◎影が踊り始める
竹重伸一
「明晰」シリーズの前作、昨年2月の「明晰の鎖」では同じ吉祥寺シアターの舞台奥の搬入口を開いて裏の道路と繋げたり、バルコニー・床下の上下の空間も使うなどワイドでスペクタクルな空間創りをしていたが、今回は観客の一部を上演空間に入れて、親密さのあるとても凝縮されてコンパクトな空間になった。出演するダンサーも過去に大橋可也作品に出演経験のある勝手知った7人に絞り込んでいて、匿名性の高い振付からよりダンサーの「個」が浮き上がってくる振付への変化の兆しがはっきりと伺えた。この変化は微細だが重要な変化で私には非常に共感できるものだ。
映像が大きな役割を果たすことは「明晰の鎖」の第3部と変わらないが重要な違いもある。舞台奥の壁中央に天上から大きな矩形のスクリーンが吊されていてそこに映像が投影されたわけだが、カメラはほとんど定点で固定されていて、ひたすら劇場内ロビーの長椅子に座っているダンサーの姿が映し出されるだけである。「明晰の鎖」でもダンサーは舞台を離れて劇場内ロビーや更には街頭にまで移動していったのだが、カメラも同時に動き続けてダンサーの運動感を伝えることの方に重きがいっていた。ところが今回はその長椅子がもう一つの上演空間になっていて、ダンサーは三々五々舞台からそこにやってきては呆然と座り続け、時には姿勢を崩し、時には隣の人にちょっかいをかけながらまた三々五々舞台に戻って行くということを繰り返すだけである。
ちょうど映像空間が舞台空間に対して虚の空間になっていてそこでの主役は一人だけ初めからそこにいる多田汐里である。というか間違いなくこの作品の主役はほとんど舞台上では踊らなかった彼女である。主役といってももちろん普通の意味での主役ではない。おそらく虚の焦点と言った方が正しいだろう。多田はグレーのノースリーブのワンピースに紫のカーディガンを羽織った姿で無表情にひたすら自分の内面を見詰め続けるかのように座っている。あるいは多田は鬱に侵された死に触れている人なのかもしれない。彼女だけは映画女優であるかのようなのだが、時間が経つにつれて映像を通して静かにこちらにも瀰漫してくる負のエネルギーを放出し始め、それがダンサーが踊っている舞台空間の空気をも支配するようになっていく。段々と我々の意識は舞台内映像を観ているのか、映像内舞台を観ているのかわからなくなってくるのである。この作品での映像の撮り方は意図的に舞台作品との違いを際立たせようとしている。つまり映像表現の得意としている心理描写を冴えさせるために、得意技であるクローズアップでダンサーの顔をじっくりと撮り続けるのである。観ている我々観客は一人のダンサーをやや距離を離れて肉体的に、接近して心理的にと二つの視点から立体的に感じ続けることになるのである。
そもそも映像に写し取られた人間の肉体とは生身の人間の厚みのない影である。ある意味死が刻印されていると言ってもよい。その影が七つ、映像空間から舞台空間に侵食してうっすらと死が臭ってくる。「明晰の鎖」は日常との境を取り払って対社会を強く意識した作品だったが、この作品ではその面は弱まり、代わりに死が浮かび上がってきている。タイトルの「深淵」とはそのことだろうか。死こそ現代消費社会で最も排除され、見えなくなっているものである。なぜなら死は生産や蓄積を無価値なものにし、代わりに無やメランコリックで澱んだ時間を突き付けてくるから。そんなものに付き合っていたら前に進めないというわけだ。だが死も生の一部であり、時間は直線的に前へ進むだけでなく、時には循環し、回帰するのだ。だからこの作品の時間は迷宮状に入り組み始めている。ただ死とコインの裏表であるエロスが希薄だったために表現としての闇の濃度が今一つ薄く感じられたのは残念だった。
そして多田の存在の仕方が象徴的であるようにこの作品では相変わらず技術的な突出は慎重に避けられてはいるものの、今までの大橋作品とは違って明らかにダンサー個人の個性が見えてきた。その証拠に今回出演した7人のダンサーの顔と姿を今でも私ははっきりと記憶しているのである。今までは作品全体からは強い印象を受けてもダンサー個人が記憶に残るということはあまりなかったし、大橋自身もそういう風に観られるように作品創りをしてきたはずだ。ダンサーは作品全体として一つの説得力ある風景を創り出すための匿名の素材として扱われ、ダンサー個人の内面や技術的な癖を極力削ぎ落とす方向に振付の意を注いできたように思われる。その方向の頂点である「明晰の鎖」の後、昨年12月の新国立劇場での実験作「帝国、エアリアル」ではダンサーの匿名性は維持されてはいたが、同時に各自が強烈に「個」を主張していて、それがカオスの渦を生み出していた。それを経て大橋は新たな領域に踏み込んできた。
