「宮澤賢治/夢の島から」(ロメオ・カステルッチ構成・演出「わたくしという現象」、飴屋法水構成・演出「じ め ん」)
「無防備映画都市-ルール地方三部作・第二部」(作・演出:ルネ・ポレシュ)

◎わたしたちはあの日、何を見たのか-「宮澤賢治/夢の島から」
 山崎健太

 震災は私たちを変えてしまった。敗戦がそうであったように、9.11がそうであったように。いや、全ての出来事がそうなのだ。出来事を体験することは、私たちに不可逆の変化をもたらす。体験のその前に戻ることは誰にもできない。

 上演もまた体験であり私たちに何らかの変容をもたらす。今回の『宮澤賢治/夢の島から』の上演ではロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』と飴屋法水『じ め ん』の対照が際立った。非言語的なイメージのみで全てを構築したカステルッチと、様々な声=言葉で何かを紡ごうとした飴屋。だが本来、多様な解釈に開かれているはずのカステルッチ作品のイメージは、飴屋作品を経ることで、あるイメージへと塗り替えられていく。

 『宮澤賢治/夢の島から』の上演について、私たちが公式サイトなどで事前に知ることができたのは次の三点だ。ロメオ・カステルッチ作品と飴屋法水作品の二本立てであること、宮澤賢治をモチーフとしていること。会場が夢の島という野外であること。また、カステルッチが宮澤作品の中から「春と修羅・序」をモチーフに選び制作を行ったことも公式サイトには記されている。つまり、私たちの多くは、程度の差こそあれ、今回の作品が宮澤賢治をモチーフにしたものであることを念頭に上演に臨むのである。

 作品は上演の前から始まっていた。フェスティバルのオープニング演目への期待と野外劇という特別なシチュエーションによる高揚。夕暮れから闇へのグラデーション、街灯の明かり、飛び交う蝙蝠の影。開場を待つたくさんの人。そして私たちの静かな興奮は開場とともにさらに高まることになる。観客ひとりひとりに自らの身長よりも大きな白い旗が手渡されるのだ。千人の観客は手に手に白い旗を持ち、森の中を進む。森を抜けるとそこに広がるのは古代ローマのコロシアムを彷彿とさせる窪地だ。中央には無数の白い椅子が整然と並ぶ。円形劇場の上段から入場した人の列はその周に沿って歩を進め、緩やかにコロシアムの底へと到達する。巨大な白旗を持った千人の行進はそれだけで圧倒的なページェントとなる。コロシアムをぐるりと降りてきた観客たちは、やがて周の三分の一ほどを占める「観客席」へと落ち着く。立ち尽くす千人の観客と千本の旗。ふと見ると、白い椅子の最前列には黒服の少年がひとりポツンと座っている。やがて白いマントを羽織った飴屋法水が登場し、観客たちに掌を向け座るよう指示する。その姿は魔術師のようであり、そのしぐさはわたしたちに魔法をかけているようでもある。しかし飴屋は自らのマントを外し少年に着せると、静かに去っていく。明かりが消え、『わたくしという現象』の上演が始まる。

 広場全体を照らしていた照明が消えると、舞台後方の斜面の上にいくつかのライトだけが残る。ライトはひとつずつ音を立て倒れ、やがて荘厳な宗教音楽が流れ始める。無数に並んだ椅子のひとつがゆっくりと倒れると、それを合図に次々と椅子が倒れ、舞台後方へとひとりでに動き始める。椅子は意思を持つかのように芝生を這い、やがて折り重なりいくつかの塊となって舞台後方右手の斜面へと移動していく。斜面とその手前の芝生に無残に散らばる椅子たち。椅子が静止するとしばしの静寂の後、ライトが倒れたあたりから白い衣装に身を包んだ集団が現れ、思い思いに斜面を転がり降りる。コロシアムの底に着いた彼らはそこで整然と隊列を組み、広場の中央へと移動を始める。中央に辿り着いた隊列はそこで歩を止めるとくるりと後ろを向き、そこから老人がひとり離れ、少年へと歩み寄る。老人に促された少年は立ち上がり、彼が座っていた椅子もまた他の椅子と同じようにゆっくりと倒れ移動を始める。老人は隊列の一部へと戻り、少年はその隊列の中央へと分け入っていく。すると白い衣装の人々は思い思いの方向に散り、私たち観客の方へゆっくりと近づく。少年は広場の中央で全身を青く塗られている。白装束の人々は旗を手に取り、私たちにそれを示すかのように振ってみせる。旗の動きはさざ波のように広がり、千人の観客たちもゆっくりと白い旗を振る。揺らめく白い布で遮られた視界の中、ふと気づけば少年は広場の中央からその姿を消し、舞台奥の土手の上に。少年を照らす照明の中、彼は背後の木と一体化しているように見える。そこから空へと、一筋の青い光が放たれ、やがてその光もゆっくりと薄れていく。

