上品芸術演劇団「あたしと名乗る私」

◎存在と言葉へのこだわり、たとえばオノマトペなど
高木龍尋

「精華演劇祭vol.12 DIVE Selection vol.3 中島陸郎没後10年に捧ぐ『円形舞台への挑戦』」チラシ地上32階のレストラン…行ったことはないし、行こうともあまり思わない。高級なのだろうけれども、3階以上のところに住んだことがなく、10階以上の建物にもなかなかお目にかかる機会がないところで育った私には何となく縁遠い気がする。おそらくは、作・演出の鈴江俊郎さんもそのような気分の持ち主ではないだろうか。

リーフレットに鈴江さんが載せた「街がおもちゃに見える場所」には、高台から見下ろした景色とその感覚が地面近くに生きる私たちとは隔絶しているのではないか、という旨のことが書かれている。生まれたときからタワーマンションなどに住んでいる子どもは成長したらどんな感覚を持っているのだろうか。わからない。3階以上のところに住んだところのない私は、大阪の街に出てオフィスビルやホテルやマンションの群を見ても、どうにも物体としての存在にしか思えない。建物には多くの人間が関わったり、或いは存在していたりするのは確かなのだが、その人間の気配を感じられないのである。部屋の照明が点いたり消えたりを見たとしてもである。と考えてみると、この感覚は作品の登場人物が下界を右往左往する人びとを「虫けら」「つぶしちゃえ」「ぶちゅぶちゅ」というのと通底しているのかもしれない…。

などと書き始めれば重たい作品のようだが、確実にこの作品は喜劇である。登場人物も至極フツーの人たちだ(鈴江さんが特殊な人物を書いたことがあっただろうか、内面はさておいて)。地上32階のレストランは、その至極フツーの人びとの感覚をおかしくさせる装置なのであろう。感覚を少し(?)おかしくさせた上で、平素の生活ではあり得ないことを言わせる。それは登場人物たちの思いもよらないことであるが、本心には違いない。しかも、それは機会があれば洗いざらい吐き出してしまいたいことなのだ。このこと自体、何の変哲もないような気がする。

登場する人物たちはそれぞれに心の中に鬱積するものを抱えている。4人のOLたちは恋愛と仕事、夫婦は経営する会社の倒産とこれからの生活、レストランに勤める従業員たちは職場の分裂騒ぎと現状、退学した大学生と大学事務員は働くことと未来、とそれぞれに不満を抱えているか、現状が変化してゆきそうになることに耐えきれないか、である。舞台の上で(大学で働いているときからひと言も発しない事務員は除いて)それを入れ代わり立ち代わり口に出してゆくことで物語(物語らしき物語というものはないのだが)は進んでゆく。そして、何も結論が出ず、堂々巡りのままに終わってゆくのだが、この結末が堂々巡りになるのはある面で自明のことであろう。これがいいと望んだとしても十全に叶えられることはまずないだろうし、それに近い状態にあったとしてもいつまでも持続するとは限らない。時の推移や人間関係の変化によってその願望も変わってゆくから、鬱積するものが何もないということはあり得ない。いつまでも続く不足や不満に対して、完全なる解決や打開などというものはないのである。登場人物たちもそれがわかっている。わかっているけれども、誰かに話したところでどうにかなるものでもないし、却って泥沼にはまることになるかもしれない。けれども、話さなければ息が詰まるのだ。

ただし、舞台の上の物語をいつまでも堂々巡りにしておくわけにはいかない。そこでふっと窓の方に目をやると、向こうに見えるビルの屋上に人が見え、しかも柵の外に立っているのがわかる。どうやら飛び降り自殺志願者のようであるが、立ったり座ったりを繰り返しているばかりで、今にも飛ぶような気配は感じられない。この自殺志願者に視線を向けることでそれぞれの登場人物たちの会話は切り替わるのだが、4つのグループのそれぞれに自殺志願者の姿は見えている。つまり、入れ代わり立ち代わりしながらも、この登場人物たちは同時にひとつのレストランに存在している。ということは、それぞれのグループはそれぞれに関係を持つ人間に対してしか意識がなく、レストランの中の空間にいるはずの他の人びと対して関係がなければいないのと同じ、ということを示しているのであろう。
例えば、OLたちには会社の倒産した夫婦は関係がなく、同じ場にいたとしても余程の何かがあって気を惹かれない限り、存在しないのと同じなのだ。けれども、レストランの従業員が客の話をしている時間帯に店の片づけをしながら話しているということは考えにくい。とすれば、何度も繰り返される堂々巡りが残像のように重なって映し出された、いわば場所の記憶ということになろうか。結局はどちらでもよいのかもしれないが、思い悩むことは数知れないのに、それにはほとんど答が出ない、出ないよりも前に別のことが現れてそちらが気にかかってしまう、という現代人の現状を描いているのであろう。立ったり座ったりという自殺志願者も、ひとつのビルに1回だけ現れるとは限らないだし…。

さて、この作品の構図をみればこのようになると思われるが、それ以上に観ていて惹かれるものがあった。それは作者が登場人物たちに言わせた言葉である。その中でも、オノマトペと譬喩にはとても笑わされながら納得させられた。

