◎いま、言葉と身体を問う意味
志賀信夫
演劇と身体性
shelfは2008年8月、利賀演劇人コンクールに出品した『Little Eyolf ―ちいさなエイヨルフ―』で主演の川渕優子が最優秀演劇人賞を受賞した。そのshelfの主宰・演出家が矢野靖人である。矢野は北海道大学在学中から舞台づくりを始め、青年団の演出を経て、2002年にshelfを立ち上げた。「shelf」という劇団名は「book shelf」つまり本棚の意味で、矢野はその本棚にある多くのテキスト(言葉)と身体の関係を追求している。
2009年の『Little Eyolf ―ちいさなエイヨルフ―』(イプセン作)の再演、そして2010年の『紙風船/葉櫻』(岸田國士作)、どちらも北池袋のアトリエ・センティオで行われた公演を見たが、いずれもストイックに舞台を構成し、言葉と身体の関係を考えようということが伝わってきた。今回の『untitled』では、さらにそれを進めて、身体の動きに着目した。出演者はいわゆる「ダンス」ではなく、身体の動きで何かを表現しようとする。だが、感情や物語を具体的に表象するものや比喩的に何かを示すものではない。強いて形だけをいうなら、リーディングに身体表現を加えたともいえるものだ。
近年、演劇とダンスの関係が見直されている。もちろん以前から、ダンスも歌も取り入れた演劇、つまりミュージカルが存在する。アングラといわれる世代でも、唐十郎や寺山の舞台でも歌と踊りが取り入れられてきた。鈴木忠志のように舞踏的ともいえるゆっくりとした動き、次世代でもつかこうへいや第三舞台などはダンスを積極的に取り入れてきたし、ク・ナウカのように、言葉と身体表現を一旦切り離して、それを融合させたという試みもある。さらに、フィジカルシアターといわれた70年代からの前衛の流れを組む劇団もある。
90年代からは、コンテンポラリーダンスの隆盛によって、振付家たちが演劇に登用されるようになった。トヨタコレオグラフィーアワード、横浜ダンスコレクションなどで評価された康本雅子は、劇団大人計画、松尾スズキの『業音』『イケニエの人』『キレイ』などでダンス場面を振り付けた。ダンスカンパニー、イデビアン・クルーの井手茂太は、松本修『アメリカ』、白井晃『ルル』、G2『ダブリンの鐘つきカビ人間』、ナイロン100℃『犬は鎖につなぐべからず』、井上ひさし『東京裁判』、劇団ダンダンブエノなどの注目作で振付を行ってきた。井手の振付は、作品に一般的なダンスシーンそのものがなくても、動きの振付を演出の中に組み込むことで、新しい芝居の創造に寄与してきた。
しかし、チェルフィッチュの登場によって、さらに様相は異なってきた。第49回岸田國士戯曲賞を受賞した『三月の5日間』(2004年)では、若者の日常言葉での対話とともに、自然に動かす体の癖のような動きを強調・拡大・反復することで、動きだけ取り出せばダンス的といえる舞台を作っている。実際にその作品『クーラー』(2005年)はトヨタコレオグラフィーアワードにノミネートされた。これは主宰する岡田利規が横浜の劇場STスポットのスタッフ時代に、演劇とコンテンポラリーダンス公演に関わった経験から、ダンスの現在の状況をよく知り、そこから生まれたものだと僕は考えている。そして、岡田の舞台はドイツなど海外でも高く評価され、また小説家としても活動している。
また、長谷川寧の主宰する富士山アネットも、身体表現を取り入れた舞台をつくる。『SWAN』(2010年)はモダンダンサーを主役に置き、ダンスの舞台といってもいい。また、『家族の証明∴』(2011年)も台詞はなく全体がダンスや動きのみである。だが、長谷川はそれをすべて台詞のある舞台として脚本を書き、その上で台詞を廃した身体表現の舞台にしている。また長谷川は矢内原美邦、パパ・タラフマラ、群々などのダンスといえる舞台にも自ら出演している。
この2人はタイプが違うが、これまでの演劇と身体表現、フィジカルシアターなどとは異なった表現を追究している。そこに見られるのは、用意周到に計算されていながら、それを感じさせない身振り、緩いともいえる感覚だろう。
