◎その囁きは水底から響いてきたようにも思えた
大泉尚子
JR埼京線・板橋の駅を降り、歩くこと10分。まさかここじゃあないよなあ…というくらいの細っこい路地を折れた、行き止まりのどん詰まり。東武東上線の線路の柵が立ち塞がり、目の前を轟音を立てて電車が走り過ぎていく、その脇。劇場というよりは、駆け落ち(って死語かもしれないけれど…)した二人がひっそりと隠れ棲むのにふさわしいような、そんな場所にこのatelier SENTIOはある。どうか見つけないでくださいと言わんばかりに。そこで行われているSENTIBAL!2009の参加作品として、shelfの「Little Eyolf―ちいさなエイヨルフ―」(イプセン作、矢野靖人演出)が上演されていたのだった。
同じ戯曲が「ちっちゃなエイヨルフ」というタイトルで、2月に池袋のあうるすぽっとでも上演されている。演出はタニノクロウ。こちらはかなり原作に忠実に、オーソドックスな手法で描かれていた。
粗筋はこうだ。
舞台となるアルメルス家は、フィヨルド(峡湾)を見下ろす高台に邸宅を構える裕福な一家。長らく家を空けていた夫のアルフレッドが、家族のもとに帰ってくる。彼は原稿の執筆と静養を兼ねて山地に出かけたのだが、もう執筆もやめ、これからは息子エイヨルフの教育に打ち込みたいと妻のリータに言う。エイヨルフは、赤ん坊の頃の事故がもとで片足が悪い。浜辺で遊ぶ地元の子供たちの仲間にも入れない、引っ込み思案な子。この家には、アルフレッドの異母妹であり町で教師をしているアスタと、彼女に想いを寄せる土木技師のボルグハイムが時折訪れている。
そこへ飄然とやってくる、「鼠ばあさん」と呼ばれる気味の悪い老婆。害をなす鼠はいないか、いればたちどころにおびき出して海に溺れさせてみせると、いわくありげに滔々と語る。一家に断られた老婆は、不穏な空気を漂わせて立ち去っていく。
ところで、この家はもともと、リータが父から受け継いだものであり、親を亡くして妹の面倒を見ていたアルフレッドを、貧しい暮らしから救い出したのは彼女だった。リータは、夫に過剰なまでの愛情をもつ激しい女性で、息子や義妹にまで嫉妬し、子供を産まなければよかったとさえ言い放つ。夫妻の間には、時にぎくしゃくした空気が流れる。
そして、鼠ばあさんの訪れが暗い予兆であったかのように、不幸な出来事がこの家を襲った。ばあさんの後をついていったエイヨルフが、桟橋から落ちて溺れ死んだのだ。
打ちひしがれた夫婦は、互いに相手を責め合う。エイヨルフの障害の原因に、表には出せない事情が絡んでいたことまでが蒸し返される。そんな折も折、アスタは兄に告白する。今は亡き母の昔の手紙から、自分たちに血のつながりがないということがわかったと。実はこの兄妹は、心の底で惹かれあっていたのだった。だが、アスタは引きとめる兄を振り切って、ボルグハイムとともにこの家を去っていく。とり残されたアルフレッドとリータ。
大きな痛手を振り切るかのように、妻は、浜の貧しい子供たちをこの家に呼びよせて育てたいと考え始める。一度は別れるしかないと思い詰めた夫も、最後には、そんな妻を助けたいと言う。やや唐突な感も否めないが、二人の再出発にほの見える希望を感じさせる結末でもある。
矢野演出の「Little Eyolf」では、原作が大胆にカットされ、上演時間は1時間強(タニノ版では、約2時間だったと記憶する)。パンフには「写実的な作品から象徴主義的な後期作品へと移るイプセン晩年の代表作を、一組の夫婦の話として出来るだけシンプルに再構成しました」とある。
最初の場面では、舞台には、数人の男女と一体の人形。俳優は、物語に登場していない時も、舞台の隅に控えている。
劇は、アルフレッドとエイヨルフの会話から始まる。ただし、エイヨルフのセリフはすべて、人形を抱えた俳優の誰かによって、囁くように言われる。つまりエイヨルフの役は人形が演じるわけだ。その顔は黒っぽくつるりとしていて、目鼻はなく、片足が短い。一瞬〈水子〉という言葉が連想されたりもする。セリフとセリフが重なったり、エコーのようにくぐもって聞こえたりもする。時折聞こえる水音(ところがこれは、上階の水を流す音だったと、後で判明。偶然の効果音か!?…)。未明か薄暮を思わせるほの暗い照明。人物たちは水底にいるのだろうか。ここは、鼠ばあさんが登場するまでのごく短い場面なのだが、印象的な出だしであり、レム睡眠時の夢を思わせるような気配が満ちている。
