ジェローム・ベル 「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」

2.ポピュラー音楽の/による親しみやすさ
  中山大輔

 F/T11のクロージング作品として上演された、ジェローム・ベルの日本版『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』(初演2001年)は、コンセプチュアルさで知られるこの振付家の他の作品同様、西洋の舞台芸術における約束事や個人と集団との関係、過去の芸術家へのオマージュなど、さまざまな知的な仕掛けが盛り込まれた作品である。だが一方で、この作品はベルにとっては珍しく大劇場向けの作品であるとともに、世界50都市で上演された商業的に「成功」した作品である。

 更に付け加えるとすれば、本作はジェローム・ベルのキャリアのなかで転換点となった作品と言えるだろう。この作品には、観客を突き放すような印象さえある以前の作品-出世作『ジェローム・ベル』(1995)や『ザ・ラスト・パフォーマンス』(1998)-にはない「親しみやすさ」があるのだ。そしてこの親しみやすさこそが、『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』の「成功」の要因と考えられる。親しみやすさによって、観客は、ともすると難解さを抱えた作品をとりあえず理解しようとするし、集中を持続させることもできるのだ。

 本作品において親しみやすさが生じた大きな要因は、作品中でポピュラー音楽に重要な役割を担わせたことである。これは単に「知っている曲が聞こえてきたから親しみを感じた」というだけの話ではない。親しみやすさの生じた理由やその効果については、もう少し考察を深める必要があろう。

 この作品を手短に説明するならば、それは「定められたルールにもとづいて、30人弱のパフォーマーによって遂行される舞台作品」となるだろう。ポスト・モダンダンスの用語を借りれば、タスクをこなしていく作業だと言えるし、その意味では一種のゲームである。この作品を貫くルールは、舞台と客席の間にいるDJ(彼は上演におけるベルの代理人である)がかける17曲のポピュラー音楽によって、ひとつひとつの場面のパフォーマーの動き、照明、舞台機構の様態が決まるというものだ。ここでの音楽の役割とは、場面のありようを決定する指令なのだ。

 この「曲と場面との関係の持ち方」には二通りある。ひとつは、曲のタイトルや歌詞がパフォーマーの動作や舞台空間のありようを規定するもので、ほとんどの場面がこのルールに則っている。具体例として冒頭の数シーンを挙げていこう。最初のシーンでは、客席の明かりが消え真っ暗になったのち、『ウエストサイド物語』の<Tonight>がかかる。今回は当てはまらなかったが、公演が夜であれば、当然この「今夜」は「今ここの時間」となるわけである。そして、2曲目のミュージカル『ヘアー』の<Let the Sunshine In>の間に舞台上の照明が徐々に点灯しいていく。3曲目のビートルズ<Come Together>がかかると舞台上に30人弱のパフォーマーが集まり、4曲目のデヴィッド・ボウイ<Let’s Dance>では、サビの “let’s dance”の部分でパフォーマーは思い思いに踊り出し、サビが終わると踊りをやめる。

 もうひとつは、その楽曲ときわめて強いつながりを持ったイメージが演じられるというもので、8曲目の<Macarena>と10曲目の<My Heart Will Go On>が当てはまる。前者では90年代に欧米で流行した同名の大衆的なダンスが踊られ、後者では映画『タイタニック』でレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが演じたあまりにも有名なポーズの約15通りの再現がされる。

 この二つのうち、作品において根幹を成すルールは前者であるのだが、これはわれわれとポピュラー音楽のかかわり方として、あまり自然なものではない。ジョン・レノンの<Imagine>(13曲目)を聴きながら物思いにふけることはあるかもしれない。だがサイモンとガーファンクルの<The Sound of Silence>(14曲目)をかけているときに、 “sound of silence”の歌詞の後で突然CDを消すことは、ここではジョン・ケージへのオマージュとして機能しているが、普通はしないだろう。それに比べると「それらしい」イメージを再現する後者のルールはより自然な行動である。

 だが、前者の場面がニュートラルあるいはパフォーマーと観客を結びつけるような情景になっているのに対し、後者ではパフォーマーの動きが、元のイメージに対し批判的に機能しているのは興味深い。マカレナ・ダンスはだんだんと、楽しげな踊りではなくエアロビクス的なトレーニングに見えてくるし、タイタニックのポーズは実際にはそれほど美しくなく、身体にかなり負担がかかる体勢だということがわかる。おまけにパフォーマーたちは沈没したタイタニック号のごとく、奈落へと落とされる。彼ら/彼女らは「死んでしまった」のだろうか。そうではない。すかさず<Yellow Submarine>(11曲目)がかけられ、大セリが下がったあとの空間は黄色く照らされる。パフォーマーたちは潜水艦によって海底で「救出」されたのだ。

