ぶんげいマスターピース工房「三人姉妹」

◎今、「三人姉妹」をどうするか? その傾向と対策
 高木龍尋

 ごまのはえが『三人姉妹』をやる……正直なところ戸惑う。ごまのはえといえばニットキャップシアターの主宰であり、作・演出をする毛深い髭面のずんぐりむっくり(失礼しました)である。その容姿を逆手にとって(?)、女装しドレスを着て胸元から地毛をわっさりと出して観客にある意味の嫌がらせ(重ねて失礼しました)をする男である。そんなニットキャップシアターの作品を観ていると、チェーホフがどうなるのだろう、どうなってしまうのだろう、といささか心配になってくる。しかし、今回は〈ぶんげいマスターピース工房〉という企画、昨年あったチェーホフの短編戯曲の競演で最優秀となったことで、今回の『三人姉妹』上演の運びとなったという。要は、『三人姉妹』をごまのはえがどうごまのはえ風にするかということである。

 さて、真っ向から変えている、というよりも弄くっているところをあげるとすれば、場所がロシアでもなく、地球でもなく、どこかの星だということ。長距離の移動手段は電車でも馬車でもなく宇宙船のよう。ただし、三人姉妹が憧れる星の名は「モスクーワ」である。そして、イリーナに迫力があること……これは配役の問題か…… トゥーゼンバフが醜男であること。ヴェルシーニンが帽子をとるとそこには髪が一本もないこと……と挙げてゆくと細々と見受けられるのだが、これらはやはり些末的なことでしかない。イリーナの誕生日の祝いがバットで、悲しみのあまり暴力的になったイリーナが振り回していたとしても、『三人姉妹』は『三人姉妹』であった。この公演のひとつの方向性として、神西清訳の『三人姉妹』のテクストを変更しないというものがあったのではなかろうか。ごまのはえ流の茶化しは入っていたとしても、それが『三人姉妹』の構造と意図を崩すことはなかったように思われる。だが、この公演を観終わると、演出家が『三人姉妹』に懐疑的であるということが誰にも感じられたのではないだろうか。作品自体の出来という意味ではなく、作品の書かれた時代の思想、作品の思考に対してである。これは痛烈であったといえるのではないだろうか。

 舞台は、宝塚を思わせるような踏み板だけの大階段があって、途中に2段の踊り場が設けられている。踊り場の両端には袖へ続く階段が付けられていて、上の踊り場の中央には柱にも大木にも見えるものがまっすぐ縦に貫いている。踏み板の隙間からは柱の木の幹が透けて見え、その下にはプローゾロフ家の食卓が見えている。大掛かりではあるがシンプルな舞台で『三人姉妹』は展開される。チェーホフの書いた通り、オーリガは学校の仕事に悩み、マーシャは夫との生活に沈み、イリーナは働くことへの意識と希望と現実の間で苦しむ。他の登場人物も同じことで、極端に言えばロシアの土地がどこかの星になったくらいで、プローゾロフ家が駅からかなり離れたところに住んでいることもそのまま出てくる。

 そのような舞台の展開の一方で、ちょっとしたサブリミナルのように聞こえてくる、舞台の上の役者たちが発していない、姉妹たちの台詞の録音が流される。一部ではあるが、幕開きにオーリガが姉妹の父が死んだときのことを語る台詞から始まっていた。抑揚を抑えた朗読に近い発声で、神西訳のチェーホフの言葉が明瞭に響いていたが、それはどことなく舞台の別の世界、いやもっといえば、舞台の世界を外側から幕で包み込むように存在しているかのようである。途中も何度となく、録音の台詞が流れてきたり、舞台上の役者の発声と重なったりして現れてくる、その場で発せられたものではない声は、あたかも舞台を支配しているようであった。つまりは、戯曲というテクストが舞台上にいる登場人物、ひいては人間を支配するような構図にみえてくるのである。

 だが、登場人物、あるいは人間もその声に気づくときは来るのである。この『三人姉妹』においては、最後の場面において決定的に現れた。ヴェルシーニンたちの旅団が去り、ソリョーヌイにトゥーゼンバフが殺され、頼るべきものを失った三人は打ちひしがれる。そこへ、テクストの台詞が流れ始め、勝手に登場人物たちへ生きることと働くことの決意を強いてくる。しかし、いま大きな寂しさと悲しみと虚無感を抱え込んだばかりの姉妹にそれを受け入れることはできない。まして、自分たちの苦しみが次の世代の喜びや幸福に変わることなど認められるわけがない。迫ってくる台詞に「私たちはどうなるの!?」と抵抗するが、闇に飲み込まれるようにして三人の絶叫は消え、「それがわかったら、それがわかったらね」と落ち着いた口調の声で舞台は終わる。

 ここに反映されているのは演出家の抵抗感なのであろうが、それはそのまま現代からみた抵抗感であろう。少なくとも、現代の日本から見れば、努力し苦労することがあったとしても、自己実現することが目標ということになっているようである。自分なりたい自分になる、というのはどこかのCMコピーであったような気もするが、それを求めることは自由だとされている。その一方で、組織と規則の縛りの中にありながら他の誰でもない自分をつくり出せ、という無理矢理な自己実現もあるようだ。それに賛同しているかどうかは別にしても、現代の目からみれば、今の苦労が次世代の幸福になる、などというのは疑わしいこと限りない。自己実現が容易ではなかった時代、現代社会が構築されつつあった時代にはこの思考にも不承不承納得できる部分があったのかも知れない。しかし、社会システムそのものが幻想であったかも知れないと気づき始め、綻びを見つけ始めた現代の人間がそれを受け入れることができるだろうか。それよりも、私はここにいる!、私は私だ! と叫んでいることの方が納得できるだろう。演出家はその差違を舞台に載せたかったのではないだろうか。ただし、姉妹の絶叫が闇に飲み込まれたように、私はここにいる! という意識も幻想であるかも知れないということを含みながら。
(2008年8月31日 京都府立文化芸術会館)

【筆者紹介】
 高木龍尋(たかぎ・たつひろ)
 1977年岐阜県生まれ。高校教員。大阪芸術大学大学院芸術文化研究科博士課程修了(文芸学)。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takagi-tatsuhiro/

【上演記録】
ぶんげいマスターピース工房 Vol.2 『三人姉妹
京都府立文化芸術会館ホール(2008年8月30日-31日)
作:アントン・チェーホフ
訳:神西清
演出:ごまのはえ(2007年度「競作・チェーホフ」の上演演出家の中から選出)
出演:
 オーリガ  日詰千栄
 マーシャ  長沼久美子
 イリーナ  岡部尚子
 アンドレイ 安田一平
 クイルギン 大木湖南
 アンフィーサ 長田美穂
 チェトブイキン キタモトマサヤ
 トゥーゼンバフ F・ジャパン
 ソリョーヌイ 尾方宣久
 ヴェルシーニン 平岡秀幸
 ナターシャ 弓井茉那
 フェラポント 高澤理恵

★各回ポストトーク
ゲスト:8月30日…三浦基(地点)8月31日…上田誠(ヨーロッパ企画)
司会:橋本裕介(舞台制作者)


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