「宮澤賢治/夢の島から」(ロメオ・カステルッチ構成・演出「わたくしという現象」、飴屋法水構成・演出「じ め ん」)
「無防備映画都市-ルール地方三部作・第二部」(作・演出:ルネ・ポレシュ)

◎時を越え、場所を越える力-「宮澤賢治/夢の島から」
 都留由子

 「野外演劇」を見るのは初めてだ。夏の終わり、夕暮れの夢の島。歩きやすい靴でとか、両手が使えるような格好でとか、蚊の巣窟かもしれないので準備を、とか、いろんなお知らせが来た。初めて降りた新木場駅から、何だか緊張して夢の島公園を目指して歩き始めた。

 だんだん暗くなる会場入り口前の道路で、京都から来たという若い人、ダンスをやっているというやっぱり若い5、6人のグループ、たくさんの人たちといっしょに並んで開場を待つ。足元の番号を見ると、どうも1000人以上の人が入場するらしい。

 チケットをもぎったあと、大きな白い旗を渡された。不用意に持つと、ずるずる引きずって踏んで転びそうなくらい大きい旗である。引きずらないように旗を持って林を抜けると、浅いすり鉢形の、芝生を貼ったローマの競技場みたいな広い会場コロシアムに出る。周囲の木々には照明が当たっていて、ぼんやりと桜が咲いたみたいに見える。四列横隊に並んで進む観客は、白い旗を持ったデモ隊のようでもあり、KKKの集会のようでもあり、こうもりがひらひら飛ぶなだらかな斜面をぐるりと回って観客席に到達した。何かの羽音のような、ぶーんという低い音がずっと聞こえている。

 白い旗を地面に敷いて座り込む。キャンプファイヤーの始まりを待っているときの気持ちを思い出す。目の前にあるのは、リゾート地のパラソルの下に並んでいるようなひじかけつきの白いプラスチックの椅子がとてもたくさん。向こうの方まで美しく並んでいる。
 白い椅子の片隅のひとつに子どもが座り、眠り込んでいるかのようにじっと動かない。その後ろで、きれいに並んでいた白い椅子は、誰もいないのにひとりでにひとつ倒れ、ふたつ倒れて、がしゃがしゃという音とともに折り重なり積み上がり、見えない力に引かれるように上手向こうの斜面を登っていく。半年前に見たあの津波と、それに引きずり込まれ、さらわれていく家や車や倉庫がいやおうなく思い出される。白い椅子のがれきが斜面に積み重なって止まると、その代わりのように、正面の斜面から白い衣装の人たちがゆっくり転がり落ちてくる。

 ぽつんとひとり椅子に残されていた子どもは、白装束の人たちに連れられて行き、服を脱がされ青く染められる。やがてさっき白装束の人たちが現われた斜面の奥から、低い空へ向けて、斜めに青いビーム。最初から最後まで台詞はなく、気づけばミサ曲のような音楽が流れていた。

 ここまでがロメオ・カステルッチの『わたくしという現象』。休憩をはさんで後半は飴屋法水の『じ め ん』。

 『わたくしという現象』にも子どもが登場したが、『じ め ん』も、幕開けに登場するのは地面に穴を掘る子どもである。彼は石を掘り出す。その後登場したキュリー夫人がその石はウラン鉱石だと言う。昭和天皇らしき人のインタビューが聞こえ、原爆投下に関する言葉「やむを得ないことだった」が流れる。この場所がかつてゴミを埋め立てて作られた場所であること、そこに捨てられたゴミの中には第五福竜丸もあったことが語られる。『猿の惑星』に出てきたような猿が、『2001年宇宙の旅』の大きな黒い壁、モノリスみたいなものを運んでくる、投下された原子爆弾ファットマンと思われるものが透明な風船になってふわふわと現われる。飴屋法水とカステルッチが、(東電の?)鉄塔を設計していた父親について、イタリアの墓と死者について話し、やがてモノリスには、現在10歳の少年(つまり、2001年生まれだ)が50歳になった2051年のアジアの地図が投影される。そこには「日本と呼ばれた夢の島」の島影はない。『日本沈没』だ。モノリスは倒れて飴屋法水はその下敷きになり、客席前にしつらえられていたガムランの楽師だった子どもたちが、カンカンと鐘の音を鳴らしながら、倒れたモノリスの回りを歩く。葬列のように。

「じ め ん」公演の写真
【写真は、「じ め ん」公演から。撮影=片岡陽太© 提供=F/T2011 禁無断転載】

 暮れてゆく空、シルエットで浮かび上がった周囲の木々、白い椅子、向こうまで見渡せるコロシアム。登場する小さな子どもの姿。気持ちが非日常に運ばれないわけがない道具立てであった。そしてわたしも手もなくすっかり持っていかれてしまった。

 『わたくしという現象』は、わたしにとっては地震と津波とその後のわたしたちの話であったし、『じ め ん』は、福島第一原子力発電所の事故とその後のわたしたちの話だった。いや、そのずっと以前の原爆投下と第五福竜丸の被爆からあとの、わたしたちの話だと感じられた。うっかり気づかなかったけれど(本当は見ないふり・気づかないふりをしてきただけかもしれない)、わたしたちはずっと、地球上から消えてしまうかもしれない「日本と呼ばれた夢の島」で生きていたのだ。

