連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第6回

||| ベルリンのレパートリーシアターにショック!

加藤種男さん加藤 舞台芸術についていえば、ベルリンの視察をさせていただいたことがあります。フェスティバルの最中だったんですが、劇団・劇場をいくつか回った。それ以外にも、民間の小さなカンパニーの登竜門として用意されている場所、横浜のSTスポットのようなイメージだけど、規模ははるかに大きいスペースにも行きました。その時いたくショックを受けたんです。
 何が一番ショックだったかというと、ベルリナー・アンサンブルもフォルクスビューネも、毎日やっているということですね。どういうふうに毎日芝居ができるのかという、そのからくりを聞いたんですよ。
 今日の芝居が終わると、せっかく組んだステージを全部解体し、夜中に準備をして翌日の午前中に新しいセットが完成し、それはさらに、その次の日の夜やるステージのためのリハーサルをやるというんですよ。それでリハーサルが終わったら、組んだステージをまた解体し、午後に、その日の晩のためのステージを組む。その日の夜やるステージのための練習は前日やっているという。そして夜やったステージのセットをまた壊して…という繰り返し。だから演目は毎日日替わり。シーズン中は、5つも6つものプログラムをとっかえひっかえやる。
 お客は1週間いれば、少なくとも5つくらいの演目はその劇場で見られる。我々が行っただけでも、そういう劇場がベルリンの市内に7つも8つもある。シャウビューネとフォルクスビューネとベルリナー・アンサンブルとドイツ座など、それぞれが日々違う演目を上演するレパートリーシアターで、それでも必ず、ひとつの演目を最低半年間はやる。ロングランも、通常長くて2~3年。といっても同じものを毎日やっているわけではないので、いわゆる劇団四季のロングラン形式とは、全然違うやり方だということがわかった。
 もちろん、えらい金も人手もかかる。つまり、劇場にはかならず劇団がついてなければいけない。しかもその劇団が、やっかいなことにいつも複数の芝居を同時にレパートリーとして抱えている。それでも、いわゆる箱物行政の批判を現実に活かすとしたら、こういうシステムにしないと回らないだろうと思いました。
 その時にもっと驚いたのは、ベルリナー・アンサンブルで、ブレヒトの「アルトゥロ・ウィの興隆」をハイナー・ミュラーが演出した舞台。マルティン・ヴトケという人が、この3時間を優に超える芝居にほぼ出ずっぱりなんですが、ミュラーの演出を身体で表現し、鬼気迫る演技をみせてくれた。後に日本にも来てくれましたけれどもね。
 それであくる日、今度はフォルクスビューネで、「巨匠とマルガリータ」というロシアの作家の脚本をドイツ語に訳した芝居をやっていた。1930年くらいのモスクワと、キリストがいるエルサレムが交互に出てくる。それで、ユダヤ総督のポンテオ・ピラトが裸で風呂に入ってるんですが、綺麗な女官に囲まれて、シーザーの代理人ですから、実にリアルなワンマンぶりを発揮してキリストを呼びつけ、入浴したまま尋問する場面がある。それを見ているうちに、このピラトは面白い役者だな、だけどこのおじさんどこかで見たことがあるぞと。それがなんとマルティン・ヴトケだったんですね。つまり、前日アルトゥロ・ウィの役をやっていて、あれだけ熱演していた人が、あくる日、違う劇場でまったく別の芝居で全然違う役をやっている。もちろんそんなことができる役者はそうそういないにしても、すごいなあと思った。
 それは、劇場がカンパニーを抱えているからできること。もちろんヴトケ自身はカンパニー所属の役者ではなくて、フリーでいくつかの劇場と契約して出演しているのだけれどもね。残りの人たちは劇場の所属の役者であり、スタッフも劇場所属。
 こういうのが劇場というんであって、日本のあの空っぽの装置は何なんだ。こういうのは絶対おかしい。日本に帰ったら、私は劇場をもっているわけではないけど、もしチャンスがあれば、劇場には劇団があるのだという状態を作らなければいけない、カンパニーのいない劇場をのさばらせておくわけにはいかないと思いましたね。
 一方で、ドイツにも箱しかない劇場もある。ただ日本と違うのは、箱しかないのだが、そこにディレクターがいること。テクニカルスタッフも待ち構えている。このディレクターが、若いのをいろいろと選択してきて、まだ劇場なんかもてないけど芝居がやりたいという人たちはたくさんいるから、そいつらをディレクションして、1日何万円で貸すとかそういう話ではなくて、とにかくうちでやれという。まだその程度の実力では、公演も1週間もつかもたないかだろう、そのためには少なくとも3週間の練習が必要だと。練習と公演の間の経費は劇場側が負担する。その経費はどこかの公的な機関からファンドレイジングする。そういうディレクターがいる劇場は生きてきます。
 もっと駆け出しの劇団を支援する、それこそ、かつてのSTスポットの岡崎松恵さんのような方のいる劇場もあって、そこは雑居ビルというか稽古場というか、大した設備はないけれどもスペースはある。ここが本当の登竜門。トライアルで3日くらいやってみますか?というような感じ。公的資金を施設がとってきて、若い劇団員たちに、必要経費を渡し最低限の生活保障をする。ボランティアで、そんなことをやっている人たちがいるんですよ。そういうのを見て、面白いな、何でこういう風にできないのかなと感じました。
 それでも彼らは、私たちはお金がないという。州政府は、一般会計総額のわずか3%しか文化に使ってくれないと怒っているわけですよ。いやあ、これは日本は道遠しだなと。まあ、そうは言っても諦めてはいられないけどね。そういう意味じゃあ、たとえば宝塚歌劇団というのはすごいと思っているんですよ。だいたい劇場に専属の劇団を持って、しかも教育機関まで持っている。こんな仕組みはやっぱり民間でなければ考えつかなかったでしょう。といっても、民間で維持していくためには、ある程度商業的にならざるを得ない。劇団四季にしてもね。
 そういう商業的な活動だけに依拠していても多様性は保証されないから、そこで、パブリックなシステムというのが必要。そして、非商業的であっても、宝塚がやっているくらいトータルなシステムを打ち立てないといけない。民間でもやっているのに、何でパブリックな文化振興のシステムの中でそれができないのかと、まことに不可解ですよね。だから何としてもやっていただかなければいかんと思う。

