青年団「ソウル市民 五部作」

◎耽溺と覚醒? 〈唄〉をめぐるアンビヴァレンス
 プルサーマル・フジコ/藤原ちから

 生まれる土地を選ぶことはできないけども、生きていく土地を選ぶことならできる。そう思いつつも、実際はそう簡単に移住できるものではないけどねー、とゆう実感は今では広く共有されつつあるのではないだろか。仮にえいやっと思いきって新天地を求めたところで、いろんな摩擦に晒されるのは避けられない。ぬぐえない。泥まみれの人生だ。おまけにそこに放射能まで加わっている。

 2011年、移民とゆう選択肢はわたし(たち)にもそれなりにリアルなものとして突きつけられた。その壊滅的な年の秋に、〈ソウル市民五部作〉は2本の新作を含む一挙上演とゆう形で東京・吉祥寺シアターでお披露目となった。ある意味、移民の話である。日本列島本土を離れてソウルに移り住んだ豪商・篠崎家を数世代にわたって描いた歴史クロニクル。いつもの青年団の芝居と同じくただ日常が進行し、特に大事件が起きるわけでもないのだが、手品師や臆病な相撲取り、はたまた偽・看護婦や偽・ヒトラーユーゲントまでもが次々やってくるので、篠崎家の女中たちはお茶を出すのに大忙し、てんやわんやとなっている。

 わたしはこの〈ソウル市民五部作〉を、〈唄〉が紡いでいく物語として見た。ドキュメンタリー映画監督・想田和弘氏もツイッターで次のように指摘している。「そういえば、平田オリザ氏の演劇では、他人同士の思わぬ出会いや邂逅の際に唄が介在する場合が多い。知らない人同士なのに、唄だけは知っているという。それで気持ちが通じ合う。」(@KazuhiroSodaの2011/12/18のつぶやき。 http://p.tl/mWzP

 これらの作品群では応接間(居間)が舞台になっており、そこはこの家の人間がくつろぐ場所であると同時に、外からの怪しい訪問者を迎え入れる「セミパブリックな空間」でもある。〈唄〉はここで触媒として人と人とを繋いでいく。とりわけオルガンが導入された第二作『ソウル市民1919』のラストシーンは、大変華やかでハッピーで心躍るものがあった。〈唄〉の力は大きい。音楽の力は大きい。感動させてくれる。

「ソウル市民1919」公演写真
【写真は、「ソウル市民1919」公演から。 撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】

 演劇作品にはしばしば〈唄〉が登場する。だがその効果絶大の〈唄〉はどこか違和感を誘うこともある。そこに耽溺することを許さない倫理的な何かが、時としてわたしの中に芽生えることがあるのも確かだった。耽溺か、覚醒か。このディレンマのようなものは何か? その正体を探りたいと思った。それがこの文章であるのだが、とはいえまずは平田オリザと青年団がこの〈五部作〉とりわけ2つの新作において何を為そうとしたのかについてはできるだけトレースするよう試みたつもりである。とりあえず、夢の中に平田オリザ氏が現れて昔話をしてくれるくらいには辿ってみた。

 構成としては、まず一大歴史クロニクルである〈ソウル市民五部作〉の全体像を確認する(■1)。続いて新作『サンパウロ市民』の「実験」と、そこで〈唄〉が生み出している祝祭性について検証する(■2)。それからさらにもうひとつの新作『恋愛二重奏』における〈唄〉と、そこへの皮肉の一撃を見ていくところから耽溺と覚醒のディレンマについて考察する(■3■4)。最後に、最も印象に残ったシーンについて言及する(■5)。ウェブに掲載される劇評としては長い部類に入るが、途中、実際に唄を用意していたりもするので、再生しながら楽しんでいただけたらと思う。

■1.〈ソウル市民五部作〉の設定

 さあ、まずは〈ソウル市民五部作〉の全体像をざっくりとつかんでおこう。すでに過去に上演された3作品、『ソウル市民』『ソウル市民1919』『ソウル市民 昭和望郷編』に加えて、今回新作として追加された『ソウル市民1939 恋愛二重奏』までの4作品はソウルを舞台にしている。ただしソウルは当時の呼び名では「漢城」、さらに1910年の日韓併合により「京城」と名称変更されたので、作中でもそのように呼ばれている。これらの作品群は、それぞれ日韓併合、三・一独立運動、世界恐慌、そして迫り来る太平洋戦争への予感に晒されており、いわば政治的緊張感を遠景においている。こうやって遠景に大状況を置くのは『東京ノート』などでも見られる平田オリザの十八番であると思う。

 篠崎家は植民地・朝鮮半島においては「主人」たる日本人であり、かつ当時貴重であった文房具を取り扱う「富豪」でもある点で、いわば二重の支配層として朝鮮半島の中心地・京城府に君臨している。次第にやや没落の影こそ見えはするものの、最後までそれなりに裕福で呑気な善意の大家族として描かれる。この呑気さが何より怖い。日常の無邪気さが、巨悪を支えることもある。そこがこのシリーズに通底するテーマでもある。

