◎ポスト・カタストロフィを生きる人々の終わりなき遊戯
大岡淳
1 『かもめ』という戯曲
チェーホフの『かもめ』はつくづく恐ろしい戯曲だと思う。まず一演劇人として見た場合、この戯曲の世界では、いかなる演劇の形も肯定されていないことに驚かされる。母アルカージナは、偉大な女優であるらしいのだが、息子コースチャから見れば、旧弊で紋切型で大時代的な演劇を代表する存在である。一方、コースチャは自らが執筆したなにやら前衛的な台詞を恋人ニーナに託すのだが、硫黄の匂いをたきしめもするその「新形式」の演出は、アルカージナの取り巻き連中の失笑を買うことになる。
そして、コースチャに別れを告げたニーナは、退屈な地方生活から脱け出して念願かなって女優となり、職業意識が芽生え新たな一歩を踏み出したものの、未だ評判は悪く当人の精神も落ち着かぬようで、冴えない巡業に身を投ずるしかなくなっている(今で言えば、なんとか芸能プロダクションに所属したものの、安い仕事しか回してもらえず、若さが失われれば引退するしかない女性タレントのようなものだ)。そして、アルカージナの愛人であり、ニーナからは惚れられコースチャからは憎まれる有名作家トリゴーリンは、自身の仕事を味気ないルーティンワークとしか認識しておらず、自分を追って都会に出てきた若いニーナを棄ててしまってなんら良心の呵責を感じてはいない。最も成功を収めているがゆえに、最も退廃に取り憑かれているようだ。
初めてこの戯曲を読んだとき、私は、自分がこれまで親しんできた実験的な演劇の数々が、既にこの19世紀末に書かれた戯曲の中で、観客から無視されあるいは嘲笑されるコースチャの「新形式」の演劇として、パロディ化され風刺され揶揄されていると感じ、愕然としたものである。では、どんな演劇だったら良いというのか。改めて読み直して気づいたが、その答えはこの戯曲には出てこない。それどころかあらゆるタイプの演劇が、限界を孕んだものとして描かれている。それはまた、単なる演劇観の問題にとどまらず、いかなる人間の生き方をも肯定しない世界観に通じており、その世界観によってチェーホフは、全ての人間を見通すパースペクティブ(それは「喜劇」と称されている)の構築を企図している。演劇人や文学者ではなく、地道な生活者として描かれる登場人物の生き様を挙げるとすれば、例えばこの物語の舞台となるアルカージナの兄ソーリンの地所の、管理者の娘マーシャ。彼女はコースチャへのかなわぬ恋に早々と見切りをつけ、魅力に乏しい教員メドヴェージェンコと結婚し、本心を押し殺して地方の退屈な日常生活に適応しているといった次第だ(今で言えば、山本直樹のマンガに頻出する女たちのようではないか)。華やかな都会の文化に吸い寄せられる人々だけではない。地方にとどまる人々もまた、味気ない日々を生きている。そして、これらの人々に共通する、決定的な絶望に追いつめられるわけではないが、さしたる希望があるわけでもないという危うい均衡を、ただひとり踏み外したコースチャが、終幕で自殺を遂げる。
かくして劇作家チェーホフは既に、いかなる演劇も人々に救いをもたらしえないだろうことを、見通してしまっている。近代芸術の特性を、表現形式それ自体を問い直す自己言及性に認めるとすれば、『かもめ』はまさしく演劇による演劇への自己言及性ゆえに、他の芸術ジャンルの代表作に比肩しうる、文字通りの「近代演劇」の代表作となっている。ここから「演じるべきものなど何もない」ことを演じ続けたベケットの世界観までは、後一歩だと言ってよいだろう。モスクワ芸術座が『かもめ』をシンボルマークとしている由来を詳しくは知らないが、演ずることの限界を知悉したうえでそれでもなお演ずるという、「近代演劇」の担い手としての相当な覚悟を踏まえたものだと解釈したい。
2 第七劇場が演じた『かもめ』
さて、第七劇場の『かもめ』東京公演について述べよう。