そしてこの、此岸とも彼岸ともつかない宙ぶらりんの空気感は、作品全編を覆っていく。
物語が進行するにつれ、目の端をよぎる影のように気になってくるのが、一人の男。他の俳優に付き従い、一緒にスゥーッと動きフッと止まる。ついていく相手は特定されておらず、セリフはまったく言わない。存在感を誇示しているわけでも消そうとしているわけでもない、この男の佇まいがいい。死神なのか、天使あるいは堕天使なのか、はたまた三図の川の渡し守なのか。いずれにしても、この男も異界の匂いを漂わせている。
エイヨルフという中心的な役を人形に託し、セリフを他の俳優に言わせるという形をとりつつ、逆に役名のない男を登場させるという試み。ここには、ある存在を無化すると同時に、形のないものに形を与え、見えないものを顕在化させようという意図が見てとれる。
キャラクターで言えば、鼠ばあさんは、短い出番ながら、悲劇的な出来事の引き金となる重要な役どころだ。ハイソな人々の前に現れる異形の老婆は、静かな水面に投げ入れられた石であり、その後に大きな波紋を残す。タニノ版では、この役を演じたのは異色俳優のマメ山田。とよた真帆、勝村政信、馬渕英俚可らスマートな俳優陣の中で、小さな体躯に黒っぽい民族衣装風の服をすっぽりとまとい、禍々しいともいえる雰囲気を放っていた。矢野版の鼠ばあさんは、衣装も白っぽく、ことさらに不気味さや重苦しさを強調せず、比較すればやや軽やかな奇妙さが醸し出されていたのが対照的だった。
さらにヒロインのリータも、女であることが母性を凌駕してしまう、実に強烈な個性の持ち主。夫が家に帰っても自分に触れなかったことをなじり、来ていた上着を脱ぎ捨てて上半身裸になるという、矢野オリジナルの場面がある。夫への激しい情熱が奔流のように溢れ出す、衝撃的なシーン。主演の川渕優子は、それまでの抑制のきいた演技をかなぐり捨て、リータの激情に身を任せるかのようだ。それでいて、終始一貫、品性を失わない。端正ではあるがとりわけ華やかな面立ちではないこの女優が、大きな振幅と底力を見せて、物語の奥行きを深める。
ところで、アルメルス夫妻の間のわだかまりには、大きな原因がある。話半ばで明かされるのだが、かつて彼らがセックスをしていて目を離した隙に、赤ん坊だった息子が高い所から落ち、それがもとで足が不自由になったという事実。これが、とりわけアルフレッドのトラウマになっていた。いかにも、キリスト教圏における原罪的な設定だが、そのことは通奏低音のごとく、全編にそこはかとなく陰鬱な響きをもたらしている。
もうひとつは、異母兄妹の秘められた関係。「エイヨルフ」とは、若い頃アルフレッドがアスタを男の子のように呼んでいた名であり、彼の息子への溺愛には、妹への強い想いが二重写しに透けて見える。
こうした家族間の抜き差しならない感情の交錯が、一家に起こる出来事の内側に深く渦巻いていたのだ。
この舞台では、先のリータの描き方にも見られるように、性愛にもまつわる重いテーマを扱う、さりげなくしなやかな手捌きが印象的。またそこには、物語全体が濃厚な気配に包まれ、ある種の超現実感が漂っていたことも、大いに力を与えていたのだろう。近代劇の父イプセン、「人形の家」のノラに象徴されるかつての新しい女性像といった、教科書的なイメージとは、一線を画すイプセン劇が新鮮だった。
思えば、ここで描かれるアルフレッドとリータには、最初から死者の面影があったような気もする。エイヨルフは、黒い顔の人形という生命感のない存在として描かれていたのだが、その両親ももしかしたら一緒に死んでいたのかもと…。