 一方で、5作目となる『サンパウロ市民』は、ソウルではなく1939年のブラジル・サンパウロを舞台にしており、舞台衣裳も明るい南米テイストに様変わりする。この作品に登場する寺崎家は移民の中では数少ない成功者だが、いつ外国人として排斥されるか分からない異国のマイノリティにすぎない。当時ブラジルではすでに日本人学校が廃止され、すぐ数年後には日本人の移民受け入れも停止、日本語新聞も発刊停止となる運命が待っている。何しろ日本までの距離がソウルとは格段に違うので、もう二度と日本には帰れないかもしれないとゆう緊張感が漂う。

 まとめると次のようになる。
『ソウル市民』1909年、漢城(ソウル)、日韓併合(1910年)
『ソウル市民1919』1919年、京城(ソウル)、三・一独立運動(1919年)
『ソウル市民 昭和望郷編』1929年、京城(ソウル)、世界恐慌(1929年)
『ソウル市民1939 恋愛二重奏』1939年、京城(ソウル)、太平洋戦争(1941年?)
『サンパウロ市民』1939年、サンパウロ、太平洋戦争(1941年?)

 なぜ5作目で舞台がサンパウロに移されたかと言えば、平田オリザが数年前にブラジルを訪問した時にインスピレーションを授かったのが始まりであるらしい。『サンパウロ市民』の作中には開拓された農場のことをさらりと「植民地」と呼ぶ場面があるが、その用法に遭遇して衝撃を受けたという。

 「私はまず、この言葉の使われ方に、静かな衝撃を受けました。(中略)日本が韓国を保護国化、植民地化していくのとまったく同じ時期に、地球の裏側で別の形の移民が始まり、まったく異なる「植民地」が形成されていく。これは、もしかすると演劇の素材になるかもしれないと考えました。」(ソウル市民五部作特設ブログより http://p.tl/NY7C

 2つの新作は、ほぼ地球の真裏にあるソウルとサンパウロの両都市に移住した人々の、皮肉な運命の分かれ目を描いているとも言えるのだ。

■2.新作『サンパウロ市民』の「実験」

 さて、物語の前提を確認したところで、いよいよここから本題に入っていきたい。まずは先に第五作の『サンパウロ市民』から。実はこの作品はかなりアクロバティックな仕掛けを施されていて、舞台をサンパウロに移植しただけでなく、最初の三部作の様々なセリフやシーンをコラージュしている。つまり平田オリザはここで、いわゆる二次創作にも近い「セルフパロディ」とゆう賭けに出たのだ。

 この作品の執筆にあたり、平田はガルシア=マルケスの『百年の孤独』やレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』も参考にしたそうだから(特設ブログより http://p.tl/EfiG)、想像するに、この南米の大作家のエピソード収集力と巨視的な妄想力、そして文化人類学者の「ブリコラージュ=寄せ集めてモノをつくる」といった概念を参考にしたのかもしれない。『サンパウロ市民』の当日パンフには「大きな交響曲の中で、執拗に繰り返される主題」とゆう「実験」であったと書かれているが、この執拗なる反復がまさにコラージュによってもたらされている。

 そもそも前提として、このシリーズでは10年後の同人物を別の役者が演じたりもするし、ただでさえ繁栄を誇る大家族たる篠崎家の血縁関係はかなり複雑。連続して作品を観ていくと、誰が誰だか混線してしまいかねない。それがさらに『サンパウロ市民』でコラージュされているので、混線具合はより複雑であり、ある意味、もう誰が誰でも構わない状態になっていく。ここがこの「実験」の重要なポイントである。

 さらに特に第三作『ソウル市民 昭和望郷編』には多くの文学者や政治家の固有名詞が振りまかれている。例えば「津島のシュウジくん」なる文学青年の存在が、篠崎家の遠縁の親族として会話の中に登場したりもする。あるいは人名にかぎらず地名もそうで、『サンパウロ市民』では女中たちの出身地が沖縄や広島とゆう設定になっていて、否応なくそのわずか数年後にかの地にもたらされるであろう大惨劇を想像させる(蛇足ながら、沖縄はともかく広島はやや設定としてやりすぎにも感じた)。こうした「偽史」をそこかしこで紡いでいく固有名詞が、観客の想像力を一気に遠くにまで飛ばし、『サンパウロ市民』に歴史的・地理的なひろがりを与えていった。

 そしてこの人物や固有名詞のコラージュによるセルフパロディ的な「実験」は、舞台上にいる役者たちがみんなで名曲「Brazil」を歌い出すシーンでいよいよヒートアップし、曲の陽気さも手伝って舞台は一気に祝祭的なムードに包み込まれる。
 そう、ここでようやく〈唄〉が出て来ました!

 このシーンは圧巻だった。〈唄〉を歌うことによって登場人物たちは混線し、溶け合い、混ざり合い、今や個々の名前を剥ぎ取られ、あたかも匿名の存在(anonymous)になってしまったかのようにも見えたのだ。この饗宴においては「誰が誰であるか?」はもはや問われない。どこかの誰かであることには変わりないし、歌い手であることにも変わりない。〈唄〉は、それを歌う人たちを等しく祝福していくのだろう。これは人間賛歌である。それぞれの人生で経験されていくであろう様々なよろこびやかなしみ、あるいは名付けえない感情のようなものも、ここではすっかり溶け合い、いわば全世界的な人類の受難として、祝福され、あるいは弔われていく。〈唄〉はここでは全てを肯定しているようにも思えた。大作クロニクルのフィナーレにふさわしい感動的なシーンだった。
 要するに、ここではもはや人は特定の「誰か」であることを辞め、普遍的な「誰でもないもの=誰でもあるもの=anonymous」へと変貌していったのである。

