真夏の會「エダニク」

◎「エダニク」の、まるで時計のような、精密さ。
 梅田 径

真夏の極東フェスティバル公演チラシ
宣伝美術=清水俊洋

 黒尽くめの舞台と客席は額縁のような枠で隔てられて、まるで昔のテレビをみているような気持ちになる。静かな舞台美術だ。舞台上には大きな机を取り囲むように、丸椅子や長椅子が一見無造作に置いてある。
 この空間には、席に座っただけでゾクゾクっとくるような派手さはなく、この時には弱い失望すら感じていた。

 舞台の上に中年というには少し若い男がやってくる。沢村(原真)と呼ばれるその男は、手馴れた仕草で大きなナイフをしゅっと研ぎ、そばの椅子へとホルダーごとかけると、ひとりごとを少しだけつぶやいてから、おもむろにインスタントヤキソバを作りはじめた。観客席までヤキソバの匂いが漂ってくると、疲れた表情で気難しげな職人風の男もやってくる。彼の名前は玄田(緒方普)といって、二人はお互いに同じ工場で働く同僚だ。

 ここは豚を処理する食肉解体加工場の研磨室なのだそうだ。本来は刃物の研磨のための部屋だが、事実上、休憩室として使われている。二人は手作業で豚を処理する特別な処理場である別屠室で仕事をしている。沢村には妻と息子がいて、息子のためにもこれから頑張らなくてはならない! ……と思っているのだが、自分の体に染み付いた「匂い」が気になっているようだ。インスタントのヤキソバのソースが、その「匂い」を消してくれると信じている。一方、玄田はそうしたデリケートな問題には強い疎ましさを感じていて、そのことを隠そうともしない生粋の職人である。

 そんな二人の共通の話題は、今の仕事についての不満だ。本来は病畜を処理する別屠室であるが、今は取引先の農場で特別に育てられた豚を、ブランドを高めるためわざわざ手作業で解体している。その不毛さについての会話が、カップヤキソバをすすりながらの雑談だ。

「エダニク」公演の写真1
【写真は、「エダニク」公演から。撮影=石川隆三 提供=真夏の會 禁無断提供】

 さて、そんな会話が交わされる昼下がりの休憩室に突然二つの事件が舞い込んでくる。一つは、狂牛病などの検査のために保存されていた延髄の検体がなくなってしまったらしいということ。
 もう一つは招かれざる来客である。「エダニク」が面白くなるのはここからだ。ふらふらとした出で立ちで舞台上に現れた、元ニートで30になったばかりのチャラい男。少し世をなめたような彼の立ち振る舞いに、観客は何かが起こりそうな予感を感じはじめるだろう。

 ニートの男は伊舞(夏)というボンボンの男性で、彼と玄田は意見の相違から決定的に対立していくことになる。一方、舞台の外では延髄をめぐる事件がどんどん深刻さを増していき、ただのニートと思われていた伊舞の正体が明らかになるや三人の対立はそれぞれに修復不可能なものへと進んでしまう。

 と、こんなふうにあらすじを要約したところで、「つまらなさそう!」と思ってしまった読者諸兄にまずはごめんなさい。「エダニク」の魅力や興奮や魔力を言葉で伝えるのは難しい。とてもとても難しいのです。

 演劇的な魅力はいたるところに溢れている。三人芝居としての完成度は圧倒的に高く、鍛え抜かれた俳優たちの演技力と間合いの取り方は職人芸の領域に達しており、労働をめぐるテーマとストーリー展開が食肉加工工場という舞台設定を十全に生かしきっている。

 立場の相違が生み出す三人の絶妙な関係性の描き方がとりわけすばらしい。三人がそれぞれの立場を機械的に語るだけではなく、三者の関係は二者同士の組み合わせでも変わっていく。命を送り出す側の畜産業者と命を処理する加工業者、サラリーマンと職人、元ニートと勤勉な労働者というように、ただ機械的に配役しただけでは見えてこないような、人間同士の複雑な関係性を深く抉り出されているのだ。これは俳優の容姿や演技スタイルとも相まって、一目見ただけでも三人が「人間が違う」ことで強く印象づける。

 緊張感溢れる展開に、言葉の上でだけくっきりと姿を魅せる二人の重要人物はいまにも舞台の上に上がってきそうなリアリティをもっているし、これらすべてが合わさった臨場感と緊迫感、事件が終わったあとの満足感と多幸感は他に代えがたい!

