東京デスロック「演劇LOVE2008~愛の行方3本立て~ 倦怠期(CASTAYA)」

◎地図も磁石も手放した多田淳之介の、唯一の持ち物。
徳永京子(演劇ライター)

考え続けているのは、多田淳之介の時間の感覚だ。
『CASTAYA』は、東京デスロック『演劇LOVE2008~愛の行方3本立て~発情期・蜜月期・倦怠期』の「倦怠期」として上演された。発情期は『ドン・キホーテ』、蜜月期は『ジャックとその主人』と、既存の小説あるいは戯曲に、多田流の「発情」と「蜜月」の解釈をシンクロさせた作品だった。そのシリーズにあって『CASTAYA』だけが、事前に内容を伺い知る材料が何もなかった。「演出家Enric Castaya氏の意向により、事前に出演者は公表しない」と、どんな出自の役者が何人出てくるか、そのヒントすら観客に与えられなかった。

果たしてその中身は、舞台にひとりの女優が登場し、正面を見据えたままほとんど動かず、真顔から笑顔になったり苦しそうな表情をしたり涙を流す。その間、無音で照明も変わらない。やがて彼女がハングル語で短いモノローグを喋って終わり、というものだった。それまでが45分。正確にはその後、韓国人女優とCastaya氏と通訳が登場、ポストトークの内容まで含めてが『CASTAYA』という作品で、Enric Castayaが多田の変名であることを、大半の観客はその時点で知ることになる。

つまり『CASTAYA』とは、喋らず動きもしないひとりの役者を45分間、ひたすら見続け(させ)る体験だった。図らずもこうした舞台の観客となってしまった時、その人間の思考に立ち現れるのは、最初は当然、「これから何が起きるのか」という期待と不安であり、沈黙が続くうちに「この状態はもしかしたら終わらないのか」と戸惑いへと変わり、次第に「演出家の意図は」という疑問、「自分は試されているのか」といった猜疑心、全体の進行を掌握しながら何も教えてくれない役者への反発、その微妙な変化にドラマを見出すことができないことから生まれる退屈との戦い、それらのミックスといったものだろう。その足し算の答えは当然、「この感情こそが倦怠ではないか、と演出家がメッセージしている」ことへの気付きである。
怒って帰る観客もいるかもしれない、帰らないとしても「何もしない」舞台は受け入れられるのか、という危惧を振り切ってなされたこの試みと、それに伴うこうした一連の流れに、私はさほど大きな衝撃は感じなかった。

「倦怠期(Castaya)」公演から

「倦怠期(Castaya)」公演から
【写真は「演劇LOVE2008~愛の行方3本立て~」公演から 提供=東京デスロック】

私が観た日の“本当のポストトーク”でも挙がっていたが、思い出すのはジョン・ケージ作曲の『4分33秒』という楽曲だ。演奏者が出てきて楽器の前で何もしない時間に観衆が耳にする自然の音、雑音がすでに音楽だ、というコンセプトでつくられたものである。ケージの友人の画家ロバート・ラウシェンバーグは、何も描いていないただのキャンバスを『白い絵』というタイトルの作品にした。あるいは、05年のアート展『バ ング ント』で、飴屋法水が小さな木箱の中に入って会期中そこから一歩も出ず、ただ展示物として生きたインスタレーションもあった。「観客を集めながら何もしない」ことへの関心は多くのクリエイターの脳裏に1度は浮かぶことだろうし、実行した先人も少なくない。

また、多田個人の仕事を振り返っても、傑作と呼ばれる『再生』、前回公演の『マクベス』はもとより、ここ数年の多田はひたすら、テキストを廃し、舞台上の役者が発する空気の圧力を上げることで、観客に自らストーリーを育ませることに熱中している。そのベクトル線上に今回があることは、とても自然な気がするのだ。

ただ、劇場の圧力を上げる装置としてダンスを多用し、ストーリーを導きやすくために音楽の力を借り、あるいは着物という拘束服で役者の動きを制限し、内圧を上げることに着目した多田が、この『CASTAYA』ではそれすら手放したことに大きな意味がある。「演劇ツアーに行きましょう」と声をかけて人を集めては、参加者に地図も磁石も渡さず荒野を行ったのがこれまでの多田だとしたら、『CASTAYA』では多田自身が地図も磁石も持たず、初めての土地に分け入ったのではないか。
そして手ぶらの多田が、演劇の森を歩く唯一の道具にしたのは、彼の時間に対する感覚に他ならないと思う。

多田の時間感覚は、「これはお芝居か、本当か」という判断をうやむやにする時、抜群の力を発揮する。
この夏、キラリ☆ふじみで地域の小学生を対象に、ワークショップからひとつの作品をつくる演劇公演『キラリ☆えんげきっず』が行われた。4グループのひとつを多田は講師として受け持ったのだが、劇中で子供達に鬼ごっこをさせる時間の絶妙な微妙さに舌を巻いた。ストーリー上に必然性があるからしている(お芝居?)→必然性にしてはちょっと長い(本当?)→でも登場人物としての仲の良さにも見える(お芝居?)→普通に必死に走っているようにも見える(お芝居?)という2方向の意識の行き来が、メビウスの輪のように循環になるジャストのタイミングまで、鬼ごっこは続いたのだ。

おそらく今回も、その鋭敏な時間感覚が「ここまでがギリギリ倦怠、ここからが過半数の退屈」「ここまでなら好意的な関心、これ以上は拒否」といった線引きを正確に行い、だからこそ成立した試みであることは間違いない。その時間感覚は、限りなく皮膚感覚に近い。「なんだかウソくさくて恥ずかしいもの」を舞台上から排除していくのが現代口語演劇の目的のひとつであったことを考えれば、その排除の指針が頭で考えた理論ではなく、ここまで生理に近づいたことで大きな変化と成長を遂げたと、ひとつの句読点を打って評価したい。

【筆者略歴】
徳永京子(とくなが・きょうこ)
1962年8月、東京都生まれ。演劇ライター。小劇場から大劇場まで幅広く足を運び、『せりふの時代』『シアターガイド』『weeklyぴあ』などの雑誌、公演パンフレットを中心に原稿を執筆。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tokunaga-kyoko/

【上演記録】
東京デスロック「演劇LOVE2008~愛の行方3本立て~」から 倦怠期「CASTAYA」)
リトルモア
作・演出 ENRIC CASTAYA
出演 カン・チョンイム(韓国)

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  1. ピンバック: masayukisakane

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