「サンパウロ市民」公演写真
【写真は、「サンパウロ市民」公演から。 撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】

 ところでこの執拗なる反復とコラージュとゆう「実験」のアイデアは、若い作家たちに影響を受けたものでもあった。当日パンフにおいて、1962年生まれの平田オリザは、干支にしてひと周り違う1973年生まれの岡田利規(チェルフィッチュ)と、ふた周り違う1985年生まれの藤田貴大(マームとジプシー)を名指しして、彼らの方法論に刺激を受けたことを明かしている。

 「『藪の中』に代表されるように、一つの事柄について、複数の人間が異なる視点から証言をするという手法は、小説には多く見られますが、これを岡田さんや藤田さんは、より斬新な手法で演劇に取り入れ成功しました。私自身はどちらかと言えば、そのような事柄は、一つの戯曲の中に技巧的に表すべきだと考え、そこに心血を注いできましたが、より若い世代が、物事の多面性を、もっと直接的に描こうとする心情は理解できるつもりです。」

 これは平田オリザ自身が発明した「現代口語演劇」を、よりブラッシュアップして更新していった彼ら若い作家たちの方法論に、再帰的に刺激を受けたとゆうことの表明であると同時に、「まだまだ若いもんには負けんぞ!」とゆう自信と気概の現れにも見える。実際〈ソウル市民五部作〉の舞台はエネルギッシュで、フレッシュで、かつリフレッシュされているとも感じられ。生き生きとしていた。これまでわたしが観てきたかぎりの青年団においては、抑制されていたようにも感じた俳優たちそれぞれの持ち味が、ここではより解放され花を咲かせていたような気がしたのだ。秒単位の厳密な演出をしてきた平田オリザがいくらか放任主義のほうに舵をきったのか、それとも俳優たちの成長がそうさせたのか?

 青年団は劇団内部に演出部をつくり、「青年団若手自主企画」や「青年団リンク」、さらには深田晃司監督の映画などを通して、俳優たちの活躍と成長の場を緩やかに醸成してきた。青年団に初期から在籍し、今回の〈五部作〉にも出演している松田弘子は、座談会で次のように語っている。

 「さっきの演技の話しだけど、この、最初のころは、うまい/下手とかっていうか、俳優側もいろいろ出来なかったから、オリザのやりたいことや劇団のやりたいことに沿おうとすると、とりあえず小さい声で、ぼそぼそしゃべることしかできなかったんだと思うね。今は、けっこう大きな声出したりとか日常的でない動きもやってるけど、昔それをやったらやった途端に、世界が壊れちゃったんだと思う。ここまでいろいろやってきて、大声出したりしても壊れないくらいの現代口語演劇の世界を、今創れるようになったから、今のほうが面白く見えるじゃないかなと。」(特設ブログより http://p.tl/0IoO

 『サンパウロ市民』の「実験」は、こうした劇団俳優としての演技力の積み重ねなしには生まれ得ないものだったと感じる。実際これはもはや、「静かな演劇」とは呼べないくらいグルーヴィーな舞台だったのだ。

○余談:「市民」とは誰か?

 さて、ここでひとつ音楽でも聴いてリラックスしていただいて、脱線したいと思います。この「実験」に関してもう少し目先を変えながら考えてみますね。
 ★「Brazil」http://p.tl/Ab_R

 そもそもこのシリーズには「市民」とゆう言葉が冠されていますが、なんだかこれは不思議な言葉ですよね。ジョイスの小説『ダブリン市民』をもじったものだそうですから、26歳の平田オリザが最初に『ソウル市民』の戯曲を書いて上演した時には、きっと「市民」とゆう言葉自体にはそこまで深い意味は込められていなかったと想像します。だけどよくよく考えてみれば、そもそも物語の舞台となる都市はこの時期「漢城」や「京城」と呼ばれていたのであり、「ソウル」とは呼ばれない。そう考えると「ソウル市民」なる存在は実は架空のものでしかない。それはもはや行政的な都市住民を指す意味合いを離れて、ふわふわと全世界に浮かんでいく抽象的な理念のようにも思えてきます。

 こうした全世界的な「市民」構想は昔からあったし、エスペラント語とかもそうした理想に貫かれていたのだと思います。記憶に新しいところでは、数年前にネグリ=ハートが、グローバルな帝国主義に抵抗する超国家的な主体として「マルチチュード」なる概念を提唱したことが思い起こされます。またさっき「Brazil」を歌うシーンで使った「anonymous」とゆう単語も、今ではあのジャスミン革命を陰で支援したと言われる世界的なハッカー集団の名称として知られています。彼らは特定のメンバーシップを持った存在とゆうよりは、どうやら2ちゃんねるの「名無しさん」的なものであって、「インターネットの自由を守る」ことを信念とする緩やかなネットワークを指すとも言われています。それが正しいとしたら、薔薇十字団やフリーメイソンのような会員制の秘密結社とは本質が全く異なるわけですね。こうしたマルチチュードやanonymousのような半・抽象的な存在は、一昔前ではちょっと考えられなかったことだと思います。しかしインターネットが生活の中にすっかり浸透した今となっては、特定の国家や身体を抜け出たこうした越境的な主体やネットワークもまったくの夢物語ではなくなった。おそらくこうした思想の最たるものとして、ルソーの「一般意志」概念を現在/未来のネットワーク社会に接続しようとした東浩紀の『一般意志2.0』もあるのでしょう。