客席に足を踏み入れると、既に舞台にも明かりが入っており、真っ白い四角い床の上で戯れる、白い衣裳をまとった4人の女が目に入る。なにやら余人には理解できない遊戯に興じているその様から、どうやら精神を病んだ患者たちであることが察せられる。つまりこの舞台は精神病院であり、その中で、突如として『かもめ』が演ずる遊戯が始まるといった趣である。観客である私は、まるで夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』に登場する「狂人の解放治療」に立ち会っているような気分を味わい、眼前の光景はいつしか『かもめ』にスライドしている。やがて、4人のうちの1人、ブランコに乗る女がニーナ(佐直由佳子)であることがわかる。さらにこの狂人たちの世界の外部にいる人間は、黒い衣裳をまとって登場する。アルカージナ(木母千尋)とトリゴーリン(須田真魚)がそうだ。
【写真は、「かもめ」東京公演から。提供=第七劇場 禁無断転載】
また、やはり黒い衣裳で冒頭から登場している、原作ではアルカージナの取り巻きのひとりという役割しかあてがわれていないはずの医師ドールン(小菅紘史)は、この精神病院というメタ・フレームにおいてもやはり医師としての役割を果たし、『かもめ』の本筋を離れた場面でも、絶えず患者である女たちに語りかける役割を背負う。患者たちは『かもめ』とはまた異なったチェーホフのテキストの断片を、誰に向けているとも不明なモノローグとして口にするが、ドールンは律儀にそれらの台詞を拾い、ダイアローグとして成り立たせて回る(小菅の謎めいた存在感が光っている)。彼の居住まいは、決して威圧的ではない。むしろ彼は優しく静かに患者たちに語りかける。おそらくこの精神科医は、患者たちを「治療」できるとは端から思っていない。そもそも「治療」とはパターナリズムを前提とした暴力的行為ではないか。そう思ってすらいそうである。だがそのような善意や誠意に基づいたソフトな管理・統制の下に置かれた患者たちは、「完治」からは程遠く、脱臭され表白されたこのデオドラントな箱庭で、延々と終わりなき遊びを遊び続けるしかない。その中心には常にニーナがいる。美しくはあるがどこか歪んだこの世界は、おそらくはブランコに座るニーナの心に映じた世界なのだろう。彼女は時折、自分でも説明がつかないといった風情で不可思議な仕草を繰り返しながら、幾度もこの真っ白な空間を疾走する(佐直のムーブメントが美しい)。だが、どこへ出て行けるわけでもなく、またブランコへと舞い戻る。
では、肝心なコースチャ(伊吹卓光)はどうだろう。この芝居の中で、主人公であるはずのコースチャは妙に影が薄い存在である。先の対比でいけば、白い衣裳をまとった「異常」な患者たちとも、黒い衣裳をまとい患者たちの外部に位置する「正常」な人々とも異なり、衣裳の印象を含め、強いて言えばその中間をあてどなく漂っているように見える(この演出・演技は徹底していて見応えがあった)。終幕、ピストルで自殺しようとするコースチャの動きをニーナが制止するという動きが繰り返されることで、いよいよもってこれは、患者であるニーナがブランコをこぎながら、回想した世界であろうことが判明する。否、「回想」などという生易しいものではない。おそらく彼女の心の中では、コースチャの自殺が、忘れようにも忘れられず絶えず意識に襲いかかるオブセッションとなって、繰り返し「上演」されているのだ。だがそれは、演じ直すことで自らの体験を相対化・客観化し、精神的な重圧を取り除くサイコ・ドラマのようには機能しない。聞く耳を持ちうんうんと頷き続ける医師のまなざしに見据えられながら、解放も救済も訪れぬままに終わりなき遊戯として演じられるこの芝居の幕は、ニーナの眼前ではいつまでも降りることはない。
例えばイプセン『人形の家』の主人公ノラが、夫を捨て子供を捨て家を出た後の人生は、現実的に考えれば決して明るいものではなく、むしろ悲惨な行く末を辿ったとすら想像できてしまう。だからこそ我々は「その先」をあえて不問に附したまま、ノラが出立する大団円に惜しみなく拍手を送るわけだ。対するに鳴海が演出する『かもめ』は、我々が見たくない「その先」を突きつけるものだったのだ。つまり、チェーホフがわずかに希望を含ませた、ニーナのプロの女優として生きていくという決意も、コースチャの自殺に負い目を感じることであえなく崩壊し、もはや彼女は自分自身の過去というただひとつの劇を、病院の中で孤独に反復するしかなくなるというわけだ。『ハムレット』を参照して書かれたと言われる『かもめ』の中で、オフィーリア=ニーナはかろうじて死を免れて生き続けるわけだが、しかしやはりニーナに待ち構えているのは、オフィーリアに劣らぬ悲惨な末路であろうことを、この演出は示唆するものである。ニーナのオブセッションに終わりがないのは、コースチャに自らの似姿を見出し、その自殺を愚かなふるまいとして否定しきれないからかもしれない。そして、とはいえ彼女とは異なり死への一線を飛び越えたコースチャの達観したまなざしに、自己の根幹をゆさぶられてしまうからかもしれない。
