◎夜道の誘惑~シンクロ少女の示すもの~
宮本起代子
演劇ユニット・シンクロ少女は2004年、当時日本映画学校映像学科在学中だった名嘉友美を主宰に結成された。現在のメンバーは脚本・演出・出演の名嘉をはじめとして、俳優の泉政宏、横手慎太郎、中田麦平で、作品ごとに出演者を募る形式をとる。公式サイトには「『愛』と『性』、『嫉妬』や『慾』など、目に見えない感情や欲求をテーマに見た人の血となり肉となる作品を目指して公演を打つ、エロ馬鹿痛快劇団」と記されている。『私はあなたのオモチャなの』で旗揚げし、以後も『ドキドキしちゃう』、『めくるめくセックス』等々、タイトルからして挑発的だ。
自分がはじめてみた2010年10月の#8『性的敗北』(名嘉友美脚本・演出 王子小劇場)は、兄妹の近親相姦や友だちの恋人の横どり、子どものできない夫婦の強硬手段、デキ婚せざるを得なくなったカップルなど、男女10人が繰り広げる愛憎劇だ。異なる空間の会話を同時進行で描くのが劇作家名嘉友美の得意とするところで、入念な稽古があったことをうかがわせて劇の流れは滞りない。俳優はそれぞれの持ち味を活かした役を得て、心憎いまでに好演している。しかしラブシーンどころか性行為そのものを舞台上であからさまに見せられることに少なからず困惑したのも確かであった。
本作は2010年佐藤佐吉賞最優秀脚本賞を受賞し、シンクロ少女は同劇場の支援会員から「次回作もみたい」という支持がもっとも多く寄せられた劇団を一週間無料で招待する王子小劇場支援会員セレクト公演として、2011年晩秋に最新作『未亡人の一年』を上演する栄誉に輝いた。
全裸に近い女性のからだを深紅の薔薇がなまめかしく彩る公演チラシといい、『未亡人の一年』というタイトルといい、今回も過激なエロス満載か。
『未亡人の一年』初日。
T字型に平台が組まれ、中央が張り出して小さな茶卓が置かれている。上手と下手はそれぞれリビングらしき作りで、3つの異なる演技空間があることがわかる。
下手には先生と呼ばれる女性(坊薗初菜)と友人のエリ(岸野聡子)がいて、先生の「お母さん」が新しく雇った男性家政婦?アカギ(中田麦平)がお茶を運んでくる。作家である先生は一年前に夫をなくした。お母さん役は泉政宏が微妙な女装で演じており、うちにはもうひとり、お母さんが「兄さん」と呼ぶ男性(村上佳久)が引きこもっている。
上手エリアはミツコ(髙畑遊)と中学生の娘キホ(浅川薫理)が住む家だ。ミツコは夫を十年前に亡くして以来、酒に溺れて娘に無関心、キホは週に4日も近所の林家で食事をとっている。中央エリアがその林家の茶の間だ。熱心に中国語の勉強をしているお父さん(林剛央)、ポテトチップスを食べては文句ばかり言っているお母さん(配役表には「ババア」と記載 上松頼子)、大学生のソノヤ(横手慎太郎)がいて、みなそれなりにキホを大切にしている。
ソノヤはキホを好きなのだが、彼にロリコンの気があることを知ったキホは激しく動揺して彼を拒絶する。しかしミツコに諭されて心をひらき、キホとソノヤは多少危なげながらもほほえましい交際をつづけてゆく。ミツコの友人ハナ(名嘉友美)は作家志望のセイ(太田誉充)との先の見えない関係に悩むのと相似形を成すように、先生の友だちのエリは男運に恵まれない。
やがて中学生のキホが長じて上手の「先生」になり(亡くなった夫はソノヤである)、ミツコが泉政宏演じる「お母さん」で、お母さんが兄さんと呼ぶ男性がセイの成れの果てであることが徐々に示されてゆく。下手の家族は上手の家族のおよそ四半世紀あとのすがたであり、物語は互いを鏡のように映しあいながら進行する。
セイの心ない言動に傷ついたハナが亡くなり、ミツコは抜けがらになったセイを「生き別れになっていたふたごの兄さん」として強引に家族にするが、終幕において泉政宏の「お母さん」は兄さん(=セイ)をうちから出し、娘がアカギと心を通じ合わせていることを確かめて、自分も娘に別れを告げる。上手が新しい家族を作り、下手が家族を解散するのだ。