 『サンパウロ市民』の「実験」も、今回の上演だけで終わるものではなくさらに進化を遂げていくのだと思います。ブログを読むと、平田オリザはまだまだ再演していくことで普遍性を獲得するのだと考えているようなので、今後を楽しみに待ちたいと思います。が、この「実験」は実はこの作品や、あるいは青年団の芝居にかぎるものではなくて、これからの演劇すべてにとっての「実験」でもあると思うのです。

 とゆうのも、今のところ、ある具体的な空間で上演することを宿命付けられている演劇にとって、人と人との具体的な接触であるとか、ライブ感といったものは、大きな要素になっています。まあ要するにアナログ感が強みでもある。だけどその演劇が、空間的にも時間的にも、はるか遠くにある全世界的な情報にアクセスしようとするとどうなるか。果たしてどこに足場が作られ、どのようなインターフェイスを通じて上演されるのか? 演劇の身体はどのようになるのか?

 現時点ではまだ抽象的にしか語ることができませんけども、たぶんどこかで演劇の作り手はこの問題に対峙することになると思います。「think globally, act locally」とゆうスローガンさえも、今では一昔前のものに思えます。人々の移動感覚と思考感覚が変わってきているからです。USTでの公演中継も、さらに技術が増せば大きな意味を持つようになるかもしれません。そういえば平田オリザは、ロボット演劇やアンドロイド演劇といった技術革新による別種の「実験」についても第一人者でもありました。
 といったところで、そろそろ脱線も終わります。

■3.新作『恋愛二重奏』における〈唄〉のアンビヴァレンス

 『サンパウロ市民』の「実験」は刺激的であり、〈唄〉の可能性を大きく見せてくれた。とはいえ、やはり例の違和感が残るのだった。よろこびもかなしみも含めてその全てを溶かしてしまう〈唄〉は、確かに快感でありとても感動的ではあるけれども、いささか人間賛歌にすぎやしないだろうか? そして世界への愛の表明は、ともすれば現状肯定に陥ってしまう危険性も否定できないのではないか?

 実はこの〈五部作〉にはそうした疑問に応えるもうひとつの側面がある。もうひとつの新作、『ソウル市民1939 恋愛二重奏』がそれである。ここでも〈唄〉の力は凄かった。いや、むしろ凄まじかったと言っていいだろう。特に驚いたのはわたしの隣の席に座っていた年配のご婦人2人が、舞台から流れてくる〈唄〉に合わせて歌っていたことだ。原曲は1936年に歌われた藤山一郎の「東京ラプソディ」。舞台では「東京」のフレーズを「京城」に替えていたけれども、これを俳優たちがみんなで歌っているシーンを想像しながら、再生して聴いてみてほしい。
 ★「東京ラプソディ」http://p.tl/B2hg

 ほんとにびっくりしてわたしも興奮してしまったんだけども、サビの部分でその年配のご婦人たちが歌い出したのである。「たあーのしーみやこー♪ こーいーのーみやこー♪ ゆーめーのーパラダイスーよー、はなのけーいーじょう~♪」と声に出して身体を揺らして。音楽のライヴならともかく、演劇の観客が、特に促されたわけでもないのに自発的に歌い出すのはかなり珍しい現象ではないか。相当にノリノリであったこのご婦人たちにとって、この曲が特別に懐かしいものであったのかもしれないけども、いやそれにしても世代に関係なくつい口ずさんでしまうような歓喜のグルーヴが舞台から溢れ出していたのは確かで、わたしもつい踊り出してしまいそうなくらいこのシーンはかなりヴルーヴィーだった。すげえ、感動だわ! と思ったのだった。ちなみにこの「東京ラプソディ」はサッカーJリーグFC東京の試合中のチャント(応援歌)にも採用されているくらいなので、もともとノリのいい曲だとは思うけど。しかもこの替え唄は、京城に住む篠崎家の人々にとっては遠く離れた東京を想うものにもなっており、ノスタルジックな効果はますます絶大だった。

「ソウル市民1939 恋愛二重奏」公演写真
【写真は、「ソウル市民1939 恋愛二重奏」公演から。 撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】

 だがしかし、心底感動したのはこの〈唄〉にではない。そこへの耽溺を撃つような存在が、このシーンには登場していたのである。みんなで楽しく、それこそ観客まで混じって「京城ラプソディ」を歌っているまさにこの一体感のある「夢のパラダイス」を、ただひとり醒めた目で、通路の奥からじっと見つめている人物がいたのだ。支那からの帰還兵である、篠崎家の婿養子・篠崎昭夫(古屋隆太)である。

 昭夫は篠崎家に婿養子に来たものの、戦争体験のショックで妻・寿美子(能島瑞穂)の身体を抱けなくなっており、義父であり篠崎商店の店主である謙一(大塚洋)に金をせびっては、どうやら京城の街で朝鮮人の女を買っている。しかもいつも不機嫌めいて恐ろしいので、冗談も笑っていいのかいけないのか分からない。つまり、笑えない。笑えない冗談を言う人間はコミュニティにとって最悪の存在である。ほぼニート同然でまともに働くこともない彼の存在は、一流の豪商である篠崎家にとっては明らかに厄介なお荷物だが、周囲も気を使って腫れ物でも扱うように遠巻きに眺めることしかできない。