||| 劇場法が目指す基本的な枠組みを

加藤 劇場法についてはいろいろと議論があるでしょうし、あれが本当によいのかどうか、私には専門家でないからわからない。でも何としても、劇場と劇団をくっつける仕組み作りは最低限やらなければならない仕事で、さらに言えばそのための教育機関をどうするかということもです。マルティン・ヴトケは国立の演劇学校を出ているわけですよ。あちらにはそういう演劇学校がある。もちろん国家的に育てればいい演劇人が出るとは限らないですよ。だから、これに反発して他から出てくる演劇人が出てきてもいい。でも一方で、ある程度基礎的なレベルを維持したいのであれば、それは相当ていねいに教育機関を整備していかないといけない。
 そういうことまで含めて考えると、日本はまだまだやるべきことだらけです。でも、伝統的な芸能である歌舞伎や能狂言では、そういうものは確立されている。おそらく文楽だけでしょうね、国がお金を出してシステムを作ってうまくいった例は。何で、文楽だけやって、他のジャンルではやらないんですかね。演劇の世界なんかでは、制度ができれば、国家的なシステムに乗る人がいるのに対して、絶対それだけは許せんという人は出てくるでしょう。でも今は、一方がないのに許せん側ばかり。許せん人たちが目標なく許せんばかり言っていて、自分たちの研鑽を怠るばかりだから、こっちもあんまり面白くない。やっぱり向こうとこっちに敵がいて、あいつらだけには負けたくないという意気込みがあればこそ、面白い状況になると思うのだけども。そうでないと、みんなナルシシズムの作品に陥るばかり。こういうこと言うと、具体的に名前をひいて批判しそうになるからマズいんだけど…(笑)。
 劇場法のような仕組みづくりは、大筋ではぜひことを進めた方がいい。根本的には大賛成で、絶対そういうものを作るべき。まあ、法律でなくてもいいけれども、何らかの形で、劇場法が目指している事柄の、基本的なコンテンツは作っていかなければならないとは思っています。
 で、世の中の人がよく誤解してるのは、法ができればすべてがそれに包摂されてしまうんじゃないかという危惧。嫌だったらいくらでもそこから逸脱すればいいんです。そうでないやり方なんていくらでもある。今だって民間で独自にやっている人たちがいくらでもいるわけで、劇場法ができても、たぶん宝塚や劇団四季には何も影響はないでしょう。だからそんなことは、一方でやっていけばいい話です。

-古くから民間の小劇場で活動していて、劇場法に反対している方からお聞きするのは、公共劇場にばかりお金が行って、民間が圧迫されるのではないかと危ぶんでいると。今のお話だと、それは、両方あるからこそ競いあってよりよいものが生まれるということですね。

加藤 だから、公立のホールにだけお金がいくのが嫌なのだとして、国家の軍門に下りたいなら、民間ホールも劇場法に入れてくれといえばいい。私は、民間のホールはやせ我慢しても国家のお金はもらわない方がいいと思うけれども。国家の軍門に下ると、必ず国家主義的になるから。芝居こそ、つねに反逆人としての要素をもったところがあった方がいい。そうは言ってもね、それだけじゃ食っていけないということであれば何か考えないといけません。でも、あっちにばかり金が行くから反対というのは志が低いと思います。
 そうじゃなくて、国家が劇場法なんか作って演劇を支配されては困るというなら、その意見には大賛成。絶対に国家になんてコントロールされてなるものかっていうような、その気概は多とするから。だから仮にそういう制度を作るにしても、絶対にコンテンツには口出しをしないようなシステムをいかに作っていくか。どうせ基本的には枠組みを作るだけですよ。中身にまで口出しをしようというなら、それはもう、いくらでも反対する余地がある。
(続く >>


「連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第6回」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: J. Nishimoto
  2. ピンバック: 水馬赤いな

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