マリウス・フォン・マイエンブルグ作、松井 周演出「火の顔」

◎その断面は体液の滴るほど切り口鮮やかだった
大泉尚子

チラシには「自傷、引きこもり、親子間のコミュニケーション断絶など、戯曲が描く父母姉弟・四人家族の姿は現代日本の病巣と重なり…」とあるが、ふだんならこういう芝居には絶対行かない。だって、そんなものを「こんなです」と〈サンプル〉として見せられたところで、何の解決策も見出されるわけでもなく、「それで? だから?」と言いたくなる。第一、暗いし重いし、何で金払ってそんなもん見なきゃならないんだ!

ところで、この芝居にかかわったのにはわけがある。実は私は「フェスティバル・トーキョー(以下FT)」のボランティア・スタッフを志願していたのだが、この作品はそのFTの一演目で、偶然にも、制作の手伝いとして担当に当たってしまったのだった。それも以前、松井周作・演出の「家族の肖像」を見た時、正直に言えば先のような感想をもち、まったくもって気が進まなかったのだが、いかんせん日程的にちょうど合っていたというきわめて物理的な理由で、そういうはめに陥ってしまった。そして、稽古を数回とゲネプロ、観客が比較的少ない日の本番もこれに付き合った。
ところが、ところがである。結果的にこの舞台は、そんなグズグズの想いをものすごい起爆力で吹き飛ばしてくれたのだった。こういうテーマで、ここまで強烈なメッセージを打ち出せることに、体内で弾けるような衝撃を感じた。

「火の顔」は、両親と、姉・オルガ、弟・クルトの四人家族の物語。どこにでもありそうな一般的な中流家庭で、子供たちは思春期の真っ最中。親たちに激しく反抗している。


「火の顔」公演から

「火の顔」公演から
【写真は、「火の顔」公演から 撮影=青木司 提供=フェスティバル/トーキョー 禁無断転載】

細かなエピソードが重ねられる。クルトは、母親がうっかりトイレを生理の血で汚し、そのことをきっかけに両親が性教育を始めようとすると、聞きたくないと席を立つ。彼が、浴室兼洗面所で歯を磨いている時、母が体を拭き出すと、唾を吐き顔を背ける。母親の女としての側面を見たくないし、親子という上下関係を盾にして、自分を懐柔しようとするのも嫌なのだ。オルガも、母が男と安易にセックスしないようにと注意すると、猛烈な拒否反応を示す。そんな、日常的でこの年代の親子にありがちな出来事が次々と起きるうち、軋みを立てて断絶は深まっていく。

オルガとクルトは、親を嫌悪する気持ちを共有することで、お互いに強いシンパシーを感じ、二人だけの世界に閉じこもっていく。性に目覚める年頃のクルトを、オルガは挑発し、二人は近親相姦に陥る。クルトはオルガとの関係に没入していくが、オルガはどこかでマズいと感じており、クルトはオルガのそんな徹底しないところを、鋭く予感もしている。

この家族の前に、一人の男が登場する。オルガが誘いをかけてボーイフレンドになったパウル。彼はオートバイ好きで、オルガを後ろに乗せて走ったり、一緒に映画を見に行ってキスをしたりといった、ごく普通の付き合いが始まる。
パウルが家にやって来ると、両親、特に父親は歓待し、彼は徐々にこの家族に入り込んでいく。当然、クルトとパウルは、オルガを間に強く反目し合う。オルガは自分の気持ちに忠実で、どちらかに惹かれればもう一方には反発するというシーソーゲームを繰り返し、二人の間を揺れ動く。
パウルは平凡な男だが、酒が原因で勤めている店を辞めさせられたり、父に借りた金が返せずバイクを売り払ったり、酔っ払って家に現れ大暴れしたりする。だがそれらのことは、ガチガチに硬直して抜き差しならなくなろうとしているこの家庭に、一陣の世間の風を吹き込んでくれる。

そんな中、クルトは加速度的に自閉を極めていく。彼が強くこだわっているのは〈火〉。火フェチ、火オタクと言ってもいい。最初は、物を燃やすことから始まり、爆弾を作ること、建物の放火へとエスカレートしていく。学校の教室のカーテンに火をつけ、燃え広がった火で顔に大やけどを負うという、自傷的な行為も半端ではない。火を万物の根源と考えた、ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの書物を読みふけり、その執着は深く観念的な面にも及んでいる(確かに、火は人の心を惹きつける。火事には野次馬がつきものだし、焚き火や暖炉の火が燃えるのを見ていると、時のたつのを忘れる。気持ちが落ち着くようでいながら、同時に体の奥で高揚するものがあるのは、身の内の太古の血が騒ぐせいだろうか)。

