連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第11回

||| 劇場法の流れは止められない

-先ほどちょっとお話も出ましたが、劇場法についてお尋ねしたいと思います。これは取材した劇場で必ずお聞きしているテーマなのですが、そもそもこの劇場企画自体が、劇場法をきっかけにしてできた企画なのです。劇場法に対するお考えをお聞かせください。

田辺 私個人としては、一応賛成の立場ですね。制度設計も途中ですし、震災以降またいろいろ見直しもあるだろうと思うので、どういうことになるのか分からないところがあるのですが、この流れ自体は止めようがないし、いろいろ問題点はあるにせよ、劇場法の流れを認めざるを得ないと思います。

-こちらのディレクターという立場は、劇場法でいう芸術監督という立場に近いものと田辺さんはお考えですか?

田辺 そうですねえ、ただねえ、結構何でもやらなくてはならないので(笑)、劇場法の芸術監督だとプロデューサーが別にいて、財政的な、劇場が経営として回っているかどうかはプロデューサーの仕事で、芸術監督は芸術的な方向づけを決める、あるいは自らが創作するということに専念できると思うのですが、今の私の場合はどちらもで、どちらかというと、ちゃんと今月はホールの予定は埋まっているのかとか(笑)、8月はピンチだぞとか、じゃあちょっと8月は盆休みを長くするかとか、あそこがキャンセルしたぞ!とか、そういうことに気をもむことが多いですね。
 劇研は自主事業の資金が最初からついているわけではなくて、芸術文化振興基金なり、文化庁の助成金なりを申請しつつやるので、そういう面ではプロデューサーに近いのかもしれません。ディレクターと言っていても、実際は経営の方が強いのかな。たぶん、劇場法で語られる芸術監督のようないい感じ(笑)ではないと思いますね。

-劇場法が施行されることになったら、アトリエ劇研は、公共劇場ではありませんが、地方の中核劇場のひとつとして位置づけられるような立場ではありますね?

田辺 どうでしょう。今、このNPOとしてはそこの枠組みの中に入ることをまだはっきりとは目指してはいないんです。今年度は申請もしていなくて。貸館をすることで経営を維持することと、いろいろと企画をやりたいという思いのあいだで葛藤というか、ジレンマがあるというのが実際のところです。ここは今のままだと文化庁の言う拠点劇場には手を挙げないことになりそうです。どちらかというと、そういう拠点劇場に人材を送り出す、一歩前段階の役割を果たす民間の劇場という方向ではないかと思っています。

-のちのちあちこちで芸術監督を務められるような、実務能力もあり、制作能力もあるクリエーター、演出家というような人を、ひとつの登竜門として鍛えるといったことですか?

田辺 そうですね。「制作やマネジメントもできる人」を育てるプログラムはまだ持っていませんが、ここでディレクターを務めることを通じて、まずはクリエーターとしてどこでも通用する作品づくりができるところへ持って行くということですかね。ただ、ディレクターには任期があって、私は、3年の任期が2期の計6年、今年の秋にちょうど真ん中、折り返しなんです。だからNPOでは今年の後半あたりから次のディレクターを探し始めるんです。作家・演出家、もしかしたらダンサーかもしれませんが。最長6年というサイクルです。アーチストがここのディレクターを務めることで、将来的にもっと大きな劇場のディレクターをやるための訓練の場となるということではあるでしょうか。

-それこそ、田辺さんが、劇場法施行後にどこかの劇場の芸術監督に、ということも十分あるんでしょうね。

田辺 私自身はそういうことを具体的に考えたことはないんですが、確かにそういう意味では、私の次のディレクターを探すときには、そういう将来を見据えた上でやっていくんだという人になってもらえるといいなと思います。もちろん私もそういう機会をまた頂けるのなら挑戦してみたいと思いますが。私がここのディレクターになったときは、劇場法の議論自体がまだ公になっていないときでもありましたから。

-よくある反対意見は、劇場に公的なお金が入ると、演劇という芸術表現自体が、どうしても「権力」の影響を受けてしまうという言い方があると思うんですが、そういう意見に対してはどうお考えですか?

田辺 いや、全く心配していないですけど。ただ、そうですね、選んだり、評価したりするプロセスの部分では、権力の恣意的な、不透明な振る舞いをいかに排除できるのかということはあると思います。劇場法がどう制度設計されるかにかかっているので、劇場法で地域の劇場が力を持つからと言って、ただちに表現の内容が権力の影響下になるとは限らないと思います。
 京都だと、おそらく京都芸術センターがその中核の場所になると思うんです。それと岡崎に京都会館という大きな会館があり、それが老朽化していて建て替えることになっています。大きく改修して劇場を作りなおすことになってるんです。新しい岡崎の劇場が中核劇場を目指す可能性はあると思います。でもそうなったからと言って、権力が幅を利かせて、芸術表現がしぼむというようには、直ちには考えにくいと私は思っているんですが。プロセス次第、選び方次第かなあ。確かにそこへの危惧は、持ってはいるんですけれど。
 震災もあって、実際にどうなるかまだよく分からないというのが正直なところなんじゃないでしょうか。国がやるからイコール権力で、イコール表現者は抑圧されるというように、直ちに結びついてはいかないと私は思います。

