オクムラ宅「かもめ 四幕の喜劇」

◎二年間の休憩-いつか「かもめ」が飛ぶ日のために-
 宮本起代子

「かもめ 四幕の喜劇」公演から
「かもめ 四幕の喜劇」公演から

 「オクムラ宅」は俳優・演出家の奥村拓が主宰する演劇ユニットである。
 二〇一〇年年四月、『紙風船・芋虫・かみふうせん』で旗上げした。
 岸田國士の『紙風船』をまずは原作通りにきっちりと作ったものをみせ、江戸川乱歩の『芋 虫』をベースにしたオリジナル作品をはさんで、最後にオクムラ版『かみふうせん』を披露した。きちんと和服を着て端正に『紙風船』を演じた夫婦(横手慎太郎/発汗トリコロール、名嘉友美/シンクロ少女)は、『かみふうせん』では着くたびれたスウェット姿になり、場所は現代の都会、マンションの一室らしい。何らかの事情で引きこもり状態になった夫婦が現実と妄想のあいだを行き来しながら、妻は圧倒的な暴力で君臨し、夫は卑屈に耐えながら遂には妻を殺害してしまう。台詞はまったく変えていないのに、状況設定と俳優の造形によって劇世界がこうも変容するとは。予想外の演出に驚嘆しながらも「これはどうしたものか」という困惑があり、何に対してかはわからないが罪悪感のようなものも入りまじって、複雑で刺激的な夜になった。

 そのオクムラ宅が今度は築八十年の民家ギャラリーにおいてチェーホフの『かもめ』をノーカットで上演するという。原作どおりか、独自に読み解いたオクムラ版なのか。民家ギャラリーとはどういう空間なのか。戯曲を何度も読んで「知っている」話であるだけに、舞台の作りや雰囲気が肌に合わなければまちがいなく爆睡だ。期待よりも不安のほうが大きく、恐るおそる目白の駅に降り立ったのだった。

 民家ギャラリー「ゆうど」はJR目白駅から徒歩五分、大通りから少し奥まった場所にある。
 木戸をくぐると小さな庭があり、出演俳優が談笑しているのがみえる。玄関をあがって短い廊下を歩くと和室、板の間それぞれ六畳くらいの広さの部屋が柱をはさんでひとつづきになっており、座布団や椅子が並べられている。客席スペースぎりぎりに縁側があり、さっき通ってきた庭も含めて舞台空間になるらしい。車の音は予想よりよく聞こえ、犬の鳴き声や子どもの声、路地を歩くご近所の方も目に入る。

 いわゆる「劇場」は、外から遮断された特別な空間である。おもての騒音や天候がどうであっても劇場はそれらに左右されず、ゆるぎない空間を保つ。観客は多くのものから引き離され、安全な状態で演劇をみる。劇場の大小に関わりなく、作り手側があらかじめ用意してくれる絶対的な安全性、外界との歴然とした遮断性があるのだ。

「かもめ 四幕の喜劇」公演から
【写真は「かもめ 四幕の喜劇」公演から。撮影=奥村拓 提供=オクムラ宅 禁無断転載】

 三月十一日の東日本大震災直後は余震や計画停電への懸念のために、敢えてリスクを冒して劇場にいくか止めるか、これまでにない決断を迫られた。客席に身を置いてやっと、「劇場こそが自分を安心させてくれる場所だ」と再認識した人が多かったのではないか。劇場に通う日常と劇空間で展開される非日常を味わうこと。それが不安を鎮め、力を与えてくれるのだと。ところが「ゆうど」の場合、日常と非日常のバランスが通常の劇場とは大きく異なる。古民家の客間はまことに居心地がよく、「まったり」という表現がぴったりだ。しかしこちらの意志に関わりなく目に入り耳に入るものに対してどうすればよいのか。余震や停電以前のこと、「自分は客席にどう身を置けばよいのか」という根本的なことに気づかされるのである。

 しかし結果的にこれらのことは杞憂であった。庭で談笑していた俳優たちがひとりひとり、「コースチャ25歳」「ニーナ18歳」と自分の演じる役と年齢を淡々と宣言して本編がはじまったとき、警戒心は自然に消えていた。俳優は庭からも出入りするので雨が降れば傘をさし、濡れながら演技する場合もあり、建物のあいだからみえる大通りのコンビニの看板や、自分が駅から歩いてきた道を含めた日常の空間もまた『かもめ』の世界になっていることがわかる。