 こうした音楽を用いた一種の遊びを観客は楽しむ。つまりは、音楽と場面との新たな組み合わせの発見を楽しんでいるのだが、さして無理なくかつ楽しくその遊戯に興じることができるのは、流れている音楽と観客が知識もしくは記憶として持っている音楽とにある程度の共通点があるからである。

 岡田暁生は『音楽の聴き方』のなかで、フランスの文学理論家ピエール・バイヤールが読書体験について使った「内なる図書館」という言葉を、音楽を聴く経験にも援用している[1]。これは、われわれは音楽を聴く際に、自分のなかにある音楽のアーカイヴと照らし合わせながら聴いているということだ。われわれは観劇中、新たな曲がかかると、自身の音楽アーカイヴと照らし合わせ「この曲をここで使うのか!?」といったことを考えているのだ。場面のつながりから次に流れる曲を想像すること、あるいは曲の使われ方に感心したりしなかったりすることは、多分にゲーム的な要素を含んでおり、それ自体楽しいものだ。

 われわれは作品を見ることでベルの音楽アーカイヴに触れる。もちろんそれはこの作品のためのものではあるが、<Into My Arms>(9曲目)のように、ベル自身の思い入れが選曲の大きな要因になった曲もある[2]。ある意味では、この作品を見ることはジェローム・ベルが選曲したオリジナルCDを聴くことだと言えるかもしれない。だとすれば、それは「お気に入りの曲が入ったCD(テープ、MD)」を聴いたときのような感情、それを作った人物への親しみの感情を呼び起こすかもしれない。

 加えて、終盤にはポピュラー音楽を介して観客とパフォーマーとの結びつきが生まれる場面も用意されている。それは、パフォーマーがひとりあるいは複数でiPodで音楽を聴き、歌詞のごく短いフレーズを繰り返し発するシーン、作品中、唯一曲が聞こえない場面である。

 このとき観客は、彼ら/彼女らがiPodでどんな音楽を聴いているのかが気になる。それは単に、これまで聞こえていたものが聞こえなくなったからだけではない。観客はそれぞれのパフォーマーが聴いている曲について、その年恰好や見た目から漠然とした予想や期待をしているはずで、それゆれ歌詞が発せられたときに、人と歌とのマッチングもしくはギャップに反応するのだ。

 以上のことは場面の設定上、生じてくるものだが、興味深いのはこのシーンで使われる曲が個々のパフォーマーによって選ばれていることだ[3]。そのため、この場面ではプロダクションごとのバリエーションが生まれることになる[4]。だが同時に、観客がここでパフォーマーの音楽アーカイヴに触れていることも指摘すべきだろう。

 この場面の後、16曲目としてロバータ・フラックの<Killing Me Softly With His Song>が流れ、パフォーマーたちは今度こそ「死ぬ」。だが最終曲のクイーン<The Show Must Go On>とともに彼ら/彼女らは生き返る。この最後の場面は、ナイーヴともとれる形での舞台芸術への信頼の表明である。

 「ショーを続けなくてはならない」というメッセージは、もし今後も舞台芸術を続けていくのなら、とりあえず言葉としては認めなくてはならない。だが、この宣言が本作品において現実に説得力を持つかどうかはまた別の話だ。このラストが空虚なものにならないためには、この作品が観客から一定の支持を得る必要がある。そうした評価が広範に得られるとすれば、その理由の一端はポピュラー音楽を介して得られた親しみやすさによるものだろう。客席の反応から察するに、その戦略は日本でも有効だったようだ。いまさら指摘することではないが、この作品は舞台芸術の枠内においてグローバルな市場を手にした。音楽市場のなかでのポピュラー音楽がそうであるように。

【註】
[1] 岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書、2009)12-14ページ。バイヤールが「内なる図書館」という言葉を使用しているのは、ピエール・バイヤール(大浦康介訳)『読んでない本について堂々と語る方法』(筑摩書房、2008)。
[2] F/T11のプログラムとして早稲田大学で2011年11月14日に開催された「F/TユニバーシティVol.7 ジェローム・ベル」でのベルの発言による。
[3]「F/TユニバーシティVol.7 ジェローム・ベル」でのベルの発言による。
[4] 日本版ではJ-POPや歌謡曲、アニメソング、R&Bなどが入っていた。

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