矢野も彼らと同世代だが、比較すると少し旧タイプに属するようだ。それはテキストとの関係だ。テキスト、言葉を第一義に置き、次に身体表現がある。まず「言葉を信じる」。通常、ダンスを含めて身体表現に向うことには、言葉を否定する、言葉を壊す、言葉を拒否するなどがある。いずれにせよ、言葉をどうするのか、あるいは言葉を使わないならどうするのかなどの問題が交錯しているのは確かだ。
輻輳するテキスト
今回の『untitled』ではいくつものテキストが使われている。アトリエ・センティオの白い舞台、照明は暗めで灰緑色の衣装をつけた出演者たちが立ち、しゃがんでいる。舞台中央手前に本や瓶などが散らばる。そして女性一人が前に出て、その中の雑誌を読み出す。「町から全ての音が消えていた」と始まるテキストは、雑誌『Focus』の記事。廃墟となった町に何匹かの取り残された犬たち。震災後の町を去る車を犬たちは追いかけてきた。この冒頭の台詞で、今回の東日本大震災による作品だとわかる。よく見ると、出演者たちの衣装はどこか汚れており、被災した人、残された人たちという印象が浮かぶ。
彼らはそうしてゆっくり動き、次に有島武郎『小さき者へ』が語られる。早くに亡くなった妻について、子どもたちに贈る言葉として書かれたこの文章は、父親として、「私を乗り越えて生きろ」というのだが、病を凄惨に描き、暗いトーンに彩られている。
次のテキストはイプセンの『小さなエイヨルフ』。障害を持った子どもを溺死で失う夫婦の話だが、夫と義妹の関係など、奇妙な不条理感が漂う。さらに、サミュエル・ベケットの『しあわせな日々』。これはなぜか土に埋まっている妻ウィニーと夫ウィリーの話だ。
そして出演者、中野敬介の名で結ばれる「ラブレター」が読まれる。「つきあってください」という生の言葉。そして再びベケットの『ロッカバイ』。狂って亡くなった母と同じ揺り椅子で死にかかった女性の言葉、モノローグの短い芝居の部分を2人の女性が語る。そして『欲望という名の電車』のブランチの死についての台詞。さらに、再び有島の『小さき者へ』のラストで締め括られる。
このように、テキストは「死によって取り残された者」が大半に共通する。「ラブレター」以外は、死に彩られている。震災によって取り残された犬、同様に母の死によって残された3人の子ども、子どもの死でとり残された夫婦。廃墟のような空間で砂に埋まった妻とそばにいる夫。死ぬことを意識した女たち。観客はこれらのテキストについて、舞台だけを見る限りは、背景がすっとわかるのは『Focus』の言葉と「ラブレター」だろう。だが、冒頭で震災と犬が語られることで、意味のつながりと、死の匂い、「取り残された」感覚、雰囲気は感じることができる。
震災を超える
東日本大震災は多くの演劇人にも多大な影響を与えた。当初、いくつもの舞台が中止され、知り合いの演出家、劇団主宰者たちは、「この震災に対して演劇に何ができるか」を問うといった発言をした。僕はそれに対して、「『演劇に何ができるか』ではなく、『自分が演劇を通して何ができるか』ではないか。客観化した言い回しにしたら社会に関わるように思うのは勘違いだ」「『演劇が社会に対して』『社会と芸術』などは既に語り尽くされてきた。いまさらそれに気づくというのはどうなのか」と指摘した。もちろんそれだけ大きい衝撃であったことは間違いないのだが。
そのなかで、「震災」を描くという演劇に対しては危惧を抱いていた。しかし矢野のこの作品は、そういった作品の陥りそうなステレオタイプを逃れている。もちろん矢野の中に、「震災後をどう生きるか」というテーマはあるのだろう。しかしそれを輻輳するテキストによって拡散し、焦点が一つに結ばれるのを避けようとしている。