「わたくしという現象」公演の写真
【写真は、「わたくしという現象」公演から。撮影=片岡陽太©  提供=F/T2011 禁無断転載】

 ここで二十分の休憩。

 続いて『じ め ん』。『わたくしという現象』の椅子が斜面に残る以外は何もない広場。少年が登場し、夢の島の地面を掘る。そこはゴミの大地だ。「掘ります」という少年の声。そう声、言葉だ。カステルッチがイメージのみで作品を構成したのに対し、飴屋は多くの言葉を費やす。そこで語られるのは多くが原子力に関する言葉であり、そうでなければ時間に関する思索である。キュリー夫人が放射線の発見について語り、昭和天皇は原爆投下に言及する。第五福竜丸の話が物語られ、原爆を象った透明な風船が登場する。広場を横切り、ガムランを演奏する子どもたちの無邪気な身体と飴屋・カステルッチの年経た身体。東電の鉄塔の保守点検をしていたという飴屋の父の思い出。死者の扱いを巡る飴屋とカステルッチの対話。映画『2001年宇宙の旅』に登場するモノリスと思しき巨大な黒い直方体。「2051年、僕は50歳になりました。」モノリスに映し出される「50年後」のアジアの地図に日本はない。「空を見上げてください。真黒です。」やがてゆっくりと倒れるモノリスに飴屋の体は押しつぶされる。子どもたちがモノリスへと歩み寄り、そこで上演が終了したことが告げられる。やがて飴屋はモノリスの下から這い出し、観客に礼。子どもたち、ガムラン奏者たちとともに、舞台奥へと退場していく。彼らの向かう先、土手の上には、広場を取り囲み見下ろすように白装束の人々。その姿はさながら亡霊のようだ…。

 『じ め ん』は明らかに震災後の、さらに言うならば震災による原発事故以降の私たちの置かれた状況を巡る作品である。(そしてそこに宮澤賢治の言葉は使われていない。)思えばそれは初めから明らかだったのだ。表意文字としての意味を剥奪され、そこに空白による断絶が挟み込まれた地面=『じ め ん』というタイトルは、地震の刻印の残る大地そのものである。そして『じ め ん』を経た私たちは『わたくしという現象』を振り返りこう考える。「ああ、やはりあれも震災のイメージだったのか」と。観客の中で『わたくしという現象』の体験の記憶が変容していく。

 非言語的なイメージのみで構成された『わたくしという現象』は、本来はその解釈の大部分が観客ひとりひとりに委ねられるはずのものである。だが、「春と修羅・序」を知るものにとっては、その詩の言葉と、眼前のイメージが重なるものとして見えただろう。例えば、詩の中の「透明な幽霊」というフレーズと白装束の人々を、あるいは座るもののない無数の白い椅子を重ねて見る。あるいは、最後に空に向かって放たれる青い光を「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」という一節と結び付ける。ところが、『じ め ん』という作品に震災への応答を感じた私たちは、『わたくしという現象』の体験の記憶の中にも、震災の影をはっきりと認めることになる。体験の記憶が、塗り替えられていく。

 旗を持っての行進はデモ隊を、移動していく椅子は津波を、あるいは押し流されていく瓦礫を、白い衣装は防護服を、青い光は原発の爆発による光を象徴していたのではないか。そう言えば宮澤賢治は、被災地岩手県の出身である。私たちが『わたくしという現象』の中に見ていたはずの「春と修羅・序」のイメージは、震災のイメージへと変容していく。もちろん、『じ め ん』抜きでも『わたくしという現象』の中に震災の影を見出してしまうことはあるだろう。例えば椅子のシーン。たくさんの椅子が次々と倒れ、折り重なるように流れていくシーンに津波を見た観客は多かったのではなかっただろうか。私たちはそのような今に生きている。私たちの今には逃れようもなく震災の記憶が刻まれていて、そのような今に立つことでしか、私たちはものごとを見ることが出来ない。

 だが、それでは、私たちの体験は、記憶は、過去は、全て塗り替えられてしまうのだろうか。敗戦によって、それまでの日本が否定されたように。

 『じ め ん』という作品では放射能を巡る様々な言葉、イメージが強烈な印象を残すが、そこにはもう一つ、時間のモチーフが描かれている。時とともに積み重なる地層。キュリー夫人と天皇が言及する未来。引用される『猿の惑星』も『2001年宇宙の旅』も未来を描いた映画だ。子はやがて父になる。父親である飴屋は自らの父について語り、少年は猿に「コーネリアス」という名を-自らの父の名 を-与えることで父となる。2001年という断絶の年に生まれた10歳の少年は2051年、50歳に、今の飴屋と同じ年齢になる。『猿の惑星』で描かれた未来が今とは大きく断絶したものであったように、それでも時は巡る。断絶に抗いなおそこに残るものは何か。

 『わたくしという現象』は『じ め ん』に呑み込まれてしまった。断絶はそこから遡り、私たちの過去への意識をも変えてしまう。そこから逃れることは決して出来ない。だが、私たちは断絶に囚われるあまり、何かを見逃してはいないだろうか。世界は続いている。ならば私たちに出来るのは、呑み込まれつつもなお目を凝らし、こう問い続けることだけである。

 わたしたちは「あの日」、何を見たのか、と。
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