OLのひとり、谷加寿子の付き合って3年3ヶ月になる彼氏は彼女に対して言葉のかぎりを尽くしてくれる。だが、全く手を出して来ない。その手出しのことを加寿子は「さわさわせん」「こしょこしょせん」と言う。結局は他のメンバーにはうまく伝わらず、そのものの言葉を言わねばならなくなってしまうのだが、ここで音の感触で様態を伝えるオノマトペが実際の行為を婉曲的に表現し得ることも改めて感じさせられた。口憚られるようなことを言わねばならないときのオノマトペ、そういえば大昔に放送にのせられないようなことをチョメチョメと置き換えた司会者がいたなぁ、と思い出したりもしたが、それが恋愛と仕事に悩みを抱えるOLという生き物のもどかしさを衝いているようにも感じられた。そしてまた、加寿子が放った、彼氏が手を出して来ない安全度を表現する譬喩「ノーデインジャラス。ノーリスキイ。ビッグシップオンザびわレイク」=「琵琶湖の上で大船に乗る」という思い切りのいいカタカナ英語には笑った。そして勿論、その解説をOLたちがしていくのだが、再度出てくるときには「びわレイク」が「はちろうがた」に変わり、更に安全度が増した。会話の途中に突然カタカナ英語で絶叫するから、一瞬何を言っているのかわからないところもあるのだが、このベタな機転には、関西に生息する結婚に意識の大部分を占められている女性、といった感触がする。言うまでもなく、まだまだ苦労する人なんだろうな、と観客のほとんどが思うのだが。

さて、この作品は言葉への気遣いが強いように感じられる。「あたしと名乗る私」というタイトルは、会社が倒産した夫の若い妻が「わたし(わたしが)」と言うところを「あたし」と言うことに憧れを持っていたことを語った部分から来ている。子どもの頃アニメの主人公が自分のことを「あたし」と言っていたのを聞いて、それなりの家庭に育ち「あたし」と言うことを許されなかった「わたし」にはない快活さを持っていることが羨ましくて仕方がなかったというのだ。だが、会社が倒産することで厳しい生活に陥ったとき、育ちの良さとその教育から出来なかったことが叶えられるかもしれない、と脳天気に空想する。登場人物のキャラクターがその台詞によってかたちづくられることは言うまでもないことだが、登場人物に言葉をこだわらせることで、それぞれの個性が強くなる。この作品の中でOLたちの言葉は彼女たちのものでしかなく、夫婦も、店員も、大学生も、全く声を出さない事務員であってもその無言が、人物を際立たせる。その個性が強くて「ありえない」と頭の片隅で思わせながらも、別の頭の片隅で現実世界のどこかに「いるかも知れない」と思わせる人物をつくりあげるのが鈴江さんの力なのだろうと思われた。

このようなこだわりは舞台の上では必要だし面白いことなのだが、現実の世界にそのこだわりがあったとしても、生きにくい上に、他人にはどうということもない、とりとめのないことである。たとえば自殺者の悩みも生きている人からみればとりとめのないことかもしれないのだが、この作品の登場人物たちは窓の外の向こうのビルに立っている人を見ることで、そのとりとめのなさを反射される。自殺(しようとしている)者にとってはレストランの客たちの悩み、レストランの客たちの存在、地上32階のレストランの存在自体がどうでもいいことだ、という可能性もある。それは多分、他の存在を意識することも少なくなり、意識して他の存在を感じないようにしている現代を映しているようでもある。
(2009年2月22日昼 大阪・精華小劇場)

追記
上品芸術演劇団「あたしと名乗る私」は精華小劇場主催の精華演劇祭vol.12参加作品で、皮切りとなる公演であった。今回の演劇祭は中島陸郎へのオマージュ企画である。中島陸郎は1950年代後半から演劇に携わり、前衛演劇集団大阪円形劇場・月光会、オレンジルーム(現HEP HALL)、ウィングフィールド、芸術創造館などの創設・プロデュースで活躍した。1999年に68歳で亡くなり、2009年は没後10年となる。そのため、円形舞台を組んで公演を行うというコンセプトのもと参加6団体が公演する。私が演劇を観るようになった頃にはもう中島氏は鬼籍にあった人であり、私がどうこう言う立場ではない。氏についてはその著書などを御覧いただきたい。また、演劇祭開催中、3回の座談会が催され、3月17日~22日にDIVE(大阪現代舞台芸術協会)プロデュース「中島陸郎を演劇する」が上演されたことを付け加えておきたい。
それから、上品芸術演劇団「あたしと名乗る私」は今公演だけのようである。以前に同劇団の公演を観たときにも思ったのだが、観応えのわりにはチケット代が驚くほど……お手頃。良心的と言おうか、欲がないと言おうか。いかにも、鈴江さんとその仲間たち、らしい。その欲のなさがちょっと勿体ないというか、もっと多くの人に観せてあげてよ、という気がしてしまう。小さな佳品がひっそりとある、というのは貴重でうれしいことことだが、その反面、もっと、と思ってしまう。
(初出:マガジン・ワンダーランド第132号、2008年3月25日発行。購読は無料。手続きは登録ページで)

【筆者略歴】
高木龍尋(たかぎ・たつひろ)
1977年岐阜県生まれ。大阪芸術大学大学院芸術文化研究科博士課程修了(文芸学)。大阪芸大文芸学科時代、非常勤で出講されていたとある先生と出会ってしまい、演劇を観るようになる。唆されるように(?)観た作品について書くようになり、ちょっと誉められても思わず疑ってしまうようなダメを出され続けながら、気づけば現在に至る。現在、高校講師。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takagi-tatsuhiro/

【上演記録】
上品芸術演劇団あたしと名乗るこの私」(精華演劇祭vol.12 DIVE Selection vol.3)
精華小劇場(2009年2月21日-22日)

作・演出:鈴江俊郎
出演:
押谷裕子
鈴江俊郎
清良砂霧
脇野裕美子
梶川貴弘
阪本麻紀(烏丸ストロークロック)
清水陽子
大藤寛子
高橋志保
原聡子
山本正典(コトリ会議)
料金:前売 1,800円/当日 2,000円

主催:精華小劇場活用実行委員会/精華演劇祭実行委員会/大阪市
共催:NPO法人 大阪現代舞台芸術協会

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