思えばニーナの想念に蘇るコースチャは、その無表情な様も相俟って、夢幻能のシテのようであった。ニーナがワキで、コースチャがシテである能舞台……。以上のように、残酷にも舞台上に露呈した『かもめ』の「その先」――それは、無限に引き延ばされる大団円=ポスト・カタストロフィを生きるしかなくなった、現在の我々の生を意味しているのかもしれない(のちほどもう一度言及したい)。
【写真は、「かもめ」東京公演から。提供=第七劇場 禁無断転載】
終盤、真っ白な四角いエリアを外れた舞台奥で、しんしんと雪が降り積もる。この純白の雪は、病者たちの空間の外部もまた、外部と見えながら実のところ、この純白の空間の内部と大差がないことを暗示する。「いまではないいつか」「ここではないどこか」もまた、「いま」「ここ」と大差はない。退屈な地方生活に愛想を尽かして都会の文化に憧れ、女優となったニーナ、作家となったコースチャが、それぞれに幻滅を味わうほかなかったように。そのことを暗示するかのごとく、幕切れのやりとりはチェーホフ『六号室』から引かれた次のくだりだ。
ドールン 君の知りたいのは町のことですか、それとも世間一般のことですか?
患者1 そう、はじめに町のことを話してください。それから世間一般のことを。
ドールン ……そうですね。町はうんざりするほど退屈です。
このくだりを目にした直後、芝居は終わり、我々は観客席を立つことになる。劇場を一歩外に出れば、そこは、彼女たちが遊戯に興じていた舞台と同様の、一面の雪景色かもしれないのだ。ただ我々は、劇場の外に広がる東京の街を覆い尽くしている、きらびやかな色とりどりの装飾に騙されているために――あるいは騙されていると知りながら、その下に隠れた雪景色を正視することができずにいる。
3 演技と演出
演技について。俳優たちは、内的な緊張に満ちたスタティックな佇まいと、突発的に自らの静けさに苛立って炸裂するダイナミックな言動と、その両者を往還する。彼らの演技は、決してリアリスティックな造形にとどまるものではないが、かといって、過度に象徴的な身体表現に陥っているわけでもない。さらには、単なる両者の折衷でもない。彼らの演技術は、どことは明示できないもののしかし確かにどこかが「普通」からズレてしまっている病者の身体を、日常的な仕草の要所要所に舞踊的なムーブメントを取り入れて表現することで、我々観客に対して、むしろあなたたちの「普通」の身体や「普通」の動作こそ無意識のうちに規制されたものではないのか、と鋭く突きつけてくるところがある。そのような説得力が感じられ、なるほどこの演技術は練られたものだと感心させられた。
演出について。鳴海康平の演出は、以上の通り、単に『かもめ』という戯曲をなぞってみせる演出ではなく、特異なメタ・フレームを設定することで『かもめ』を知的に捉え返し、『かもめ』以後を生きる現在の我々の姿を、合わせ鏡のように照らし出すことを企図したものだと言えよう。その試みはそれなりに成功している。
ただ注文は残る。例えば、既に指摘した終盤の雪景色。あれは、余りに美しく、余りに叙情的な風景だったと言わざるをえない。あえて簡潔かつ下品にまとめてしまえばこの演出は「いまどき演劇をやる人間なんてみんな病気だ」と言っているのだ。そのことを、もっともっと観客に突きつけてもらいたい。叙情に回収せず、観客に王手を指す攻撃性がほしい。舞台上の出来事が他人事ではないと気づかせる異化効果がほしい。紛うかたなくオマエの話をしているのだと迫り来る、筒井康隆の短編小説『読者罵倒』(ペーター・ハントケの戯曲『観客罵倒』を下敷きにしているそうだがこちらは未読)の暴力性がほしい。このままでは余りに上品だ。いや、ここで鉾先はもちろん演劇人や演劇ファンだけに向けられるべきではない。この芝居の中心に位置するニーナの苦悶を、他人事と割り切れる観客がどれだけいるだろう。中島義道の著作『生きるのも死ぬのもイヤな人のための本』(日本経済新聞社)で、中島自身を模した哲学教師が、他人から認められたいという欲求(いわゆる承認欲求)に取り憑かれ、有名人になりたいと願う若者と議論を重ねた末に、「では君は、自分が馬鹿にしている人たちに認められたいのか」と詰め寄る場面がある。若者の返答は「はい、それでも有名になりたいです」だ。哲学教師は愕然として言葉を失い、対話はここでおしまいとなる。実にリアルではないか。