両親は、子供のことで深く悩み、はねつけられても受け流したり、懲りずに話しかけたり、一緒にサッカーをしようと持ちかけたりと、涙ぐましい努力で関係の修復を試みるのだが、ことごとく拒絶される。
この夫婦はといえば、エンジニアの夫は、売春婦の連続殺人に興味をもち、新聞の三面記事を読みふけるようなタイプで、妻はそんな夫に苛立ちを隠せない。そして彼女が娘に言う、痩せてガリガリなあなたは決して魅力ある存在ではないけれど、男はセックスだけはしたがるから気をつけなさい、という言葉。ここには、母親としての心配と同時に、少女から女になりかけている娘に対する嫉妬がほの見える。でもそれは、世の中によくあることのうち。彼らは、クルトの異常性をパウルに指摘されても、信じたくないがゆえに毅然とした態度がとれない。俗物的ではあるが、同時に、適度に知的で良心的な面も持ち合わせていて、子供を愛するごくごく一般的な親たちなのだ。
最初、倦怠期にあった彼らは、皮肉にも、子供たちの離反、深刻な自閉に振り回されるうち、徐々に心を寄り添わせていく。もしかしたら、私たちを仲良くさせるために、子供たちは演じてるんじゃないかしらという母の言葉は切ない。あと1、2年たてば、元の静かな暮らしに戻るだろうと、彼らはか細い希望をつなぐ。

ところが、近所の連続放火がどうやら息子の仕業だと気付く両親。理解できずに混乱しつつ、息子自身を守るためにも、警察に引き渡さなければならないと本人に宣言する。ここに至って、オルガとクルトは、夜寝ている両親をハンマーで撲殺する。時間がたつにつれ食べ物もなくなり、耐えられなくなって動揺するオルガ。そこにパウルがやってきて事態を知る。オルガは、すべてはクルトがやったことと罪を着せ、パウルに連れ出されて家を出る。最後にクルトは、自分の生まれた時の様子を語りながら、ビニールを体に巻きつけて上手から下手へとゆっくりと転がっていき、それはあたかも、母の胎内の羊膜に再びくるまれたかのようだった。そして暗転。

さてここで、主人公のクルトとオルガの二人は、大人を吐き気がするほど嫌悪しているが、セックスはしたい。つまり大人になりたくないがなりたい、という自己矛盾を抱え持っている。

クルトは自分の内部のみに深く潜行し、他人とかかわることを絶対的に拒絶する。

おまえたちは、他人との関係でしか自分を見ようとしない…おまえたちは他人という鏡に自分が映っていると思いたがり、そこに映っている他人の姿を自分だと考え、だから自分は存在すると考えている。そんな考えはみんなゴミだ…しがらみを断ち切って、一人になれ。他人に吹き込まれた考えは捨てて、隙間を閉ざせ。外界に向ける触覚なんかいらない。武器だけがあればいい。クラゲのように目もなく閉じたままでいろ。近づく者は平然と焼け。口を閉ざし、耳も閉ざし、やれ!

この激烈なまでの叫び。まるで、ストイシズムを極めた狂信的な殉教者の、ジハードへ赴く寸前の祈りのような響きがある。彼の凶暴性の切っ先は、放火や親殺しといった他者へのものから、自分自身の喉元にまで向けられるものだ。人が一つの極に収斂し過ぎれば、自滅への道をたどるしかない。

一方オルガは、クルトを誘惑して自分とのセックスにのめり込ませておきながら、パウルにもちょっかいを出し、見事に二股をかける。挙げ句の果ては、両親を一緒に殺しておきながら、パウルが来ると、クルト一人がやったことで自分は閉じ込められていたと言い逃れをする。欲望のままに快楽を求めるうえに、打算的な面も併せ持つという、外面的には実に嫌ーな女の子。だがそれは、その場その場で、自分が生きていくための行動を直観的に選びとれる、非常に生命力のある女の子と言い換えることもできる。
生き延びるためには、二つ以上の極を持つことが必要であり、オルガは本能的にそれを成し遂げた。そのたくましさで、いつかは子供の二、三人も生むのかもしれない。そして彼女の口から出た通り「子供ができたら、このむかつく状況が繰り返される」のだ。

クルトは、自分が母から生まれたこと、その瞬間にこだわっている。ラストシーンで彼は、その光景をまざまざと物語る。生まれた時の記憶というのは、普通に考えれば現実にはあり得ない。だから、比較的リアルなセリフと演技を用いたこの作品にあって、これは特筆すべき幻想的な場面だ。