 劇場外のもろもろは通常なら演劇をみる妨げそのものであるが、ここでは避けようがない。
 雨が降れば客席まで冷気がしのび寄り、晴れれば蒸し暑い。椅子にかけても次第にきつくなる足腰は、座布団席ならなおさらであろう。しかし精神的な疲れや倦怠感はほとんど感じなかった。外界がまったく気にならないということではなくて、車道の騒音や犬の鳴き声、おもての暑い寒いが「風情」になり、集中と弛緩のバランスが自然に行われたものと思われる。

 特性の強い場所を演技空間にする場合、演出家が自分のカラーをどう出すかは通常の劇場よりもむずかしい。まず場所の特異性に負けてしまうことが往々にしてある。また「この場所を劇空間にするのだ」という意気込みが強すぎて、かんじんのお芝居本編があやふやな印象になることもある。演劇上演に最適とは言いかねる場所に対して、自分の作りたい舞台はこうだと強硬に立ち向かう方法もあって、何があっても負けない気合いは舞台にエネルギーを増し加えるが、それが空回りすると客席にとってはいささか暑苦しい。
「ゆうど」での『かもめ』を楽しめたのは、場所の特性にみずからを委ねる作りであったからではないか。

 「借景」という手法がある。「遠くの山や隣の植木などを自分の庭園の遠景に見立てること」(新明解国語辞典)であるが、通常の演劇鑑賞においては妨げになるものも敢えて拒まず、といってあからさまに「利用」する意図で取り入れることもしない自然体の姿勢が、「ゆうど」を「究極の借景」にしたと言える。周囲の日常の「風景」が、『かもめ』の「情景」に変容したのである。「音」に関していえば、縁側での会話はふつうに聞こえる。それが庭に出ると、とたんに聞こえにくくなり、人物が上手のテーブルについてかわす会話はどきりとするくらい濃密に届く。台詞の密度の変化がダイレクトに伝わってくるのだ。台詞が聞き取りにくいことを観劇のマイナスではなくそのまま受け入れ、逆に聞こえる台詞にはぐっと集中する。演じる俳優だけでなく、客席もまた「ゆうど」の空間に身を委ねているのである。

「かもめ 四幕の喜劇」公演から
【写真は「かもめ 四幕の喜劇」公演から。撮影=奥村拓 提供=オクムラ宅 禁無断転載】

 芝居は大部分が手堅く慎重な作りであるが、オクムラ風の味つけ、演出の工夫について考えてみよう。
 まず原作では年齢も背景もまったく記されていない「下男ヤーコフ」の扱いである。台詞もわずかで、劇本筋に関わることがない。極端に言えばこの人物は演じようがなく、役作りのしようがないのである。今回のヤーコフは冒頭の「役は何々、何歳」と宣言する場面から、何か言いたげな風情を濃厚に漂わせており、ひとり芝居の手伝いやトリゴーリンたちの荷造りなどに忙しく立ち働きながら、心情を表現する場面も台詞も与えられていないことを悲しんでいるようにみえる。上演前、演出家が「途中からだを伸ばしていただける時間もあります」と予告しており、第一幕、第二幕のあとにヤーコフが控えめに登場し、「これから10秒の休憩です。いち、に、さん…」とカウントダウンを行った。それに対して客席はめいめい背伸びをしたり腰を叩いたりと素直に反応したのである。ここだけなら客席の雰囲気を和やかにし、同時にからだの緊張をほぐす巧い方法だとおもしろがって終わりなのだが、終盤になって、ヤーコフに一世一代の見せ場が与えられた。

 『かもめ』は四幕構成で、第三幕と第四幕とのあいだに二年の月日が経過する。今回用いられた堀江新二の翻訳では戯曲のはじめ、登場人物の紹介ページの終わりにそのことが記され、さらに第三幕でトリゴーリンとニーナが長いキスをかわして幕が下り、「第三幕と第四幕の間に二年が過ぎる」と再び記されているのである。この一行を読んでページをめくり、第四幕がはじまる。神西清、松下裕訳も同様なのにこれまで意識したことがなかったのだが、堀江訳においてこのト書きを読んだとき、自分の感覚のなかに二年という時間の流れを落とす、実感させる、体感させていることに気づいた。それからひと呼吸して第四幕に臨むのである。