作品の風景も明らかに変質し始めている。彼の作品の特徴としていつも指摘される残酷なまでのダンサー間の距離とディスコミュニケーション、イリュージョンの拒否はこの作品でも基本的には維持されているが、例えば冒頭、タイヤが次々と転がり込んでくる中で黄色いカツラにピエロのようなメイクで一人だけ非日常的な雰囲気を身に纏った垣内友香里が赤い三輪車を漕ぎ、その後ろからとまるながこが無人の車椅子を押してついて行くシーンやラスト、ダンサー全員が舞台中央に集まるともなく集まり、両手を挙げてお互いを探し求めるかのように歩むシーンなどにはアンサンブルとしてのリズムが生まれてきているし、風景全体としてのファンタジーの美しさが感じられるようになってきている。
時代の闇を浮かび上がらせようとするのに、これまでのようにマクロ的な視点からだけではなく、個人の内面を掘り下げることも併せて多層的に描き出そうとし始めたのではないだろうか。これは時間もエネルギーも必要とするとても困難な創作プロセスを要求するはずだが、大橋とダンサーズのメンバーの関係がそれに対応するだけの成熟と深化を遂げつつあるということかもしれない。それは彼の振付の特徴であったダンサーの匿名性の放棄につながるが、逆にダンサー個人個人の肉体に潜んでいる記憶という時間軸が重なることになり作品全体の深みを増していくはずだ。更に今回は映像の中での垣内と山田歩の接触という形だけでしか踏み込まなかったが、ダンサー同士の関係性も見せていくかどうかという問題もある。いずれにせよこの「深淵の明晰」は「明晰」三部作の総決算というより、新しい展開への始まりと見なされるべき作品だと思う。
(初出:マガジン・ワンダーランド第166号、2009年11月18日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
竹重伸一(たけしげ・しんいち)
1965年生まれ。舞踊批評。2006年より『テルプシコール通信』『DANCEART』『音楽舞踊新聞』『シアターアーツ』等に寄稿。現在『舞踊年鑑』概況記事の舞踏欄の執筆も担当している。また小劇場東京バビロンのダンス関連の企画にも参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takeshige-shinichi/
【上演記録】
大橋可也&ダンサーズ「深淵の明晰」
▽東京公演
吉祥寺シアター(2009年9月22日-26日)
出演:垣内友香里、皆木正純、古舘奈津子、前田尚子、多田汐里、とまるながこ、山田歩
振付:大橋可也
音楽:舩橋陽
[9/26のみ、fooi(舩橋陽+大谷能生+大島輝之+一樂誉志幸)によるライブ演奏]
映像:岡崎文生(NEO VISION)、吉開菜央
衣装:ROCCA WORKS
照明:遠藤清敏(ライトシップ)
音響:牛川紀政
舞台監督:原口佳子(officeモリブデン)、桑原淳
美術協力:伊東篤宏
宣伝美術:佐藤寛之
写真:GO
協力:鈴木携人、坂間真実、大橋めぐみ
制作:三五さやか、山本ゆの、上田茂(ビーグル・インク)
※9/23のみ、託児サービスあり
※9/26のみ、fooiによるライブ演奏あり
料金:
チケットA:20,000円(前売のみ)お金に余裕があるので、作品に貢献したい方向け。
チケットB:4,000円(前売)4,500円(当日)いわゆる通常料金。
チケットC:0円(前売のみ・要申込み・枚数限定)お金に余裕がないが、どうしても作品を見る必要がある方向け。
主催:大橋可也&ダンサーズ
助成:財団法人セゾン文化財団、芸術文化振興基金
▽京都公演
京都造形芸術大学 京都芸術劇場studio21(2009年9月18日-19日)
共催:京都芸術センター
▽福岡公演
ぽんプラザホール(2009年10月31日-11月1日)
共催:(財)福岡市文化芸術振興財団
▽伊丹公演
アイホール(2009年11月22日-23日予定)
共催:(財)伊丹市文化振興財団