私の目には「自分探し」の90年代以降に成人した若年世代の多くが、多かれ少なかれこのような承認欲求の虜となっているように思える。ここに至って、もはや「正常/異常」という線引きをすることに意味はない。胸に手を当てて考えよ。君も私もニーナではないか。しかもそれは、コースチャの死を乗り越えて、いつかモスクワで大成し、かつて自分を棄てた売れっ子作家を見返す大女優ではない。そのような楽観や妄想をとりのけて、冷酷な現実を見つめよ。虚空に向かって幾度も手を伸ばし、何もつかむことのできぬまま、脆くも地上に頽れる、この芝居が描き出したニーナを見つめよ。それこそが君であり私ではないか。チェーホフの『かもめ』からおよそ1世紀、ニーナを襲った「病」は世界中に蔓延した。特効薬が見つからぬまま、我々は「その先」を生きている。これが、この芝居によって照射された、ポスト・カタストロフィの生の有様である。
鳴海康平よ、コースチャの苛立ちを、ニーナの苦しみを、さらにもう一歩踏み込んで、演劇人である己自身の心象として抉り出せ。私はそのような煩悶や焦燥を舞台の上に見てみたい。そしてそれは決して、あのように美しい雪景色として表象できるものではなく、もう少し違った色をしているのではないか。そんな気がする。
【筆者略歴】
大岡 淳(おおおか・じゅん)
1970年兵庫県生まれ。演出家・劇作家・批評家・パフォーマー。(財)静岡県舞台芸術センター(SPAC)文芸部スタッフ、ふじのくに芸術祭企画委員、はままつ演劇人形劇フェスティバル企画委員、月見の里学遊館舞台芸術アドバイザー、静岡文化芸術大学非常勤講師、鳥取大学非常勤講師、河合塾COSMO東京校非常勤講師。ブログ「日本軽佻派・大岡淳と申します」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/a/ooka-jun/
【上演記録】
第七劇場『かもめ』-ワールドツアー2010-2011 東京公演
シアタートラム(2011年9月8日-11日)9月8日=プレビュー
原作:A.チェーホフ
構成・演出、美術:鳴海康平
出演:佐直由佳子 / 木母千尋 / 山田裕子/小菅紘史
菊原真結 / 伊吹卓光/須田真魚 / 笠井里美(ひょっとこ乱舞)
照明:島田雄峰(Lighting Staff Ten-Holes)
音響:和田匡史
衣装:川口知美(COSTUME80+)
制作協力:山田杏子
主催:第七劇場
協力:atelier SENTIO
■=ポスト・トーク(30分程度)
9月9日 14:00 多田淳之介さん(演出家/東京デスロック主宰・キラリ☆ふじみ芸術監督・青年団演出部)
9月10日 14:00 柴幸男さん(劇作家・演出家/ままごと主宰)中屋敷法仁さん(演出家/劇作家/「柿喰う客」代表)
9月10日 19:30 野村政之さん(こまばアゴラ劇場・青年団制作)
料金:プレビュー 500円(9月8日 19:30の回)、前売2500円 / 当日3000円、はじめて割 1000円(はじめて第七劇場の主催公演を観る方・前売のみ)、リピーター 1000円(半券提示・要予約・第七劇場のみ)、高校生以下無料(学生証提示・要予約・第七劇場のみ)
SePT会員割引 1,000円(劇場チケットセンターのみ)、世田谷区民割引 1,000円(劇場チケットセンターのみ)
▼『かもめ』ワールドツアー2010-2011
2010年12月 三重公演(三重県文化会館)
2011年3月 フランス・パリ公演(Bertin Poiree)
2011年8月 真庭公演(勝山文化往来館ひしお)
2011年9月 東京公演(シアタートラム)
2011年11月 広島公演(広島市東区民文化センター)
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