 とまぁ、こんなふうな言葉は「エダニク」の魅力を言い当てていると僕は思う。言い当てているにも関わらず、これらの言葉は他の作品にも使いまわせるような、無数の劇評や宣伝文のパッチワークになってしまっている。劇評、というよりも広告に近いのでしょうかね。
 「ふーん、面白かったんだ? でもそれって、他の舞台もそうだよね?」と言われたら、僕はぐうの音もだせずに、小さくそう……かもしれませんね、と同意してしまうかもしれない。

 だからこそ「エダニク」を細部から評価することは「エダニク」の急所を外してしまう気もする。エダニクという作品の見どころも勘所も興奮も、ベタで直裁的な表現によってこそいいおおせることなのだし、むしろ物語とか、俳優とか、語り口とか、そういう演劇におけるベタな部分こそが面白かったのだ。

 そう行ってしまえば「エダニク」において、肝といってもよい部分は最終的に二つしかない。完璧な台本とそれを完全に実現する俳優の演技力だ。

「エダニク」公演の写真2
【写真は、「エダニク」公演から。撮影=石川隆三 提供=真夏の會
禁無断提供】

 「エダニク」は芝居の全体を通じてほとんど暗転しない。三人の俳優はほとんど出ずっぱりのまま、その絶妙の関係性を演じ続けている。俳優の体力と徹底的な稽古、適切な進行を取りまとめる脚本の力が、舞台の仕切り直しをほとんど不要なものにしている。三人の呼吸と間合いがほんの少しでもずれてしまえば、彼らの対立は一瞬で、作り物めいたものに見えてしまうに違いない。「命」なんてことばを大見得切って恥ずかしげもなく言えるのは、現実世界でも舞台の上でも切実な感情をこもって言える時だけだ。その切実さを実現させるリアリティを、三人の俳優は舞台の上に載せてくれた。

 そして、脚本の魅力は展開や会話のたくみさだけではない、やはりその三人をめぐる関係性に対する思想にも宿っている。
 徹頭徹尾三人の俳優しかいない「エダニク」においては、三人の関係性が物語を突き動かしていることを先に述べた。まったくタイプの異なる三人が織り成す対立の物語は、一見、一番大事な関係性が崩壊していく劇のように見えた。しかし「エダニク」は舞台の終盤でまったく異なる色彩を帯びる。

 舞台の終わり間際に、ただ一度の暗転がある。一週間という事件後の時間をしめすその暗転があって、休憩室を混乱させた伊舞が再び現れるのである。

 作業服を着てふてぶてしく現れた彼は、「現場見してもらっとけって」と、上司からの命令であることを匂わせた発言をする。もちろん、伊舞はただたんに研修にきたわけではないはずだ。分かり合えない二人と、分かり合えないかもしれないことを確認するために戻ってきたのだ。玄田は、むすっとしながら、それもまるで不敵さを混ぜ込んだ表情で職人然とした表情で応じるのだ。「びっくりするような仕事見せたるからな」と。

 このシーンをみて、僕はひとつの時計を使った実験を思い出していた。
 壁掛け時計をつかった、こんな実験がある。それぞれに一秒を刻むリズムが異なる壁掛け時計を二つ、同じ薄い壁にかけておく。そうすると、二つの時計はしばらくチグハグなリズムを刻みつつも、いつしかどちらの時計のリズムとも異なるリズムで安定するのである。時計の数を増やしてもかまわない。壁に五つの時計をかけていればその五つの初期値のどれとも異なるリズムで、いままでとは違ったリズムで、それぞれの時計は均衡を保ち、新しい時を刻みだすのである。

 「エダニク」で次々と起こる事件や葛藤は、三人の関係が不安定で、しかもお互いに承認できない状況にならなければならない。しかし「エダニク」では最終的にその関係を続けることをよしとしないし、お互いに承認できなくても、相容れないままでもお互いを認めることができるのだ。そんな可能性へと「エダニク」は開いている。未来のほうへ開かれた物語は、三人の関係が変わっていくことを強く肯定しているのだ。この素直な肯定感は、トリッキーな奇跡やメタファーで語れるたぐいのものではない。激しく対立し、それを乗り切った時に現れる、現実に生きる僕らが、人生のどこかで一度は感じたことがある人とのつながりのあり方だ。