 『わたくしという現象』は荘厳で美しくて、わたしは、折り重なった椅子に津波のがれきを連想し、白装束の人たちや白い旗には、失われた多くの人やものを思い、ただ呆然として何ひとつできなかった自分を思い出し、もしかしたらさらに、空に放たれた青い光には、希望のようなもの、または諦念みたいなものを感じたような気もする。知らず知らずに息を詰めて見ていたようで、見終わったときには緊張が緩んでため息が出た。

 『じ め ん』はもっと具体的に感じられた。穴を掘る子どもは、夢の島に埋められた過去を掘っているのと同時に、『猿の惑星』で自由の女神の埋もれていた未来の砂を掘っているかのようで、この子はきっとわたしたちが滅びてしまったあとに生き残った子だ。日本列島の見当たらない地図の上を、最初からそこには何もなかったかのように、台風の渦巻きが通り過ぎていく。

 すごかったなー、すっかり持っていかれちゃったなー、とほっこり帰宅したのだが、時間がたってみると、それでよかったのかなあと思うようになった。普段経験しないような道具立ての場所、夕暮れ時という時間、ミサ曲のような音楽、白い衣装、そして、広い場所にぽつんと残されたいとけない子ども。あの恐ろしい半年前の記憶と今も続く不安を抱えたわたしの気分にするりと入り込んできたこのふたつの作品は、全く間違ってはいない。たぶん、とても正しい。

 しかし、あの地震や原発事故を経験しないでこのふたつの作品を見たら、どう感じただろうか。もちろんあの天災と事故がなければこの作品もなかっただろうから、この問いを立てることは、実際にはあまり意味がないのだろうが。どういう作品をどう見るときにも、それまでの経験と全く無関係に「その作品だけを見る」ことはできないだろう。ただ普通は、あのような圧倒的なパワーを持つ経験はそんなに多くはないので、この経験がなかったらどうだったろうとは考えないだけだ。逆に、あまりにもパワフルなあの経験に、何を見てもどこかでつながってしまうということもあるだろう。

 そう考えると、いちゃもんをつけるような言い分だとは思いつつ、子どもを出すのはずるいんじゃないかと思う。広場に取り残され、白装束のカレーの市民みたいな人たちに連れて行かれる子どもとか、鐘を鳴らしながらお葬式の列の最後について歩く一番小さな子どもとか(遺された末っ子みたいに見える)、そういうのは禁じ手の飛び道具ではないかしら。お芝居や音楽が、心の深いところに直接触れ、揺さぶるものであることは知っているし、そうあってほしいのだけど、幼いものやよるべないものを見て喚起される気持ちにそれを手伝わせてしまうのは、やっぱりずるいような気がする。それでなくても、とても直接的に半年前の記憶を呼び覚ましてしまうのだから。

 というようなことを思うのも、つまりは、ふたつの作品に揺さぶられてしまった、すごいなあと思って見たということである。そう、すごいなあと思ったのだ。だけど、繰り返しになるが、あの災害や事故を直接に経験していない人がこの作品を見たらどう感じるのだろう。その人たちもわたしのように、揺さぶられてしてしまうのだろうか。どういう芸術作品もその時代背景と無関係には成立しないと思う。このふたつの作品のように、パフォーマンスの趣のあるものは特にそうだろうし、ある時期のある経験をした人たちに強く訴える作品があることも当然だと思う。そういう作品はどのくらい時を越え、場所を越える力を持つのだろうか。

 この作品を見た数日後、豊洲で、灯りのともる高層マンション群を背景に、ルネ・ポレシュの『無防備映画都市 ルール三部作・第二部』を見た。面白かったのだが、それは子どものころテレビで見た「三馬鹿大将」や「ちびっこギャング」のような、ドタバタ喜劇のように見えた(ところがあった)からだった。でも、わたしの隣に座っていた女性はドイツ語が分かるようで、わたしが全然おかしくないところでクスクス笑い、げらげら笑っていて、わたしに見えているものと、隣の女性に見えているものとは全然違うらしいことがよく分かった。

 事前にDVDで見ておかねば、と思いながら結局『ドイツ零年』も『無防備都市』も見ないまま出かけてしまったわたしは、明らかに『無防備映画都市』を理解できていなかったし、面白いとは思ったが、本来意図されたように面白かったわけではなかった。『無防備映画都市』は、背景となるもの、その文脈を知らなければ十全には楽しめない。そのまま比べることはもちろんできないにしても、『わたくしという現象』や『じ め ん』はどうなのだろう。

『じ め ん』にしても、わたしはたまたま知っていた『猿の惑星』や『2001年宇宙の旅』や『日本沈没』を知らないで見たら違って感じられたのだろう。
 しかし、まあ、子どもを出すのはずるいんじゃないかとか、こういう作品は、背景になる出来事を全く知らないとどう見えるのだろうとか、後になってあれこれ考えるというのも、見ているときに、あまりにもするりと気持ちを持っていかれてしまったことの裏返しだろう。それにしても、普段はするりと気持ちを持っていかれても特にあれこれ思わず、ああ面白かった、見てよかったと感じるのに、今回は何が違ったのだろうか。林立する白い旗や、青い光線や、穴を掘る少年の鮮やかなイメージを忘れることはきっとないと思うが、すごくおいしいチョコレートの中に、コツンと歯に当たる、知らないフレーバーの粒が入ってたような体験だった。何がコツンと当たったのか、あのフレーバーは何だったのか、しばらく考えてみたいと思う。
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「「宮澤賢治/夢の島から」(ロメオ・カステルッチ構成・演出「わたくしという現象」、飴屋法水構成・演出「じ め ん」)
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