 その篠崎昭夫がじっと見つめ、ご婦人方もノリノリで歌っていた「京城ラプソディ」の饗宴は、かつて篠崎家の朝鮮人書生であった申高鉄(大竹直)が出征することを祝うものであった。なんとこの年、朝鮮人による志願兵は定員の20倍にも及んだらしい。

 高鉄がなぜあえて志願兵に応募したのか、この作品ではハッキリとは描かれない。恋愛関係にあった女中から逃げるためかもしれないし、朝鮮人の誇りを回復するためかもしれない。しかしいずれにしてもこれは悲劇的なことに違いなく、つまり日本人に侵略され征服され「ありがた」くも教化され、だが篠崎家には書生として育てられた個人的な恩義もあり、今ではすっかり日本語が喋れるようになった朝鮮人が、日本のために志願兵となり戦地に赴いて人を殺す。なんだかねじれた構造であり、すんなりとは腑に落ちないのだ。このことについて平田オリザ自身はこう書いている。

 「1939年、朝鮮人志願兵制度に20倍の応募があった・・・だから、植民地支配は哀しい。(中略)・・・だから哀しい・・・という、この「だから」を書くのが、劇作家の仕事だと私は考えます。/右からは売国奴と脅迫され、左からは不謹慎だと罵られる、そんな作品を書きたいと、いつも私は願っています。」(特設ブログより http://p.tl/XDDO

 その、何を思ったか兵役に志願した申高鉄を見つめる篠崎昭夫。戦地ですでに過酷な戦争体験をし、おそらくは多くの人間を殺すことで生き残ってきた帰還兵の昭夫は、この「哀しい」滑稽な構造がもたらしているかりそめの祝宴をどのように見つめていたのだろうか。帰還兵に関しても平田オリザは様々な資料にあたったようで、「38年、39年は、日常と戦争が同居していた奇妙な時代、それは1960年代のアメリカに少しだけ似ている時代」であると書いている。(特設ブログより http://p.tl/yLEj

 ここで平田は「1960年代のアメリカ」の例として映画『ディアハンター』や『タクシードライバー』を挙げているのだが、これらの映画で帰還兵を演じていたのがいずれもロバート・デニーロだったのはなんの偶然か。特に『ディアハンター』では捕虜になってベトナム兵にロシアンルーレットを強要されたアメリカ兵の生き残りが、精神荒廃し、再び自殺行為まがいの闇稼業に身を染めている姿があり、思い返すだけでもゾッとさせられる。

 『恋愛二重奏』における篠崎昭夫にも、そのような何かしらの暗い狂気がきっと宿っていたはずだ。〈ソウル市民五部作〉には様々な人物が登場するが、彼らは一般に日常生活を送る市井の商売人やその子女や大陸浪人であり、いずれもが何かしらの形で日常生活との接触を図っている。しかし唯一、帰還兵である昭夫だけは、生活とゆうものに復帰できない。関わることができない。彼は日常生活の幸福な輪からはじかれた「マージナル・マン(境界人)」なのだ。
 そして、にも関わらず、彼の名前には「昭和」の「昭」の字が刻印されている。

 昭夫はおもむろにスッと奥から現れ、しばらくこの「京城ラプソディ」の祝宴共同体を見つめていたかと思うと、何も言わずに立ち去っていく。もしかしたら余りに静かすぎて彼の存在に気づかなかった観客もいたかもしれなかった。

■4.耽溺と覚醒

 今のは『恋愛二重奏』の屈指の名場面であり、〈唄〉に強烈な一撃を喰らわすものだが、この作品にはもうひとつ〈唄〉にまつわる衝撃的な体験が用意されていた。今度はこの曲を聴いていただきたい。できるだけ大音量でよろしくたのむ。
 ★「万歳ヒットラー・ユーゲント」 http://p.tl/WrPX

 ヒトラーユーゲントはナチス・ドイツの青少年教化組織であり、史実では1938年に来日。国を挙げての歓迎歌としてこの「万歳ヒットラー・ユーゲント」がつくられた。作詞は北原白秋である。これはネットで調べたかぎりにすぎないが、当時北原白秋は国粋主義に傾倒しており、この唄もイヤイヤではなく積極的につくったようだが、それどころかラジオ放送で勝手にヒトラーやナチスの発音が替えられたことに憤慨し、東京朝日新聞に抗議文を載せたりもしたらしい。怒るところが、そこなのか、とわたしは思った。(参照 http://p.tl/ieRO

「ソウル市民1939 恋愛二重奏」公演写真
【写真は、「ソウル市民1939 恋愛二重奏」公演から。 撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】

 『恋愛二重奏』では、篠崎家の娘である泰子(木引優子)がヒトラーユーゲントに歓迎の意を表し、勇ましい行進とバンザーイ! をしながらこの唄を高らかに歌いあげる。それにユーゲントであるインゲボルグ・アッヘンバッハ(ブライアリー・ロング)と日独青年友好同盟の段田団蔵(佐藤誠)が同調して歌うとゆうなんだか滑稽なシーンなのだが、実はこのインゲボルグ・アッヘンバッハは後にヒトラーユーゲントの偽物であることが仄めかされ、篠崎家は混乱の渦に叩き込まれてパニック状態に陥る。誰かが劇中で呟いたように「この家にはよく偽物が来る」のだ。

