劇団掘出者「まなざし」

◎見えない演劇
黒川陽子

「まなざし」公演チラシ「嘘つきのパラドックス」というものがある。「クレタ人は嘘つきであると、クレタ人が言った」と言うとき、「クレタ人は嘘つきである」という部分が正しくても正しくなくても矛盾を生じてしまうというものだ。このときクレタ人は嘘つきなのか、嘘つきでないのか。もし「どちらでもない」と言うことができるとして、それでもなお、クレタ人は、いる。「嘘つき」というアイデンティティも、「嘘つきでない」というアイデンティティも持つことのできないまま、ひたすら不安定な存在として。劇団掘出者第7回公演『まなざし』は、【演劇】が「嘘つき」というアイデンティティも「嘘つきでない」というアイデンティティも持つことのできないまま、強制的に存在させられてしまったかのような、作品自体が巨大な打消し線を伴っているような、奇妙な舞台だった。

あるアパートに、木村永吉・慎司親子と、居候の井上有希が住んでいる。そこにはさらに、井上有希の愛人である深谷功太や、木村慎司の実の姉を名乗る山田知子、木村永吉のナンパしてきた鈴木聡美、聡美の友達の遠藤陽子らが出入りする。作品は全編、これらの人物たちの並列的な会話で構成される。

作中の世界を特徴づけるもののひとつが、登場人物たちが頻繁に家族を取り替えているということだ。例えば、井上有希は自分のことを「13番」と呼んでいるが、それはかつて彼女が木村永吉の13番目の奥さんであったからである。ただし、一夫多妻が許されているわけではなく、その都度、婚姻関係は更新されている。当然のように家族関係は複雑であり、木村慎司にはこれまでにたくさんの兄弟ができた。山田知子が「実の姉」を名乗って近づいてきた際も、自分に「知子」という姉がいたのか否か、その判断すらつかなかったほどである。また、現在同居している木村永吉は慎司の実の父親ではなく、慎司より2歳年下である。

この「頻繁に家族を取り替える」という現象には SF的な興味を喚起されるが、結局、どうしてこのような事態が生じたのか、その理由は最後まで説明されることがなかった。ただ、木村慎司の語った話から、少なくともそのひとつの動機を観察することはできる。彼はかつて「母親」となった女性に頻繁に殴られた経験があり、その際、彼女は「お前を好きだからだよ」と言っていた。慎司は「それなら好きじゃなくなってくれればいいのに」と思った。そのような経験が、慎司に「家族愛」へのトラウマを植え付け、感情より形式によって結びついた家族を求めさせるようになった。慎司と適度な距離を保ちつつ、「父親」らしい言動もしてくれるという点で、永吉は理想的な父親である。逆に言えば、「父親」を上手に演じてくれさえすれば永吉である必要もない。この「交換可能性」と「役を演じる」ことへの意識が慎司を上のような習慣に馴染ませており、この意識は他の登場人物たちにも共有されているようだ。

「まなざし」
「まなざし」

「まなざし」
【写真は「まなざし」公演から。撮影=秋友久美 提供=劇団掘出者 禁無断転載】

さらに、このような基本的価値観は、登場人物の人物造型にとどまらず、より直裁的な仕掛けとなって物語に現れる。タイトルにもなっている「まなざし」である。「まなざし」の仕事は、この世界の人々がしっかりと自分の役割を演じているかどうかを監視することだ。作中で2回登場し、その都度「他者から求められている役を演じられていない人」、「他者が役を演じようとするのを、妨害しかねない人」を退場させる。2回目の登場の際に「まなざし」が語るのが、「ここには『ニセモノ』というルールがある」ということである。皆がニセモノの自分を演じることで初めてこの世界の平穏が達成される。それが「まなざし」の思想であり、同時に作中の世界全体を強力に支配している。

この「まなざし」の存在が「嘘つきのパラドックス」に結びつく。「まなざし」はメタ的な存在である。登場した際、彼は「まなざし」ではなく「舞台監督」を名乗り、格好も口調もいわゆる舞台監督のそれである。そして、役を演じそこなった役者を退場させるような調子で、作中の人物を退場させる。こうした彼の在り方が前提としているのは、演劇は飽くまで「ニセモノ」であるということである。だからこそ彼が舞台監督を名乗ることと、ニセモノの世界の平穏を保つこととの間に整合性が生まれる。しかし、だとしたらこの『まなざし』という演劇作品は一体何なのか。「ニセモノ」を「嘘を見せるもの」すなわち「嘘つき」と考えたとき、「演劇は嘘つきであると、演劇が言った」と言うことができる。つまり、「まなざし」という存在は、『まなざし』という演劇作品を極めて不安定な立場に追い込んでいるのだ。