-そこは正直判断の難しいところで、確かにそういう権力観は、ちょっと古いのかなあという感もありますし、一方でそれだけ巧妙になってるんだよと言われると、それも否定しきれない、よく分からないなあという気もしますね。

田辺 ただ、京都に限って言うと、NPO法人の京都舞台芸術協会なんかが、監視するというと大げさですけど、注視しながら何かあったら声を上げるみたいな体制はあるので。そこらへんはいろいろやっていけるのではないかと思うのですが。まあ、最近の行政は押し切ってどんどんやっていくので、京都にいる演劇人が行政の決定を覆すようなところまではなかなか難しいかもしれないですけども。心配はないのかと言われれば、ないとは断言できない。なかなか難しいですね。

||| 地域の境界線をどんどん越える。京都は母港

-京都では文化行政が非常に進んでいるという印象はすごくあります。芸術センターにしても、なかなかできないことだし、そういう基本的な信頼関係みたいなものはあると感じますね。

田辺 芸術センターが立ち上がる時期の前後数年間、京都市の文化課に当たる部署のトップがとても理解のある人で、配置転換も無く尽力してくれたという事情も大きいと聞いています。今はもうその人はいらっしゃらないんですけど。最近は人の入れ替わりが頻繁で、昔はもう少し顔が見えたのが、あ、また変わったの、みたいでちょっと距離ができ始めた感じはあります。そこらへんがちょっと気になるねと話に出ることがあるのは確かです。
 芸術センターの立ち上げに関わった先輩たちであれば、そのあたりを厳しく突っ込むだろうと思うのですが、私自身、そのへんがちょっと鈍感になっているのかもしれないと反省することもあります。そういうところを、権力に巧妙にやられていると言う人はいるかもしれません。
 ただ、20代のアーチストは分かりませんが、30代超えた私とか、ごまのはえくん(ニットキャップシアター代表)とか、柳沼昭徳くん(烏丸ストロークロック代表)とか、ヨーロッパ企画もそうですね、あまり京都京都してないんですね。私も演劇の仕事の半分以上は京都府外から来ています。ごまのはえなんかも、ご存知の通り日本のあちこちでやってたりするので、確かに出発点と帰って来るホームは京都かもしれないけれど、地域の境界線というのはどんどん越えて行ってると思うんです。この前京都芸術センターで『異邦人』を演出した柳沼くん、来年度は京都市外の予定しかなかったりするんですね。以前、それこそ「京都派」みたいなことを東京の人たちから言われた時代は、ここからここまでみたいに京都の中できっちり収まっていた感覚がありましたが、その頃の先輩たちは京都に留まらない活躍をしていて、僕らはその背中を見てきたものですから、そんなふうに仕事をしていくのかなあとか、実際仕事になっていくときは、どうしてもそういう仕事のなって行き方になるので、30代以上の作り手は、実はあまり京都京都してないんだろうと思っています。まだ20代のうちは、まだ演劇が仕事にはなっていなかったりするころには、京都であることに意識が働くんですけど。僕らもそうでした。だから30代以上で演劇をやってる人のありようは、ひと昔前、12年前とは変わってきている。

京都・劇研
【写真は、京都小劇場の拠点、劇研。禁無断転載】

 特に私は実家が福岡なんですけど、福岡と京都の間で物事を考えるという発想が強くて、例えば今、福岡・九州が演劇が元気で、北九州や福岡との連携とか広島や松山とつながりもあったりしますので、確かに住所は京都だし、京都芸術センターやアトリエ劇研が拠点であることは間違いないんですけど、京都は船でいう母港ではあるが、たいてい船は母港にはいない。ある船がパナマ船籍ではあるが、パナマにいるのは見たことがない(笑)、そんなたとえ話をよくするんです。
 ヨーロッパ企画でも京都のカンパニーだと知らないお客さんも結構いるんじゃないかと思うんですね。MONOもそうですけど、京都のカンパニーだと聞いてびっくりする人もいると思うんです。

-それはとても幸せなことですね。力をつける間はそういう揺り籠みたいなところで育って、力がついたらどんどん外へ出て行ける。とても幸せな、いいやり方だなあと思います。

田辺 母港が壊れてしまって帰るところがなくなるのは問題ですけれど。アトリエ劇研もそういう使われ方が増えるといいなあと思っています。ここだけでやるという劇団ももちろんあってもいいし実際にありますが、僕は面談で、ここを踏み台にしてくださいってよく言うんです。それは、ここで演劇をやる劇団だけではなく、スタッフについても同じことが言えるんですよ。テクニカルのスタッフと制作のスタッフを合わせて20人ぐらいいるんですが、たいていは外でも仕事をしています。劇場の管理をしながら、実績を積んでくるとよそからも声がかかって、そうすると外の方が給料がよかったりもするので、自然とそちらの仕事がメインになってくる。その人が劇研を卒業したところに、若い人に来てもらう。若い人がここでいろんな劇団とつき合いながら関係を育てて、テクニックや経験も積んで、やがてまた出て行く。そんなふうになればなあと思っています。それは僕が来る以前からそういう流れがあって、だからあらゆる意味で「人材を出していく」、それが使命だろうなあ。ここは繁華街からは遠いんですね。繁華街のど真ん中にあったら、また違う使命があったかもしれないと思うんですけど。よくも悪くも地の利が悪いということからくる使命、だからこそできることだと思うんですね。

-テクニカル・制作スタッフは20人ですね?その方々はNPOの職員という立場ですか?