 このドタバタ劇の混乱や木引優子&ブライアリー・ロング&佐藤誠の唄が楽しかったとゆうのが何より大きいのだが、このあと数日にわたってわたしの頭の中では繰り返しこの唄が脳内再生されることになってしまった…。これはさすがに倫理的にアウトなのではないか?と思いながらも、再生をやめられなかったのである。

 言うまでもなくヒトラーとナチス・ドイツが為したこと、とりわけユダヤ人に対する虐殺は今日では完全に悪であると認識されているし、事実これは人類史上最悪の悪であった。しかし後から「歴史」として振り返って何かを悪と見なすことは簡単なことだし、身体は悪にも簡単に感動して共振するのだ。身体はすぐに何かに同調し、ほいほいと快楽を求めてなんにでもついていってしまう。安きに流れる。すぐ怠ける。ラクをする。長い物に巻かれる。八方美人だ。身体感覚なんてものはとても腰の軽い信用ならないやつなのである。そして身体は〈唄〉に弱い、と思い知らされた。

 当時それこそ軍歌は大量に作られたわけで、それらはきっと人々の戦意を駆り立て、共同体としての「絆」を深めることに貢献したのだと想像できる。北原白秋も戦争協力したのだ。ちなみに「仮にもし宮沢賢治があと5年長く生きていたら戦争協力の詩を書いたか?」とゆう問いは平田オリザの積年のテーマでもあるらしい。(特設ブログより http://p.tl/U8dq

 もちろん聡明な観客であれば、そもそもナチスとかヒトラーが出てきた時点で即座にこれは絶対悪だね!!! と断定し、そんなものには染まるまい!!!!! と断固はねのけることもできたかもしれない。でもそれはやっぱり「歴史」として先取りしてその悪を知っているからであって、当時の空気の中で〈唄〉の魔力に抗することは難しかったのではないか。このシーンは〈唄〉のもたらす快楽にいとも簡単に同調してしまう身体の尻軽さを皮肉っているようにも思えた。

 先ほどの「京城ラプソディ」もそうだが、『恋愛二重奏』における〈唄〉の使われ方にはずいぶんと皮肉が込められている。おそらくこの皮肉は、平田オリザにとって1939年の日本占領下のソウルを描くうえで必要不可欠なものだったに違いない。取り返しのつかない戦争へと突入していく時代の不穏さ、不可解さを、この皮肉は照らし出す。そしてそれは、〈唄〉とゆうものが本来持っているアンビヴァレントな二面性をも炙り出したと言える。

 ☆『サンパウロ市民』…〈唄〉は、個々人の持っている様々な事情や感情を溶かし合わせ、匿名の存在(anonymous)による祝祭的な饗宴を生み出すことができる人間賛歌であり、世界を肯定する力である。これは地理的・歴史的にも大きくひろがっていく可能性を持っている。
 ☆『恋愛二重奏』…〈唄〉は気持ちを高揚させるが、価値観の共有を強いる一種の共同体を生み出してしまうものであり、人々を破滅へと駆り立てていくこともある。共同体からこぼれ落ちたマージナル・マンの狂気が、そこに警鐘を鳴らす。

 この文章の最初に、わたしは〈唄〉への違和感があると書いた。〈唄〉は楽しいし、大きな力と可能性を持っている。けれどもわたしは時として、あの昭夫の狂気のまなざしのようなものを感じてしまいもするのだった。それは一種の冷や水かもしれない。

 しかし優れた技術を持った演出家と力のある俳優陣やスタッフが揃えば、観客を笑わせたり泣かしたり気分を昂揚させたりすることはお手のものだ。〈唄〉は、なおさらその効果を高める。うまく用いれば、観客をその歓喜のグルーヴの中に耽溺させることだってできる。その意味では演劇は一種の詐術にすぎないとも言えるし、〈唄〉は観客をその詐術に耽溺させるための魔法でもあるだろう。

 日頃の憂さを晴らしたくて劇場に足を運ぶ、とゆう動機は、現在のところ、演劇を観る人たちにとっての最大公約数的な欲望かもしれない。いわゆる「エンターテインメント」と呼ばれてきたものは、これまでそのような憂さ晴らしの効果を担ってきた。それはサラリーマンであれ主婦であれ、日常生活がストレスに満ちたものであった、とゆうここ数十年の日本社会の在り方とも無縁ではなかったと思う。日本の文化産業は基本的には憂さ晴らしのためのものとして発展してきたのかもしれない。

 率直なことを言えば、わたしは、憂さを晴らしてスッキリするために劇場に行きたいと思うことはほぼ皆無である。まあたまにスッキリしたいと思うこともそりゃ無いではないけれども、あくまでそれは副次的な効果であって、観劇の最大の動機ではない。ごくシンプルに言えば、良い作品、優れた作品、凄い作品と出会いたいと願っている。なぜならその出会いの衝撃がわたし自身の世界の見え方(フレーム)を書き換えてくれるし、それは素晴らしい快感をともなうものであると感じるからだ。それは、耽溺とゆうよりはどちらかといえば覚醒によってもたらされる快感である。とゆうか、耽溺しているからこそ生まれる覚醒の一撃、と言えるかもしれない。眠っていないことには目覚めることもできない。その目覚めの一撃。水を、ぶっかけられるような。

