OM-2 「作品No.7」

◎身体に降り注ぐ言葉の雨
芦沢みどり

「作品No.7」公演チラシ日暮里シアターアーツ/フェスティバル(2.12-3.21)参加作品の『作品No.7』を観て、再び舞台表現における<言葉と身体>について考えさせられた。再び、というのは5年前にこの集団の作品として初めて観た『ハムレットマシーン』によって、舞台表現の根幹である(と思われる)<言葉と身体>の問題を考えるうえで大いに刺戟を受けたからだ。それはハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」を上演することの意味と正面から向き合った作品だったが、その中で佐々木敦という若い肥満体の俳優が、金属バットを振り回してテレビやテープデッキ、机を次々に叩き壊すシーンがあった。そのナマの破壊力はすさまじく、客席にいて背筋が寒くなるような怖さを覚えたものだが、同時に、彼の身体から発する負のエネルギーが、経済弱者へと追いやられた現代日本の若者層の鬱屈や怒りとダブって見えた。そして破壊シーンは痛ましくも共感できるものに変わっていた。セリフがない分、それは直接的だった。

だが言うまでもなく、セリフがないことは言葉がないことと同じではない。作品の背景にある構造は言葉であり、『ハムレットマシーン』という構造(=言葉)の中に俳優の身体があったからこそ、破壊シーンが劇場の外の状況を想起させたと言える。この前提がなければ、ただの暴力シーンとしてしか見なかっただろう。

では今回の作品はどうだったか。
『作品No.7』は一見、二部構成のように見える。前半は俳優による身体表現で、後半はパーカッション・パフォーマンスだ。直線的にストーリーが展開するのではない方法論は前回と同じだし、たまに発語される言葉もすべてが聴き取れるわけではないから、セリフとしては機能しない。ではストーリーもなく、セリフから手がかりの得られない舞台作品を理解するための拠り所は何か。それは観客自身が目を凝らして見つめ、感じ、考えて舞台に積極的に参加する以外にない。セリフに依拠した舞台作品を観るのと違う点は、観客もまた何もない空間に放り込まれるということだ。ある種の不安はあるが、一方でとてつもない自由が与えられていることでもある。

舞台は客席前列と地続きの平土間で、十数枚の白い半透明・縦長パネルで半円形に囲われたスペースだ。その空間の下手奥にベッドがあり、上手前方に机と椅子一脚が置かれ、机の上にはテープレコーダーのような器機。舞台中央の床には紐で縛った雑誌や文庫本の束が2つ3つ。セットはこれだけだ。

客電落ちの前に、舞台中央の本と雑誌にスポットが当たる。書物に琥珀色の影が落ちて、読書にまつわる遠い記憶が呼び覚まされそうになった時、すぐに客電が消えて舞台の現実に引き戻される。ベッドの横のランプに明りが入り、そばに黒いスーツ姿の女が立っている。彼女は疲れた様子で上着を脱ぎ、そばにある雑誌を手にしてベッドに入るが、すぐに明りを消して眠りに就く(ように見える)。

「作品No.7」
【写真は「作品No.7」公演から。撮影=田中英世 提供=OM-2 禁無断転載】

すると上手から、紐で縛った文庫本の束と紙袋を提げた巨漢が入って来る。(佐々木敦だ!)男は持ってきた本と紙袋を舞台中央に置き、所在なげな、踊るようなしぐさをする。演じているような、いないような。<自然な演技>という慣用句が撞着語法であることを告発するかのような奇妙な存在感を漂わせながら、彼は雑誌と新聞を持って上手の机へ行き、明りを点けてテープレコーダーのスイッチをオンにする。人の声のようだが意味の取れない不快な雑音が聞こえてくる。机に向かって退屈そうに雑誌や新聞のページを繰っていた男は、突然ページを破り取り、不要になった雑誌を床に投げ捨て、破り取ったページを机の上に置いてまじまじと眺める。破ったのはグラビアページだということは客席からも分かるが、彼が見ているのは芸能紙とかポルノ雑誌だろうか。(彼はマスターベーションでも始めるのだろうか? いや、違った!)

舞台中央へ戻った男は紙袋からコード付きの裸電球を取り出して点灯し、電球を振り回し始める。電球には網状のカバーが取り付けられているが、ベッドのそばで激しく振り回されると少し怖い。(だがベッドの女に注意を向けるのは観客の方で、男が女を気にしている様子はない。彼は女の夢の中の存在なのだろうか。さっき彼女は雑誌を持ってベッドに入った。でも、よく分からん)。

やがて男は舞台中央へ行き、文庫本を一冊手に取って空中へ投げ上げる。するとその本が、紙切れになってヒラヒラと舞い降りて来るではないか。本は綴じしろが予め切り取られていたのだ。残った本も次から次へと投げ上げられ、かつてページと呼ばれていたものが紙切れとなって落ちて来る。手首のスナップを利かせて投げ上げられた本は、意外なほど加速度がついて高く上がり、それから一枚一枚舞うように下降する。客席前列に座っていた筆者の頭上にも紙は降ってきた。手塚治虫の漫画、吉村昭の『破獄』、アメリカの推理小説。元は本だったものが、無残にも断片化され、知識の総体としての意味をはく奪され、ただの紙切れとなって舞台を覆う。捨てることの解放感と喪失感が同時にやって来る。(ここには電子媒体を暗示するものは何もないけれど、これは紙媒体の終焉を表象しているのだろうか)。