また、「まなざし」が基づいている価値観が不明瞭であり、それがこの作品の輪郭を一層ぼやかしている。先ほど述べたように、「まなざし」は一見、強固な信念に裏打ちされているように見える。が、彼が何を根拠に「ニセモノ」と「そうでないもの」を判断しているかということは、あまり定かでない。「ニセモノ」があれば当然存在するはずの「ホンモノ」の姿が見えないのだ。「まなざし」が最初に退場させる井上有希のストーカー、佐藤耕平は、客席から登場し、井上を「中村早香」と呼ぶ。これは井上有希役を演じている役者の実名である。この佐藤を「まなざし」が排除することから判断すると、役者の属する現実世界が「ホンモノ」で、井上有希の属する作中世界が「ニセモノ」だということになる。ただ、2回目に登場する際、「まなざし」は作中世界の山田知子を退場させる。ここで先の構図は崩れ、何が「ホンモノ」で何が「ニセモノ」か再びわからなくなる。「ホンモノ」は実は存在せず、ただ作中の調和を脅かしかねない者を排除しているだけ、という印象も受ける。すると彼の基づく「ニセモノ」の概念も曖昧になり、「ニセモノ」としての「演劇」の立場はさらに混沌としたものになる。

このように、「まなざし」は『まなざし』の輪郭を曖昧にするものとして機能していた。ここで連想されるのが、この作品に登場する登場人物たちの性格である。彼らはそれぞれに異なった出自と異なった特徴を持っているものの、「破滅的」という点で共通している。深谷功太とのつながりを「肉体を傷つける」ことで確認しようとする井上有希や、「私たちは所詮、底辺の人間なんだから」という理屈で鈴木聡美を連れて帰ろうとする遠藤陽子など、この世界の住人たちは自分の欲求を達成しようとする際、たびたび破滅的な手段に出る。また、リストカットだけではもはや相手の気を引けないと考えた遠藤が、両腕を合わせたときに「イカ」の形になるようにリストカットし、どうにか注目を得ようと試みるなど、彼らの破滅的な行為は着実にエスカレートしていく。彼らの選んだ手段が彼らの欲求を満たさず、むしろその孤独を深めていく様からは、彼らが何かを切実に求めつつも、その正体をつかめずにいることが見てとれる。この点で、『まなざし』という作品が形式として持つ不安定さは、作中の人物たちと極めて似ているように思われる。

同時にそれは作者自身が意図して選び取ったスタイルであろう。アフタートークの席で、作者の田川啓介氏は「登場人物は全員、自分の分身です」と話していた。そうであれば、「作中の人物と作品の構造とが似ている」という事実は、「作者と作品の構造が似ている」と捉えなおすこともできる。

「なんかここにある。なにかよくわかんないけどとにかくここにある。」これはチラシに掲載された『まなざし』の紹介文の一部である。全体を読んでいくと、登場人物あるいは作者の独白であることが推測される。そして、この独白こそが『まなざし』の正体である。そこには手探りの不安がある。ホンモノが何かは示されず、ひたすら「否定」が繰り返される舞台。ただ、その「否定」によって、「とにかくここにある」ことがわかる舞台。わかるけれど見えない舞台。舞台上の2人の視線が交わることはない。
(初出:マガジン・ワンダーランド第187号、2010年4月21日発行。購読(無料)は登録ページから)

【筆者略歴】
黒川陽子(くろかわ・ようこ)
1983年栃木県生まれ。2007年、『ハルメリ』で第13回劇作家協会新人戯曲賞受賞。現在、劇作家だけの劇団「劇団劇作家」に所属。

【上演記録】
劇団掘出者「まなざし」
新宿・タイニイアリス(2010年3月19日-23日)

脚本、演出:田川啓介

出演者:
石井舞、黒木絵美花、中村早香(ひょっとこ乱舞)、長澤英知(東京コメディーストアジェイ)、宮嶋みほい、深谷明大(奥沢スロープ)、矢沢洸平、澤田慎司、工藤洋崇

スタッフ
舞台監督:鳥養友美
舞台美術:秋友久実
照明:中能良
音響:池田野歩(umlaut)
宣伝美術:中村美穂
当日運営:会沢ナオト(劇団競泳水着)
制作:劇団掘出者

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