 その点で、『恋愛二重奏』がその強い力を持った〈唄〉の共同体に冷や水を浴びせかけたのは衝撃的なことだった。耽溺して何が悪い、とゆう意見もあるだろう。別にわたしも、例えば〈唄〉に耽溺することが、すぐさま全体主義や戦争に結びつくなんてことはまさか思っていない。世の中はかつてよりもずいぶん複雑になったと思う(そんなに変わってないとも思う)。だけどやっぱり人はいろんな不都合なことを見ないようにするために耽溺を求め、そして外側の世界にトビラを閉ざしがちではある。それも一種の護身ではあるだろう。だけどわたしはふっとその物陰に、あのマージナル・マンの狂気の目を感じるようにも思うのだった。この世界には闇がある。その全てを明るく照らすことはできない。そして光を強くすればするほど、闇はますます濃く、危険なものへと変貌していってしまうのではないか?

 ここには結論はない。問題は、次のような簡単なことかもしれない。つまり、マージナル・マンたる昭夫は、どうしてその体験を語ることができなかったのかと。もし彼がそのような妻や家族への言葉を持っていれば、日常生活の輪の中へ、時間をかけても入ることができたのではないかと。実際、『恋愛二重奏』では、そのような可能性も僅かながらに提示される。ごく、わずかながら。しかしわたしは思うのだ。これを可能にするのは、言葉の理性や合理性ではないのだと。では何がそれを可能にするのか? そこはまだわたしも答えは持ち合わせていないのだが、それはもしかしたら、この〈ソウル市民五部作〉において何度も登場するあの〈お茶〉にヒントがあるのかもしれない。〈唄〉は確かに瞬発的に人と人を繋いでいく。〈お茶〉を通じて人が繋がるにはもっと時間がかかるだろう。それはそれは長い時間が。長い長い時間が。ただ、どうもわたしは、今のわたしには、その時間がとても大切なもののように思えてならない。

■5.〈ソウル市民五部作〉その他のこと

 さてもう少しでこの長い文章も終わる。あとたぶん1909文字くらい。
 〈ソウル市民五部作〉には他にも印象的なエピソードがたくさんあり、そのすべてを書くのはちょっと不可能にも思える大作だった。例えば『サンパウロ市民』で女中・鈴木はな(石橋亜希子)が語る吹き矢のエピソードも、笑い話なのになんだか妙に印象に残る不気味さを持っていた、とゆうか語っている人がなんだか不気味であった。あるいは岡山について、あそこらへんの土地ではよく虐殺が起こるんですよ、みたいな不穏きわまりない話をしていたのは一体どの作品だったか? 混線してもはや分からない。偽の看護婦たちが対決する『昭和望郷編』も見ものであった。情けないお相撲さんと興行師の登場はユーモラスであった。こうした些細なエピソードの数々が、全体としての物語世界を豊かにしていく。『サンパウロ市民』における「実験」=「anonymousの共演」にとっては、なおさらこれらは重要な伏線になっていると言えるだろう。

 その他、様々な俳優たちが印象に残り、変幻自在な青年団の底力を感じさせてくれた。名前を挙げたい人は幾人もいるのだが、ここではとりわけ同じ日に吉祥寺シアターで『ソウル市民』『ソウル市民1919』に出演し、さらに夜には場所を替えて六本木の新世界で藤田貴大演出の『官能教育「犬」』に出演とゆう、1日に3つの異なる舞台を踏む離れ業をやってのけた俳優・山内健司にあらためて最大限の賛辞を贈りたい。俳優かくあるべしとゆうガッツを見せていただいた。しかもさすが迫真の演技であった。舞台にどっしりと安心感をもたらすと同時に、いささか不穏なノイズも振りまくのであった。

「ソウル市民」公演写真
【写真は、「ソウル市民」公演から 左端が山内健司。撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】

 そして最後にこの〈ソウル市民五部作〉で個人的にもっとも感動を覚えたシーンを挙げて終わりにしたい。1929年を舞台にした第三作『昭和望郷編』より。朝鮮人の元・書生であり、東京の大学も出て総督府での今後の活躍も期待される李齊源(キム・ミンソ)に対して、やや情緒不安定な電波系にも思える西宮愛子(中村真生)がとある忠告をするシーンだ。愛子はもともと篠崎家の長女であり、結婚して東京で暮らしていたのだが、1923年の関東大震災震災で焼け出された後、夫と共に篠崎家に居候している。彼女は言う。「震災の時は、これがちゃんと言えない朝鮮人は、みんな殺されたからね」。そして齊源に「だぢづでど」や「ぱぴぷぺぽ」といった濁音や破裂音を発音させようとする。

 引き続いて愛子は齊源に「十円五十銭」と言うようにと促す。齊源がゆっくりとした発音で「ジウエン、ゴジッセン」と返すと、愛子はやや不気味とも思える複雑な表情をしたまま、
「練習しないと、殺されちゃうよ」と軽く言い放って階段の先へと消えていくのだった。

 愛子が去ったあと、齊源は、机に向かって佇んでいる。それは〈ソウル市民五部作〉において何度も〈お茶〉が出された、あの大きな長テーブルであった。たくさんの人たちがここを訪れた。日本人もいた。朝鮮人もいた。日本語を喋れる朝鮮人もいた。1939年はすでに日韓併合から30年近い月日が経過している。日本軍がやってくる前の朝鮮を若者は知らないのだ。生まれる土地や家族を選ぶことはできない。