さあ、生まれたときの話をしよう。ママは股の間をよろよろ出てくるぼくを見た。ぼくは最初は横を向いてたけど、すぐに鼻をゴールの方に向けた。すると突然彼女のからだは四トンも軽くなり、上の方にものすごい力で引っ張り上げられた。その状態が四十三秒続くことを彼女は知っていた…四十三まできて、彼女は数えることをやめた。不発弾だって思った。でもその瞬間、突然まぶしい光が発し、ママは巨大な円盤状をした空気の塊がまっすぐ上へ昇ってゆき、次に横方向へ消えていくのを見た。まるで惑星の輪が惑星本体から離れるのを見ているようだった…それからはもう何も来ず、静けさが保たれた。そこらじゅうで炎が燃えていた…一本の太い煙の柱がみるみる立ち昇ったが、その芯の部分は炎のように赤く、上の方に達して四方に伸び広がった。まるで天井にぶち当たったかのようだった。これがぼくの誕生だった。全部覚えている。

後で聞くとこのセリフは、「エノラゲイ」が原爆を広島に投下した時の状況がもとになっているらしい。観劇時には、比較的淡々と語られるにもかかわらず、一種独特の異様なエネルギー感に溢れるモノローグという印象があった。
結局クルトは、この世に生まれてきたくなかったのだろうか。生まれたこと、生きることに対する根源的な疑問を、クルトは持っている。なぜ生きなければならないのか? その答はどこに求めればいいのか? すべての子育てや教育は、暗黙のうちに生を肯定することを前提としているが、その前提自体に対する問いには誰も答えてはくれない。否応なく生まれてしまったが、死ぬのが怖いから、痛いから、苦しいから、死ねないで消去法的に生きている人間だって、決して少なくはない。クルトの存在は、そのことを鋭く問いかける。そして、原爆投下に重ねられた誕生時の圧倒的なイメージは、生まれることと生まれないことを選択できないという、人間の絶対的な宿命を暗示している。

この作品では、翻訳劇を見た時に必ずと言っていいほど味わう感覚がまったくなかった。何か、ワンクッションもツークッションもあるような、フィルターがかかっている感じが。
役名はドイツ名だし、もちろん、文化や習慣の違いによる登場人物の行動への違和感はある。たとえば、母親がトイレを生理の血で汚してもさほど動揺もせず、食卓で話題にするとか、息子の前で体を拭くとか、はじめて来た娘のボーイフレンドへの父の言葉「ハンスと(ファーストネームで)呼んでくれ」などなど。でもそれを補って余りあるほど、ここで起きている家族の事件は、日本人である私に直接話法でぐぐーっと迫ってくる。ここで極めて直截に描き出されるものは、身近にある親子や夫婦の問題にあまりにも近しい。
ちなみに、戯曲を読んでひとつ気付いたことがある。劇中、夫は妻から何度も「ハンス」と呼ばれるが、妻は子供から「ママ」と呼ばれることはあっても、夫からは一度も名前を呼ばれず「おまえ」としか言われない。ドイツの現代作品にして、妻(母)は妻(母)でしかなく、名前を持つ個人ではないということの表れなのかと興味深く感じた。

松井周の演出は、原作にかなり忠実でありながら、観念的なセリフが空回りしないよう、仕草を添えたり細やかな仕掛けを施して、舞台をこなれたものにしている。
オープニングシーンは、原作にはない松井オリジナルで、オルガとクルトが殺した両親の足をもち、下手から上手へと、少し傾斜のついた床を登りながら引きずっていく。つまり、両親の死から時間を遡る形で、次からの場面へと続くわけだ。ラストシーンも、原作ではクルトが自分の体にガソリンをかけて火をつけるというト書きがあり、自殺が明示されているが、この演出では、胎内回帰を思わせるものに変えられていた。ここには先に挙げた、なぜ生まれたのか、なぜ生きなければならないのかという問いに対する、原作者マイエンブルグと松井の、微妙な差異が感じとれる。

ところで「火の顔」は2005年に、世田谷パブリックシアターのベルリン演劇週間において、シャウビューネ劇場のオリジナル版が上演されている。この時来日した、原作者マリウス・フォン・マイエンブルグと演出家トーマス・オスターマイアーへのインタビューで、オスターマイアーがこう言っている(「SEPT 02」世田谷パブリックシアターより)。