 前半の10秒と20秒の休憩で「もしかしたら」と予想できたことであるが、第三幕が終わってヤーコフが登場し、「これから二年間の休憩に入ります」と宣言、「一か月、二ヶ月…」とカウントを始めたとき、「やられた」と苦笑させられた。ヤーコフはソーリン家の下働きばかりかト書きの役割まで担わされ、舞台と客席をつないだのである。演出のアイディアというより、ヤーコフという人物に対する演出家の優しさ、いたわりが感じられた。

 疑問点としては、別荘管理人の妻ポリーナが終始躁気味の大仰な造形であること、ニーナに惹かれるトリゴーリンをアルカージナが説き伏せる場面、メドベジェーンコの短パン姿、医師ドールンがコースチャの自殺を告げて終わったはずが、まさかのシーンが付け加えてあることなど、意図や効果を計りかねる箇所もある。

 とくにトリゴーリンVSアルカージナの場面は性愛行為そのものを示す描写になっており、この演出については賛否あるだろう。年増女が押しの一手で恋人の心変わりを覆そうとする見苦しくも滑稽なシーンだ。トリゴーリンが優柔不断ないっぽうで実はしたたかであり、アルカージナに従うと言ったそばからやはりニーナに走り、子どもまで産ませておいて年若い彼女を捨て、結局もとの鞘におさまるという第三幕と第四幕のあいだに起こったかずかずを想起させ、アルカージナをして「この人は、いつだって、どこだって、ついているの」と言わしめる、いいとこどりの色男であることを暗示する重要な場面でもある。

 前回の『かみふうせん』においてもやや過激に走る描写がみられ、これは奥村拓演出の特徴、個性であり、確かに刺激的ではあるが戯曲の本質がぼやけ、妙な「ウリ」になりかねない。あからさまに生々しい様子を観客にみせずに濃厚なエロチズムを感じさせる(そのエロチズムの表現が上演にあたって必要なら、ということであるが)手法があるのではないか。どうしてここまでするのかを、作品ぜんたいとして納得させる描写であることが不可欠だと思う。

 来日したモスクワ芸術座からオクムラ宅まで、これで六回の『かもめ』をみたことになる。これこそが自分のみたかった『かもめ』だという決定打にはまだ出会っていない。しかし夏至のころ「ゆうど」で味わった『かもめ』には妖しい秘密の匂いがして、「よかった、おすすめだ」と声高に言い立てるよりもひそひそ話で伝えたい魅力があり、忘れられない一本になった。

 翻訳劇の可能性を求める演出家として、時代や場所の設定を変えて大胆に再構築するMODEの松本修や、巧妙で小粋な作りが楽しい誤意訳の中野成樹が思い浮かぶ。

 奥村拓には愚直なまでに戯曲を読み込み、細心の配慮をしながら慎重に舞台を作る姿勢が感じられ、抑制と冒険のバランスをどう取るかはむずかしいが、それを楽しむくらいの自信とゆとりを持ち、試行錯誤から生まれ出る戯曲の別の顔をみせてくれることを願っている。

 舞台をみて戯曲を読みなおし、また劇場にでかけてゆく。演劇人生が続くかぎりこの繰り返しである。いつかほんとうに自分がみたい『かもめ』に出会うときまで、倦まず弛まずあきらめず、みずからの『かもめ』を構築していく喜びを再認識できたことを感謝したい。

【著者略歴】
 宮本起代子(みやもと・きよこ)
 1964年山口県生まれ。明治大学文学部演劇学専攻卒。1998年晩秋、劇評かわら版「因幡屋通信」を創刊。2005年初夏、「因幡屋ぶろぐ」を開設。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ma/miyamoto-kiyoko/

【上演記録】
オクムラ宅 第二回公演 『かもめ 四幕の喜劇
目白「ゆうど」(2011年6月17日-21日)

アントン・チェーホフ 原作
堀江新二 訳
奥村拓 演出

*配役
上松頼子(風花水月):アルカージナ
泉政宏(今夜はパーティ/シンクロ少女):コースチャ
名嘉友美(シンクロ少女):ニーナ
宮崎雄真:トリゴーリン
吉岡そんれい:ソーリン
中田麦平:ヤーコフ
鈴木亜衣:マーシャ
yeye:ポリーナ
赤澤涼太(今夜はパーティ):シャムラーエフ
村上佳久:メドベジェーンコ
奥村拓:料理人
山森信太郎(髭亀鶴):ドールン

*協力:日本のラジオ/今夜はパーティ/シンクロ少女/風花水月/髭亀鶴/ゆうど
*企画・制作・宣伝美術:奥村拓
 全席自由2000円 当日2500円


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