というのは、アフタートークに出た話で気づいたのだが、夫婦二人は裸足のままで、アスタとボルグハイムは靴を履いて演じられていたのだ。演出意図はさほどはっきりしたものではないようだが、ともあれ、後者は、大地を踏みしめて陽の当たる方へと歩み去り、前者はその場にとどまる(ちなみに、アスタ役の山根舞はスクッと背の伸びた立ち姿が凛々しい)。それが、生の方向へと向かう若い二人と、息子に導かれて、死の世界に取り残される夫婦とも受け止められる。
結末の会話には、何だか急展開で解決し過ぎるような感覚も覚えるが、その違和感も、死んでしまったのにまだ死を自覚していない同士であるとすれば、うなずけるような気がするのだ。この舞台には、そんな解釈をも可能にするような、融通無碍なものが感じられた。
さてこの作品では、ストーリーを刈りこんで1時間ほどの作品に仕上げたことはかなりの挑戦だったが、物語の基本的な骨格を提示することは欠かせないわけで、そこに今後の課題もあるのではないだろうか。shelfは、次回作もイプセンの「私たち死んだものが目覚めたら」を取り上げるとのことだが、その点も含めて注目している。
そういえばこのところ、イプセン作品の上演が続いている。戯曲集の頁を繰ったりするうち改めて気がつくのは、リータをはじめとして、「ヘッダ・ガブラー」のヘッダや「建築師ソルネス」のヒルデなど、ノラにとどまらない、パワフルで多彩な女性が描かれているということ。今回の2作品のリータなどは、まだまだ慎ましさを湛えた存在として描かれていたが、原作には、男の都合をものともしないような、まさに〈肉食系女子〉とでも言いたくなるような女性像が内在しているようにも思える。彼女たちが、エネルギー全開で生々しく本領を発揮する姿も見てみたい。その意味では、女性の演出家が描くイプセン劇というのにも大いに食指が動くのだが、いかがなものだろうか。
(初出:マガジン・ワンダーランド第154号[まぐまぐ!, melma!]、2009年8月26日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
大泉尚子(おおいずみ・なおこ)
京都府生まれ。芝居やダンス、アート系イベントが好きな主婦兼ライター。「アサヒ・アートスクエア」インターン。時には舞台のスタッフボランティアも。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/oizumi-naoko/
【上演記録】
shelf『 Little Eyolf-ちいさなエイヨルフ- 』(SENTIVAL!2009参加作品)
atelier SENTIO(2009年5月20日-25日)
作:ヘンリック・イプセン
構成・演出:矢野靖人
[出演]
川渕優子 Yuko Kawabuchi
ナギケイスケ Keisuke Nagi
山根舞 Mai Yamane (演劇集団 円)
秋葉洋志 Hiroshi Akiba
大川みな子 Minako Ohkawa
櫻井晋 Susumu Sakurai
[音響] 荒木まや (Stage Office)sound design: Maya Araki
[照明] 則武鶴代 lighting design: Tsuruyo Noritake
[衣装] 竹内陽子 costume design: Yoko Takeuchi
[翻訳]毛利三彌 Translation: Mitsuya Mori
[企画・制作]shelf Planning and production: shelf
[後援]ノルウェー王国大使館 back up: The Royal Norwegian Embassy, Tokyo
[主催]atelier SENTIO、shelf Sponsored by atelier SENTIO, shelf
料金:一般前売3,000円 一般当日3,500円 学割2,000円(前売、要学生証)ペアチケット 5,500円 (要予約)アカデミックチケット1,000円
トーク・ゲスト /
20日(水)19:30 安田雅弘氏 (劇団山の手事情社主宰)
21日(木)19:30 北嶋孝氏 (小劇場レビューマガジン ワンダーランド編集長)
23日(土)19:00 柴幸男氏 (青年団演出部)