田辺 職員です。1年契約の職員ですね。

-独自の事業などは、助成金を申請して行うわけですね?

田辺 そうですね。演劇祭など、例えば去年、韓国から演出家を呼んで、日韓の俳優を使って私の戯曲を上演しましたが、そのときは国際交流基金に申請しました。もちろん持ち出しがあるのですが。持ち出しがあるので毎年はできない、2年に1回が限度で。ですからアトリエ劇研の収入は自主事業に充てるお金を作り出すには至っていませんね。ゼロではないですけど。

-助成金などは、取れるといいんですけど、取れないこともありますね。こまばアゴラ劇場も減ってしまって大変だといいます。

田辺 私たちの、韓国から演出家を呼んで、というのも、中止しようというぎりぎりでした。公演は6月~7月だったのに助成金の申請は3月で、申請していた何か大きいのに落ちて、もう中止の方向でって言ってたんですけど、国際交流基金の方が取れて、プロデューサーは悩んだんですけど、結局やることになって。そのへんのジレンマはあります。取れなかったからといって、じゃあこのお金を充てようというものがあるわけでもないので。恐くて仕方がないですね。

-助成金の申請結果の分かる時期とのかねあいもありますね。

田辺 そうですね、だからなるべく下半期にと思ってるんですけど。

-田辺さんは福岡のご出身ということですが、そうすると大学から京都ですか?

田辺 はい、そうです。今年で36歳なんですけど、一浪して大学に入学したので、京都は16年になります。京都の居心地はいいです。京都を出まい、京都にいようと思ったのは、芸術センターがあったことが大きいですね。演劇をやりたい、続けていこうと思ったときに、いろんな地域の事情をいろいろ聞いて、総合して考えても、京都以上の場所は今のところ見当たらない。東京に行っても、稽古場には苦労すると聞きますし。

-みんな場所を確保するのが大変ですね。「演劇禁止」という張り紙のある公民館なんかでこっそり稽古したりして(笑)。

田辺 東京芸術劇場で廃校になった学校に稽古場施設を作ると聞きましたが。

-水天宮ピットですね。

田辺 それでも需要と供給は、絶対的にアンバランスでしょうね。京都でもベストシーズンはやっぱり厳しいですけど、少しずらせば大丈夫なので。今度の私の作品は夏ですが、夏なんかはいい方ですね。京都は日本の地図上でもちょうど真ん中でよその地域との行き来がしやすいですし。ものづくりや考え事をするにはとてもいい環境だと思います。大都市のような刺激が少なくて退屈というのはあるかもしれませんが、私はそれほど刺激を求める方ではないので、それならのんびりしていられるかなというのもあって。ただ、内側に閉じこもってしまうというか、もっと外の世界を知る必要はあるだろうとも思っていて、そのへんは自分自身でバランスをうまく取らないといけないなと思うんですけど。
(2011年6月18日 京都アトリエ劇研にて 聞き手:水牛健太郎、都留由子)

アトリエ劇研
 京都市左京区の住宅地にある民間の小劇場。1984年に「アートスペース無門館」としてオープン、1996年「アトリエ劇研」に改称。京都小劇場の草分けとして今でも多くの舞台人を輩出。演劇・現代ダンス関係者にとっては全国的にも有名で関西以外の劇団の上演も多い。客席数は60~80。稼働率98%(2010年度実績)、年間来館者数は約1万人。2003年にできたNPO法人「劇研」が運営している。

【略歴】
 田辺 剛(たなべ・つよし)
 1975年生まれ。福岡市出身。京都大学在学中に演劇を始める。大学卒業後、劇団「t3heater」を経て、2004年から創作ユニット「下鴨車窓」を中心に活動を行う。2000年からはフリースクール「みらいの会」の若者たちと演劇をつくりはじめ、特に短編『折り紙気分』は2002年より全国を巡演、ソウル市ほか韓国数都市で上演。2005年『その赤い点は血だ』で第11回劇作家協会新人戯曲賞受賞。2006年秋より文化庁新進芸術家海外留学制度で韓国・ソウル市に一年間滞在。2007年『旅行者』で第14回OMS戯曲賞佳作を受賞。
 2000年から劇場「アトリエ劇研」に劇場運営スタッフ。2008年ディレクターに就任、劇場のプログラムを担当する。現在、近畿大学文芸学部非常勤講師、日本劇作家協会会員、NPO法人京都舞台芸術協会理事など。

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