 真夏の會の「エダニク」は脚本と俳優の力に頼り切るような、典型的なリアリズムの手法で作られた芝居である。だからこそ、その手法をすなおに極限まで磨き上げることで、それが目指す高みに届いている。場所も空間も限定された一室で、登場する人はどこにも逃げられない。だから、逃げないで新しい関係を模索するしかない。だからその模索を、そういう物語を「エダニク」は見せつけたのだった。

 けれども二回目に観たときに同じ質量の興奮があらわれるだろうか。上質のミステリーを見ているかのような先の見えない展開は、静謐で力強い興奮を与えてくれる脚本に支えられている……と言い切ってしまうことに抵抗もあるけれど、この本は演出次第でいくらでも進化して変容するような作品ではない。あまりにも精密に脚本をつくり上げてしまったがゆえに、型破りな、あるいは深く心にささるパワフルな魅力を発揮させる箇所がほとんどない。全ての文言や舞台の進行が精密に関係しあうが故に、奇妙な平坦さが生まれてしまっているのだ。

 二回目に観たときに、同じ感動があるだろうか、ないだろうか。テキストの力を乗り越えるだけの演出や魅力があるのだろうか……。僕はそれでも、あると信じたい。信じきるのはちょっと怖い。でも、理由なんかなくても、完成度の高い演劇はどんな理由もなしにまた観たくなるものじゃないか。エダニクの完成度はその高みにまで軽々と達している。

 なお、「エダニク」は第15回劇作家協会新人戯曲賞を受賞している。審査員のマキノノゾミは、「一読して『これ以上何を望むというのか』と思った。」と述べている。文句のつけようのない戯曲だ。この完成度は、演劇がもつ魅力の、一つの完成形を体現している。
 ぜひ劇場で見て欲しい。

【筆者略歴】
梅田径(うめだ・けい)
 1984年生。早稲田大学大学院日本語日本文学コースの博士後期課程に在籍中。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/a/umeda-kei/

【上演記録】
真夏の會「エダニク」(真夏の極東フェスティバル 極東退屈道場「サブウェイ」との2本立て公演)

東京・王子小劇場(2011年8月25日-28日)
作・演出:林慎一郎
振付:原和代
出演:あらいらあ、井尻智絵(水の会)、小笠原聡、門田草(Fellow House)、後藤七重、猿渡美穂、中元志保、ののあざみ
舞台美術:柴田隆弘
音響:あなみふみ(ウイングフィールド)
照明:魚森理恵(GEKKEN staff room)
衣装:福田尚子
舞台監督:塚本修(CQ)
宣伝美術:清水俊洋
舞台写真:石川隆三
制作:笠原希((株)righteye)、尾崎雅久(尾崎商店)

◎伊丹公演(アイホール)
8/11(木) 15:00【極東】 19:30【真夏】
8/12(金) 15:00【真夏】 19:30【極東】
8/13(土) 14:00【真夏】 18:00【極東】*1
8/14(日) 11:00【極東】 15:00【真夏】
アフタートーク  *1:岩崎正裕(劇団●太陽族)

◎東京公演(王子小劇場)
8/25(木) 15:00【真夏】 19:30【極東】*1
8/26(金) 15:00【極東】 19:30【真夏】*2
8/27(土) 14:00【真夏】*3 18:00【極東】*3
8/28(日) 11:00【極東】 15:00【真夏】

アフタートーク
*1:楫屋一之(世田谷パブリックシアター劇場部長)
*2:中屋敷法仁(柿喰う客)
*3:竹内佑(デス電所)×丸尾丸一郎(鹿殺し)を迎えてのクロストーク(昼夜とも)

「真夏の會「エダニク」」への9件のフィードバック

  1. ピンバック: 原 真
  2. ピンバック: Yamaguchi Hideki
  3. ピンバック: 清水俊洋ShimizuToshihiro
  4. ピンバック: 尾崎雅久
  5. ピンバック: 梅田 径
  6. ピンバック: とんかつ
  7. ピンバック: 桜井夕也
  8. ピンバック: 本田範隆
  9. ピンバック: 中原めぐみ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください