岡崎藝術座「レッドと黒の膨張する半球体」

1.「移民」というニセのテーマ
  髙橋英之

 記憶に残る作品は、必ずしも観劇の最中に共感や感動を生んだりはしない。経験的な法則だ。客席で高揚感に包まれ、涙を流し、力いっぱい拍手をしてしまうような作品に限って、しばらくするとその内容をすっかり忘れてしまったりする。逆に、どうにも納得のできない、なんだか理解を超えたものを見せられたような気持ち悪さに支配されて、拍手をするのもためらわれるようなときに、まれに「あ、これ、記憶に残ってしまう」という予感だけがぼんやりと広がることがある。かなり時間がたってしまってから、期せずして思い出してしまっては、うっかりと反芻させられてしまうような作品。岡崎藝術座の『レッドと黒の膨張する半球体』は、まさしくそんな作品であった。

 テーマは「移民」である。まずは、そう言ってしまってよいだろう。舞台には、まず移民の親子が登場する。同化を迫られることの理不尽さと不安。「祖国」あるいは「伝統」というようなわかりやすい虚構からもあらかじめ切り離されたいらだち。そうしたことが、「移民」の二世によって語られる。一方、とりあえずは「祖国」なるものをもっているはずの父親にしても、異国での自分たちの扱いに、違和感を覚え、夢を打ち砕かれている。舞台の上には、ステレオタイプな「移民」像が描かれる。徹底的に違和感のある存在であることが強調される。鼻くそをほじくり、それを舐める。ヘラヘラとした態度で、意味なく笑う。一方で、そうした「移民」と対峙する「日本人」もまた、舞台の上では、典型的な差別する存在として描かれる。すなわち、彼女たちにとって、「移民」とは気持ち悪いものであり、怒りを覚える対象であり、できれば避けたいのだと。そんな「移民」と「日本人」も、時が流れて、結局のところセックス程度のもので結びついてしまい、新たなスタートを切る。それは、「移民」と「日本人」の融合であり、愛憎半ばしながらも、同じ場を共有せざる得ない者たちの当然ともいえる折り合いの付け方であった。このように、作品の中盤くらいまでを観る限りでは、この作品のテーマを「移民」と呼んでしまって、全く的外れではないことが確認される。元々、パンフレットなどでも「移民」について触れられていたのだし、なによりも、作・演出の神里雄大がペルー生まれと紹介されている時点で、深く考えることもなく「なるほど」と思ってしまったりすることさえできる。更にいえば、移民の二世を演じる成河(ソンハ)が、かつてチョー・ソンハと呼ばれていた役者であることを思うとき、「移民」というテーマが舞台裏にまでしみ込んでいるような気すらしてしまう。

 舞台で「移民」と「日本人」の不可解かつ不愉快に思う他者同士の関係が、演劇的に展開されるのにあわせて、観る方としては、そこに仕組まれたメッセージをどうしても探し始めてしまう。他者との交通という、現代思想にありがちの視点で眺めるならば、レヴィナスやフーコーを持ち出したくなるかもしれない。もちろんもっと基本的な問題に立ち返ってカントを参照して、分かりあえるハズのない他者同士の出会いにおける<歓待>のようなテーマを想定することもできるだろう。かっこつけるなら、柄谷行人の「命がけの飛躍」みたいなフレーズを批評のために準備することも、悪くないかもしれない。舞台では、それほどに、典型的すぎる「移民」と「日本人」の対峙する構造が進行するので、いっそのこと「移民」差別反対というような、教科書的な正論すらマッチするように思えてくる。黒人であれば、必ずアファーマティブアクションに賛成しているハズに違いないとか、女性であれば必然的にフェミニズムを支持しているに違いないと信じてしまうくらい滑稽なことなのだけれども、とりあえずは、そのような理解すら許容してしまうかもしれない。舞台で、「日本人」の女は、「移民」にわけのわからない怒りを感じながら、なにかモノを投げるという身ぶりでその怒りを表現している。しかし、登場人物の中で、そういうあからさまな身ぶりで怒りを表現する者はむしろ彼女だけだ。ほかの彼らは、どちらかというと、少しあきらめたかのように、ペットボトルを闇の向こうに、まるで神社に賽銭を投げいれるような身ぶりで転がすだけ。その身ぶりは、「移民」を前提としたシステムへの恭順というようなものを表しているようにも映る。とすれば、「移民」を日本という国が更に成長し続けるための不可避の選択肢としての論理的帰結の道具として受け入れざるを得ないというような経済的合理性に依拠した分析までもが許容範囲なのかもしれない。舞台の中盤までは、いわば、「移民」をテーマにした現実が素材のまま舞台に投げ出されており、そこからは、観る者がもっている現状認識の軸にそった形で、「移民」というテーマを観取ることができる。つまり、いかようにでも共振が可能な舞台が中盤までは進行してゆく。極端にいえば、もっと通俗的に、「移民」の連中はやっぱりダメだ、しょせんあいつらは…式の酷いメッセージを読み解きたい者があれば、それもまた、この作品からは可能性としてはあったかもしれないくらいだ。

「レッドと黒の膨張する半球体」 公演の写真
【写真は、「レッドと黒の膨張する半球体」公演から。提供=フェスティバル/トーキョー
撮影=(C)富貴塚悠太 禁無断転載】

 しかし、神里は、舞台の中盤以降、そのどの道も取らせてはくれない。いきなり、チャイコフスキーの『1812年』を鳴らしみせる。「日本人」の母と、「二世」である息子を並べて、「移民」たる父をワイヤーロープで宙乗りさせるスタントを繰り出す。その祝祭とはなんであったか?それは、もちろん、新たな国としての出発。まさに、200年前にアメリカという移民の国が、その確たる地歩を固めた第二次英米独立戦争の年1812年を想起させる。ナポレオンのロシア遠征を退けたこの年を記念するためにチャイコフスキーが作った曲、『1812年』。そして、現在、アメリカの独立記念日には、必須の曲となっている曲、『1812年』。それは、新しいものが他者との交通に曲がりなりにも折り合いをつけた勝利であり、新しい者たちがみずから出自の他者と対峙して、独立するというスペクタクル。それを、舞台の上で見せた。そこでは、新しい者たちの出発を寿ぐように、歴史と呼ばれる事実を当たり前のように捏造し直し、過去の伝統をとりあえずはかなぐり捨て、前を向いて歩こう!そのような、ポジティブさが出る…そのような身ぶりを精一杯見せてくる。しかし、実のところ、どうにも舞台は、盛り上がらない。せっかくカッコよくチャイコフスキーが流れているのに、どうにもその移民家族の祝福されるべき新たなスタートには、むしろ、あらかじめ諦めてしまっているような雰囲気がまとわりつく。

 この気味の悪さの感じを舞台に創出したという点で、神里雄大は成功を収めているといえるだろう。社会的なテーマを舞台化する演劇作品の中には、その短い時間にうっかりと粗忽な解決策を提示してしまう愚を犯してしまうものも少なくない。正直にいって、社会学の論文だとか、そうでなくても新聞や雑誌を読んでいた方が、よほどそのテーマへの理解度が深まると思わざるを得ないようなものがとても多い。つまり、演劇で表現する必要などないのではないかと思われる作品が、日本の現代演劇には溢れかえっているのだ。エンタメならテレビでよいだろう。論考なら書籍の方がよい。社会派のテーマなら、ドキュメンタリーやらルボの方の迫力にはそう簡単には勝てない。カントだのレヴィナスの思想を理解するのに、演劇はあまりに迂遠すぎる手法だ。だから、そんなものを観劇しながら想起してしまった自分が、この神里の舞台の後半では恥ずかしくなってきた。演劇は、ある種のわけのわからなさを、そのままの形で、共時的かつ共場的に観客と共振させてしまう点にこそパワーを発揮する。もちろん、演劇の効能としては、そこにカタルシスのようなものを操作的に生み出すことあるのだけれども、真価を発揮するのは、この神里の作品のように、わけのわからない不気味さが、そのままの形で観客に訴求してしまうというときだ。今回の作品では、それは、牛であり、牛丼であり、舞台の闇の奥につるされた死肉としての牛肉の塊である。神里は、この作品のいわばニセのテーマであった「移民」に目を向けさせていた観客の視点を、後半、一気にその舞台の奥にずっと潜ませていた「闇」に向けさせる。

 その不気味なものは、システムと呼んでしまってもよいかもしれない。伝統ある「日本人」であれ、祖国をもつ「移民」であれ、はたまた血に関係なく新たな国を構築しようとする者であれ、もはや不可避的に取り込まれてしまう強大なパワー。すべてを飲みこんでしまう黒い「闇」。それが何なのかは、多くのアカデミックの論客たちがいま追究しようとしているテーマ群。しかし、まだハッキリとした名前がついていない。大国がとりあえず「テロリズム」名づけ、民衆がとりあえず「ウォールストリート」に象徴させ、日本では、いま「東電」なり「原発」がそのような存在になっているかもしれないし、ひょっとするともっとストレートに貨幣経済とか格差をその成長のエンジンとするグローバル化というようなものが指し示す何かかもしれない。舞台の上では、「牛丼」がかすかに「闇」の存在を示唆している。とにかく、そういった、いわく言い難いまさしく「闇」の存在。かつては、ビッグ・ブラザーのようなひとつの擬似人格として、あるいは敵として分かりやすく理解してしまえる標的は、もはや現代においては存在していない。わけのわからなさそのものへの反抗。ペットボトルを投げつけてみる身ぶりは、そのような期待されるべき反抗なのだろうが、舞台の上の者たちは、そのような行動はとらない。むしろ、ペットボトルをそっと転がしてみせる。それは、恭順の態度に見える。それが、蔓延している。牛丼を食べ、自らの身を削り、ある者は自殺する。そして、吸いこまれていく。そのようなシステムの闇に生まれた二世もまた、そこに吸いこまれてしまうしかない。そのような「闇」。それを、そのまま、舞台の上に上げてみせた。名前も付けず。とりあえず、「ダークマタ―」という程度の、これまたわけのわからない呼び名を共鳴させるだけに止めて。

 神里の演劇技法の真価が発揮されたのは、その「闇」の呈示に止まらない。神里の卓越した劇作と演出の技があるのは、最後のラストシーン。この作品が、おそらくはわけのわからない印象と共に自分の記憶に長く残ってしまうであろう、究極にわけのわからないラストシーン。「移民」も、「日本人」も、新しいチャレンジも全てが無効化され、「闇」に吸いこまれてしまったあとで、舞台には、唐突に、これまで全く登場しなかった登場する。彼女のセリフはこう始まる。

 わたしは子供がほしかった。
 でも水を飲んでしまった!

 謎である。たしかに、闇にむかって抵抗の気分を示しながら、結局のところ恭順を示した者たちは「水」を口にしていた、それは闇に通じるための必要な通過儀礼であったのだろう。端的に、貨幣なり、欲望なり、とにかくそのわけのわからないものに通じる対象物である。それについて、ネガティブなメッセージが発せられるのは、さして不思議なことではない。しかし、なぜ「子供」なのだろうか。「水」に対して徹底的に否定的な声を浴びせ、「闇」を糾弾する。その結果、提示されるのが「子供」。それは、いったいどういう「子供」だというのか?チャイコフスキーが流れ、新しい「移民」の世界が再生産をしていくアメリカ建国モデルという回収の仕方は否定されたのではなかったのか。ラストのラストで「子供」を軸にして回収するという仕方は、むしろ全く不可解だ。おそらく、ここで神里が提示したものは、まだアカデミックをはじめ多くの言論の世界で、敵なき現代を覆うわけのわからない「闇」に対抗するものとして、十分に咀嚼しきれていない気分のようなもののメタファーであろうか?それを、とりあえずは「子供」と呼んでしまって、観客自身にそれが何かを探してしまう気持ちにさせられたこと。それこそが、この作品が自分の記憶にのこってしまう理由であり。それこそが、この作品の真の成功と呼ぶに値する作用であったということだろう。それにしても、やっかいな作品に、久しぶりに出会ってしまった。恐らくは、忘れられないであろう作品として。
(観劇日:2011年11月2日)

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