もちろん、締め括りとなる有島の「前途は遠い。そして暗い。しかし忘れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。行け。勇んで。小さき者よ」という言葉は一見、ストレートだ。しかし、「希望」に収束することを、暗すぎる有島と他のテキストが裏切っている。そして、有島自身、このように母を失った子どもたちに語りかけながら、それを忘れたかのように、わずか五年後に女性と心中を果たす。『雨月物語』で有名な俳優森雅之ら子どもたちは、そうやって母に続き父を失って、取り残されるのだ。
矢野は大学時代、言語哲学や批評を学んでいたという。そこから舞台に関わるようになった。そしてテキストとの関係を徹底して考え、言葉と動き、身体の問題を課題としている。装置を排し、演技的な動き、過剰な台詞回しも排除する。ニュートラルな表現方法によって、より本質的な作品に迫ろうとしている。
台詞と動きというのは、演劇がずっと関わってきた課題だ。ク・ナウカの宮城聰はそれを逆手にとった手法で、新たな世界を創り出した。矢野は今回、その課題に対して、動きにダンサー・振付家の阿竹花子の協力で動きを作った。ただ、まだその部分は発展途中だ。そして、動きが魅力的だったのは川渕優子だった。もちろん訓練によって培われているのだろうが、それ以上に個の持つ魅力、個性からくる身体性が立っている。これはダンサー、特に舞踏家にいえることだが、技術のみではなく、その存在から出てくる身体の魅力、舞台の「場」を生む身体の力である。
東日本大震災について、依頼されて「癒し」に行った音楽家が語った。「着いたら、まず泥の処理を手伝ってくれ」といわれて、その上で演奏して帰ってきたと。「震災に対して芸術は何ができるか」などにはまっても意味はない。必要と思うなら手伝いに行けばいいし、さもなければいい作品をつくるしかない。そしてその「いい」作品を保証しているのは、「言葉」も身体としてとらえた上での、身体性だと思っている。
言葉と身体を二項対立とするのは、本質的ではない。比喩的にいえば、止揚するための条件づけにすぎない。それゆえに矢野に求めるのは、出演者たちがそれぞれの身体性を声とともに獲得することだ。動きを与えるのではなく、それぞれの中から動きを発見することができれば、おそらく矢野の求める舞台に近づくのではないか。矢野のテキストについての感覚は優れている。ゆえに、その身体性の獲得が課題だ。矢野はピナ・バウシュに惹かれたという。彼女の振付手法は、出演者たちにさまざまな質問を投げかけて、言葉や身体表現で答えさせ、そこから作品を抽出するというものだ。それゆえに、その動きは出演者の体から出てきたものとして強度を持つ。矢野にも独自の身体表現の探求を求めたい。
【筆者略歴】
志賀信夫(しが・のぶお)
1955年12月東京都杉並区生まれ。埼玉大学大学院修士課程修了。関東学院大学社会人講座講師。批評家。舞踊学会、舞踊批評家協会所属。身体表現批評誌『Corpus』編集代表。JTAN(Japan Theatre Arts Network)代表。編著『凛として、花として、舞踊の前衛、邦千谷の世界』
【上演記録、リンク】
shelf volume 11「untitled」(SENTIVAL! 2011 参加作品)
atelier SENTIO(2011年6月2日-5日)
構成・演出 / 矢野靖人
ムーブメント協力 / 阿竹花子
[出演]
川渕優子 Yuko Kawabuchi
櫻井晋 Susumu Sakurai
春日茉衣 Mai Kasuga
たけうちみずゑ Mizue Takeuchi (chon-muop)
小山待子 Machiko Koyama (zacco)
中野敬介 Keisuke Nakano
武田祐美子 Yumiko Takeda
金原並央 Mio Kinbara (害獣芝居)
[照明] 則武鶴代 Tsuruyo Noritake
[ドラマトゥルク]荒木まや Maya Araki
[衣装]竹内陽子 Yoko Takeuchi
[企画・制作]shelf
[主催]atelier SENTIO、shelf
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