次のシークエンスで男は頭に紙袋をかぶって子供の遊びのようなことを始める。そして紙袋を脱ぐと、頭部が真っ赤な塗料で覆われている。佐々木敦の血まみれ(に見える)顔にぎょっとする。(その顔が客席を睨むように眺めまわした時、なぜか突然、ゴヤの「サトゥルヌス」を思い出した。わが子を食い殺したローマ神話の神だが、狂気と後ろめたさの表情が似ていたからだろうか。いや、むしろ食い殺された子供のおびえた表情を想像させたのかもしれない)。次に男は机へ行き、さっき破いたページを顔に貼り付ける。グラビアページの美女の顔写真。それから彼は舞台中央へ行き、新聞紙を顔に巻きつけ始める。一枚、二枚、三枚、四枚。これでは呼吸が苦しいのではと思っていると、口のあたりを破り取り、何ごとかを喚き始める。彼が舞台に現れて初めての発語だが、筆者に聞き取れたのは「お母さーん、お母さーん、お父さんにやさしくしてあげて。ボク、何でも食べるから」という部分だけだった。そう言い終わると彼は、床に落ちていた本のページや新聞を血染めの白いTシャツの首元から詰め込み始める。これ以上は詰め込めないところまで詰め込むと、男は床に倒れ込む。ベッドで寝ていた女が起き上がり、出てゆく。

ベッドで寝ていた女は男の母親だったのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。母親であるにしても、それは母なるものの寓意だろう。雑誌という手がかりがあるだけで、あとは謎のまま、つまりあらゆる解釈に開かれて前半が終わる。

「作品No.7」
【写真は「作品No.7」公演から。撮影=田中英世 提供=OM-2 禁無断転載】

後半は雰囲気ががらりと変わり、シンバルとドラムの競演となる。固定されたシンバルが後列に並び、その前に大、中の太鼓が舞台横一列に並べられて、劇団員総出といった感じのパーカッション演奏が始まる。前半のゆっくりしたテンポから、舞台は一気に早い速度に変わるので、最初のうち身体が拒否反応を起こす。拒否反応は身体だけでなく、心理面でも起きた。前半は舞台に積極的に関わっているという意識でいたので、いきなり鑑賞者という傍観的立場に置いてきぼりを食らった感じだ。玄人はだしのパーカッション演奏は見事だが、ただ聴いているほかはない。聴いているというよりは、会場を揺るがす振動に身をゆだねていると言った方が実際の体験に近いかもしれない。(頭の中から言葉が消えている!)やがて舞台の高い所から細長い紙片が雨のように降り始める。さっき投げ上げられた文庫本がさらに細かくなり、文字の列になって降ってきた錯覚を覚える。やがてドラムを叩きながら女性が叫び声を上げる。聞き覚えのある叫び声。地球のどこかで女が死者を悼む時に上げるあの根源的な叫び声に似ている。そうしている間も文字の雨は降り続き、ドラムの上に降り積もった紙片が振動ではね上がり、まるで雨脚のように見える。文字の雨。そうか!二部構成に見えていたものは、じつは一つなのだ。

最初に舞台に現れた女の着ていた黒服は、喪服だったのだ。本、読書、文庫本、雑誌、紙媒体、活字、文字・・・これまで当たり前のようにしてわたしたちの身の回りにあったものが今、滅びつつある。少なくともこの舞台を創った人たちはそう認識しているのではないだろうか。長い年月をかけて構築されてきた書籍文化は、あっという間に電子媒体という物質性を欠いたメディアにとって代わられようとしている。そもそもこの劇評自体、インターネットで配信されるわけだから皮肉な話だが、この趨勢はしばらく続くだろう。舞台は前半も後半も紙媒体への鎮魂歌だった。でも何かの終焉は始まりでもある。何の始まりかはまだ分からないが、文字の雨は照明の中で白く光って、身体を包む慈雨のようにも見えていた。
(初出:マガジン・ワンダーランド第180号、2010年3月3日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
1945年、天津(中国)生まれ。演劇集団円所属。戯曲翻訳。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ashizawa-midori/

【上演記録】
OM-2 『作品No.7』(日暮里シアターアーツ/フェスティバル参加公演)
日暮里サニーホール(2010年2月12日-13日)

■ 構成・演出 真壁茂夫
Composition & Direction : SHIGEO MAKABE

■ 出演|Performers
佐々木敦|ATSUSHI SASAKI
中井尋央|HIROO NAKAI
柴崎直子|NAOKO SHIBASAKI
丹生谷真由子|MAYUKO NYUNOYA
平澤晴花|HARUKA HIRASAWA
金原知輝|TOMOKI KIMPARA
吉澤啓太|KEITA YOSHIZAWA
村岡尚子|SHOKO MURAOKA
舞橋明夜|SAYA MAIHASHI
TAKESHI|TAKESHI
ほか

■ STAFF
音楽監修・作曲/奥原匡光
作曲、編曲/吉川潤、佐々木敦
舞台美術/速水まりや、寺澤勇樹、五木田唯衣
舞台監督/長堀博士
舞台監督助手/田中新一
映像/藤野禎崇
照明/三枝淳
音響/佐久間修一、佐々木孝憲
大道具/大根田真人、佐藤一茂
小道具/池田包子
宣伝美術/小田善久
写真/田中英世、大久保由利子
記録映像/船橋貞信、高橋弥生、四方隆夫
制作/村岡尚子
■ 協力
AKETA MINO、林慶一、齋藤瑠美子、笠松環、内田久美子、
坂口奈々、J・佐藤、田口博史、RAKUENOH+
JAPAN NOW実行委員会
■料金
前売り Advance/¥2,800
当 日 Box office/¥3,300
学生割引 student discount(要学生証)/各¥500引き


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