彼の言葉は、演劇言語として非常に抽象度が高く、凝縮されていて、無駄なことが一切書かれていない。また演劇言語であると同時に文学言語でもあり、非常にはっきりとした造形的な言語で構成されていて、そこには力強い〈発言〉というものが発見できるという特徴があるんです。
また新しい点ということでは、とくに彼の持っている〈テーマ〉が挙げられます。彼の劇作で非常に優れているのは、これまでのドイツ演劇には見られなかったような、私たちが日常でなんとなく感じながらも言葉にできなかったようなテーマ、疼いていたようなテーマを、きちんと言語化して作品に立ち上げた部分なんです。

まさに至言である。このような太い背骨の通った原作に、今回は独自の演出が施され、細かい毛細血管が通い脈動が感じられる仕上がりとなっていた。でき得るならば、このままドイツで上演され、原作者や観客の反応を見ることを望みたい。

FTのHPに松井のこんな言葉があった。

ここに出てくる家族をことさら歪んだものとして描こうとは思わない。
彼らのディスコミュニケーションの裏には依存心が見え隠れしていて、滑稽ですらある。スカスカの軽さがある。でもそれは日本の家族だって同じだろう。日本だけではなく、どこの国の家族にも通じるかもしれない。その一方で彼らは成熟することを望む。しかし、そのモデルが親にも子供にもわからない。親も子供も近代的自我、つまり「個人」になることができない。
「依存と成熟に引き裂かれた家族」とはやっぱり現代の家族のテーマであり、だからこれは普通の家族の物語なのだ。
モデルがない中で家族を演じ続けようとする彼らは悲劇的であろうか?いや、そんなことはない。彼らの中にちらほらとほの見える欲望の炎に希望を見出すことは決して不可能ではない。俳優の身体がそれを証明すればいいわけだ。

みっしりとした濃密な劇空間を受け取った私としては、やや意外な言葉である。
さて、この芝居には、性的な場面―クルトがセリフを言いながらオナニーをしていたり、クルトとオルガ、オルガとパウルのセックスなど―が、やたらと出てくる。オルガが寝そべっているのを、クルトが彼女の片足をもち、大股開きの格好で引きずって横に移動するところがあり、まさか…と思っていたら、やはり松葉崩しからきていると、後で小耳に挟んだ(オナニーのバリエーションを、ああでもないこうでもないと考え出す時には、松井の演出の職人とも言うべき面持ちが垣間見えた)。アフタートークの折に、その手のシーンでは、実はクスっと笑ってほしかったという演出家の発言があり、息を詰めて見ていた者としては、拍子抜けの感があった。
稽古を見ていて、彼の役者の身体の〈見せ方〉に対するこだわりには驚いた。ラストシーンも含めて、面白い見せ方は?ということで、最終的な形を選びとっている側面も大いにあるようだ。
その言葉の、希望を見出すことは不可能ではない、というくだりには深い共感を抱く。どうしようもなく、グジャグジャに崩れていく家族像を見た後に、スカーっと突き抜けた爽快感ともいえるものを覚えていたのだから。

役者陣について。主役の菅原直樹は、幼くたどたどしささえ感じさせる演技とセリフ回しで、クルトの切り立つ孤絶を演じきった。オルガ役の野津あおいは昏いエロティシズムを湛え、パウル役の岩井秀人はすこぶるつきの巧さで客席を湧かせた。シャワーを浴びているさなかにクルトに服を焼かれて、パウルが全裸で父母の前に現れるシーンで、その絶妙な間のとり方と脱力系の佇まいには、何度見ても虚を突かれた。父母を演じた猪俣俊明と大崎由利子の、経験を重ねた俳優が放つ存在感が、この作品を引き締めていた。とりわけ大崎が、薄物のガウンをはおり、大きく足を上げて太腿を拭く後姿のカッコよさと女臭さは忘れられない。

さらに、杉山至+鴉屋の美術は、この作品に大きな力を与えている。舞台には、白い横長のテーブルが備えられ、静謐で冴え冴えとした美しさを放っていた。その下の空間は物を置けるような小さな台がいくつもあり、さまざまな小道具の見える収納になっている。ここから、登場人物たちが食器や新聞やひげ剃り道具など、いろいろな物をとり出す動作も、煩瑣な日常性を感じさせて効果的。テーブルはそのまま食卓とされたり、姉弟の部屋の床になったり、夫婦の寝室になったり、浴室になったりと、自由に使い回されていた。横の長さをいかし、照明の当てる場所を変えることによって、瞬時の場面転換も。たとえばオルガとパウルが話している場面に続き、瞬間的にパウルがオルガのうちに来ている場面といったように、時間を飛ばすつなぎのテンポ感が心地よい。
このテーブルが、最後の晩餐の食卓に見えたという感想をもった観客もいたそうだ。
そういえば舞台下手寄りには、天井まで届くスティール製のポールがあり、深読みにすぎるかもしれないが、私にはテーブルとポールがズレた十字架にも思えたのだった(このポールは、そこに背をもたれかけて座ったり、つかまってくるりと回ったりと、やはりいろいろな動作に活用されていた)。というのも、クルトが放火する場所について「学校は狙い目だ。デパートもいい…でも文句なしでいいのは教会だ」と語り、それを実行するところに、キリスト教に対する屈折を感じたからだ。

かくして、それらのほぼすべてが噛み合い、現代の家族像と思春期の壮絶なまでの自閉の断面を、体液の滴るほど切り口鮮やかに描いた舞台であった。なぜ、クルトがこれほどまでに激しく自閉するのかとか、この親たちの対応のどこに問題があったのかとかいう問いかけはさておいて、その姿のみを、これでもかこれでもかと愚直なまでのストレートさで描き出したところに、この劇の成立基盤、存在意義があったのではないかと私は考える。
ただし、断面とは空気に触れた瞬間に化学反応を起こし、時間がたつにつれ形が崩れ、うじゃじゃけていくものだ。その意味で、今後とも、その時点での旬の鮮明さをくっきりと浮かび上がらせる作品を切望していることを、蛇足ながらも付け加えておきたい。
(初出:マガジン・ワンダーランド第139号、2009年5月13日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
大泉尚子(おおいずみ・なおこ)
京都府生まれ。芝居やダンス、アート系イベントが好きな主婦兼ライター。「アサヒ・アートスクエア」インターン。時には舞台のスタッフボランティアも。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/oizumi-naoko/

【上演記録】
マリウス・フォン・マイエンブルグ作、松井 周演出「火の顔」
-フェスティバル/トーキョー09
http://festival-tokyo.jp/program/fireface/
東京芸術劇場 小ホール1(3月5日-8日)
上演時間:約1時間30分

演出 松井 周(サンプル)
作  マリウス・フォン・マイエンブルグ
翻訳 新野守広
出演
猪股俊明 大崎由利子 野津あおい 菅原直樹 岩井秀人(ハイバイ)
美術 杉山至+鴉屋
照明 西本彩
衣裳 小松陽佳留(une chrysantheme)
演出助手・ドラマトゥルク 野村政之
舞台監督 鈴木康郎+鴉屋、寅川英司+鴉屋
宣伝写真 山本尚明
制作補佐 遠山ちあき、有田真代(背番号零)
制作 三好佐智子
制作協力 サンプル、有限会社quinada
主催・製作 フェスティバル/トーキョー

チケット 一般3,500円/学生3,000円(要学生証提示)、高校生以下1,000円(自由席)
★ポスト・パフォーマンストーク
3/6(Fri)14:00   松井周×飴屋法水(演出家・美術家)
3/7(Sat)19:00  松井周×岩井秀人(俳優・劇作家・演出家)

【関連情報】
・マリウス・フォン・マイエンブルグ作、新野守広訳「火の顔」 (ドイツ現代戯曲選30) (論創社)

・LIVESTOCK DAYS(風琴工房詩森ろばブログ)
http://blog.livedoor.jp/robarock/archives/51342362.html

・2005年のシャウビューネ劇場来日公演「火の顔」(トーマス・オスターマイアー演出、2005年6月24日~26日)の公演ページは、当時掲載されていた世田谷パブリックシアターwebサイトには見当たらない。過去のページを収録しているIntenet Archiveサイト「WAYBACK MACHINE」にその一部が収録されている。関連サイトは次の通り。
・新国立劇場+世田谷パブリックシアター特別共同企画「ベルリン演劇週間」プロジェクト 協力=東京ドイツ文化センター
http://www.nntt.jac.go.jp/release/r444/r444.html
・「火の顔」「ノラ」(世田谷パブリックシアター旧サイト情報)
http://web.archive.org/web/20050428031257/http://www.setagaya-ac.or.jp/sept/jouhou/schaubuehne/
・ベルリン・シャウビューネ来日公演「火の顔」(ゲーテ・インスティトゥート東京)
http://www.goethe.de/ins/jp/tok/acv/the/2005/ja720370v.htm
・トーマス・オスターマイアー(ドイツ・シャウビューネ芸術監督)インタビュー(国際交流基金)
http://www.performingarts.jp/J/pre_interview/0508/1.html


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