 齊源は、机に向かってひとり静かに「ジウエン、ゴジッセン」と呟く。ここには何か強い屈折した感情が込められているようでもあり、単に戸惑っているだけのようにも見える。悲しみや怒りといった感情は、登場人物である齊源の中にはあっても、それを演じているキム・ミンソの中にはないであろう。なぜならこの俳優の内面の空洞こそ、平田オリザ流の現代口語演劇のメソッドなのだから。このセリフから何を感じ取り、どのような感情を見出すかは、観客であるわたし(たち)に委ねられている。

 さて、この齊源の「ジウエン、ゴジッセン」はうまく発音できていただろうか? 「正しい日本語」としてちゃんと聞こえるものだったろうか? 誰がその判断を下すのか。なんだかこの言葉は、呪いだかおまじないだかのようにも聞こえる。ジウエン、ゴジッセン。

 わたしはまたいつかどこかで、この場面を思い出すことだろうと思った。それが幸福な状況であることを願うし、そうしなくてはいけないだろう。人は生まれる土地や家族を選ぶことはできないが、生きていく土地や家族を選ぶことはできるのだ……。いろんな〈唄〉を思い出す。再生する。再/生する。何か歌って、酒でも飲みたい。いや、〈お茶〉を飲みたい。そしたら笑って語り合うことだってできるんじゃないだろか。いつか。時間はかかるにしても。そういえばこの西宮愛子が言い放つ「殺されちゃうよ」のセリフは、今回の2011年の再演で新たに加えられたものだそうだ。

観劇日:
『ソウル市民』2011,11,23
『ソウル市民1919』2011,11,23
『ソウル市民 昭和望郷編』2011.11.27
『ソウル市民1939 恋愛二重奏』2011.12.4
『サンパウロ市民』2011.12.4

【筆者略歴】
プルサーマル・フジコ/藤原ちから
 BricolaQ主宰、フリーランサー、編集者。雑誌「エクス・ポ」「エレキング」『〈建築〉としてのブックガイド』(明月堂書店)その他ミニコミやZINEなどにも寄稿。
・パーソナル・フリーメディアBricolaQ:http://bricolaq.com/
・ワンダーランド掲載一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ha/pluthermal-fujiko/

【上演記録】
青年団第64回公演「ソウル市民 五部作
吉祥寺シアター(2011年10月29日-12月4日)
作・演出:平田オリザ

出演:
『ソウル市民』
山内健司、松田弘子、足立 誠、志賀廣太郎、天明留理子、木崎友紀子、兵藤公美、高橋 縁、大塚 洋、福士史麻、古屋隆太、田原礼子、村井まどか、山本雅幸、立蔵葉子、堀 夏子、石松太一、井上みなみ
『ソウル市民1919』
山内健司、松田弘子、根本江理子、天明留理子、秋山建一、木崎友紀子、島田曜蔵、高橋 縁、大塚 洋、能島瑞穂、田原礼子、山本雅幸、河村竜也、小林亮子、佐藤 誠、二反田幸平、村田牧子、鄭 亜美、森岡 望、由かほる
『ソウル市民昭和望郷編』
秋山建一、渡辺香奈、小林 智、福士史麻、工藤倫子、鈴木智香子、石橋亜希子、井上三奈子、大竹 直、河村竜也、後藤麻美、長野 海、二反田幸平、堀 夏子、山本裕子、森内美由紀、キム・ミンソ、木引優子、中村真生、折原アキラ、菊池佳南、菅原直樹、本田けい、水野 拓
『ソウル市民1939恋愛二重奏』
松田弘子、兵藤公美、高橋 縁、大塚 洋、能島瑞穂、古屋隆太、大竹 直、河村竜也、佐藤 誠、キム・ミンソ、海津 忠、木引優子、佐山和泉、鄭 亜美、中村真生、小瀧万梨子、富田真喜、ブライアリー・ロング
『サンパウロ市民』
山内健司、志賀廣太郎、たむらみずほ、天明留理子、小林 智、島田曜蔵、古屋隆太、鈴木智香子、石橋亜希子、井上三奈子、大竹 直、熊谷祐子、髙橋智子、村井まどか、山本雅幸、堀 夏子、村田牧子、齋藤晴香、石松太一、井上みなみ、ブライアリー・ロング

舞台美術:杉山 至
照明:岩城 保
音響:泉田雄太
衣裳:有賀千鶴、正金 彩
演出助手:谷 賢一 舞台監督:中西隆雄
宣伝美術:グリフ(工藤規雄+村上和子) 京(kyo.designworks)
宣伝写真:佐藤孝仁(Beam×10)
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:青年団制作部
協力:(有)あるく (株)アレス 上里忠司(Location First) 再生工房 Look in Look

[企画制作]青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
[主催]青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
[提携](公財)武蔵野文化事業団
[後援]駐日韓国大使館 韓国文化院

[料金]
日時指定・全席自由席・整理番号付き
前売・予約:一般3,500円 学生・シニア2,500円 高校生以下1,500円
当日券 :一般4,000円 学生・シニア3,000円 高校生以下2,000円


「青年団「ソウル市民 五部作」」への7件のフィードバック

  1. ピンバック: masayukisakane
  2. ピンバック: masayukisakane
  3. ピンバック: masayukisakane
  4. ピンバック: 木元太郎

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