのだった。中沢は、人類学者キルトン・スチュアートの論文「マラヤの夢理論」をひきながらこう書いている。少し長いが引用してみたい。

「セノイ族の大人は、誰でもこの『夢解釈』についての知識をもち、自分の家族の夢を解釈し心理療法に役立てたり、子供の教育や日常の人間関係のなかに織りこんでいるのである」
「セノイ族の『夢解釈』は正確にいえばふつう『解釈』といわれているものとは違う。夢の内容になにかの意味を読みとることよりも、彼らの関心は夢の世界にさまざまなかたちをとって現われてくる、あらゆる力をコントロールすることによって、夢の内容を『鋳直し』、心的な力に有用な方向付けをあたえていくことにある。だから彼らの『夢解釈』は夢を理解することではなく利用することを、つまりは夢見のプラグマティズムをめざしているのである」
「セノイ族の子供たちはどんな夢を見ても(それがエロティックなものであればあるだけ)、それに罪悪感をいだいたり、ひた隠しにして抑圧したりしてはいけないと教えられる。そのうえで父や兄のアドバイスを受けながら、しだいしだいに自分の見る夢の内容にコントロールを加えることができるようになる」

ここに書かれたことを信じるならば、セノイ族は、夢を解釈するだけではなく、そこから夢をコントロールする、見たい夢を見る力、つまり“夢見力”をもつようになれるという。そしてこの夢見力は、現実の人間関係などにも有用に作用するというわけだ。突飛な考え方のようでいて、ここには示唆深いものが感じられる。確かに、人を殺す夢を見たら、罪悪感を感じたり隠したりしないで、それを認めて受け入れることや、信頼できる相手に話すことから、何かが始まるのかもしれない。

定年移住者とそとこもりの話に、セノイ族の夢見の話をもってきたのは慧眼だと思う。そこには、袋小路に入り込んでしまって、現実に対してにっちもさっちもいかなくなった人間の頭上に差し込む微かな光が感じられる。

だがこの芝居ではまだ、その夢見力が現実へ及ぼす力を持つには至っていない。夢見力が現実に力を及ぼせるかどうか、それを信じることができるかどうかが、どうにも気になってならない私には、焦点を絞ってそこを描ききってほしかったという強い想いが残った。
(初出:「マガジン・ワンダーランド」第101号、2008年8月20日発行。購読は登録ページから)

【略歴】
大泉尚子(おおいずみ・なおこ)
京都府生まれ。芝居やダンス、アート系イベントが好きな主婦兼ライター。「アサヒ・アートスクエア」インターン。時には舞台のスタッフボランティアも。

【上演記録】
青年団第56回公演「眠れない夜なんてない」(A Long Night in the Tropics)
吉祥寺シアター(2008年6月27日-7月6日)

作・演出:平田オリザ
出演:篠塚祥司(客演) 大崎由利子(客演) 山内健司 ひらたよーこ 松田弘子 足立 誠 山村崇子 志賀廣太郎 辻美奈子 天明留理子 渡辺香奈 大塚 洋 大竹 直 髙橋智子 堀 夏子

入場料:一般 3,500円  学生・シニア(65歳以上):2,500円 高校生以下:1,500円(日時指定・全席指定)
ポストパフォーマンストーク(6月29日17:00公演終了後)平田オリザと志賀廣太郎 出演

スタッフ
[舞台美術]杉山 至
[照明]岩城 保
[舞台監督]中西隆雄
[衣裳]有賀千鶴
[宣伝美術]工藤規雄+村上和子 太田裕子
[宣伝写真]佐藤孝仁
[宣伝美術スタイリスト]山口友里
[制作]西山葉子 野村政之
[協力](有)あるく (株)アレス (有)レトル
[撮影協力]藤乃湯
[企画制作]青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催 (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場  平成20年度文化庁芸術拠点形成事業

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