エロスの表現は驚くほど控えめで、期待した向きには拍子抜けでものたりなかっただろうが、自分は堪能した。
『未亡人の一年』の観劇後、揺り戻されるように前回公演『性的敗北』の上演台本を読む。
「いちゃいちゃしだす二人」、「キスしたりキスしたり」、「セックスしている」などのト書きが生々しくその場面を想起させない。そう書かれているから人物がその行為をすることだけがわかるのである。
たとえばラストシーンは、夫(奥村拓)が無精子症のために妊娠が不可能と知った夫婦が夫の弟(桑原環七)の部屋を訪れ、「これしか方法がない。種をわけてもらいたい」と行為を迫る。妻(しまおみほ)は夫の目の前で義理の弟に近づき夫は実の弟のからだを押さえつける。弟も長年愛しあっていた妹(岸野聡子)に去られた悲しみで自暴自棄になり、義理の姉との行為に身を投げ出す。
舞台をみたときは、ただでさえ「いちゃいちゃしだす二人」、「キスしたりキスしたり」などがさんざんつづいたあげくの強烈なラストシーンに、ほとほと食傷したというのが本音であった。
しかし台本を読んだとき、意外なほど自然に心にはいってきたのである。
ト書きにはこの場面の3人について、「泣いている」「泣きながらセックスしている」と書かれている。この涙のなかに、じゅうぶんに話し合って合意の上、医学的処置によって弟の精子と妻の卵子を受精させればよいではないかという考えが入り込む余地はない。弟と兄夫婦は「子どもが産めない」という点で敗北しており、そこから勝利せんと泣きながら行為におよぶのだ。自分の妻と弟がからだを重ねているすがたに夫が「がんばれ、がんばれ」と声をかける最後の台詞は、「泣いている」というト書きによって、悲嘆の極致とも読みとれるのである。
この部屋にいるのは彼ら3人だけだ。彼ら自身がおおぜいの人にこのありさまをみせようとしているわけではない。演劇であるがゆえに観客の存在がある。そして自分は、この悲しいまでに壮絶な行為をみている罪深さに打ちのめされるのだ。
上演台本を読みおわって、『性的敗北』は新しい存在になった。むろん先にみた舞台の印象がベースになっていることは確かであるし、決して「舞台はおもしろくなかったが、ホンはよかった」ということではない。柔らかで繊細なものを秘めており、人物の話すことばを中心に構成された小説、あるいは散文詩のような味わいがあって、それはなまめかしい公演チラシやきわどい場面などの過激なエロス表現に目を奪われてしまうと気づきにくいものである。
「舞台をみる」と、それを「読む」あいだに生まれる違いを考える。一見エロス表現控えめな『未亡人の一年』の上演台本には、どんなト書きがが記されているのだろう。
『性的敗北』につづいて『未亡人の一年』を観劇し、前者の上演台本を読んでふたつの舞台を改めて考えること、そして後者の台本を読んでいないことはただの流れや偶然かもしれないが、これからもシンクロ少女の舞台をみる上で、大きな課題を改めて意識するきっかけになった。
上演台本(戯曲)と舞台表現、観客との関係が浮かびあがる。目の前の舞台表現だけをその人の作品ととらえるか、戯曲の段階から含めて考えるのか。戯曲を読んで満たされるなら、舞台は何のためにあるのか。観客の存在は何なのか。
たとえば前述の『性的敗北』の終幕についても、実際の舞台において俳優が悲痛な表情をしていたことは記憶にあるが、ほんとうに泣いていたのか、涙を流していなくても「泣いている」と自分が認識していたのかは、もはや判断がむずかしい。したがって、自分は台本を読んではじめて「泣いている」、「泣きながら」を明確に認識し、それによって『性的敗北』ぜんたいの印象が変わり、大きく捉えなおすことになったのだ。これをどう考えるのか。
戯曲を読むことはもちろん大切だ。しかし「戯曲を読まなければ舞台が理解できない」となってしまうのも問題であろう。また本稿において自分は「上演台本」と「戯曲」、さらに「ホン」の記載を統一していない。これらを統一すべきか、厳密に区別した場合、互いの違いはどこにあるのか。
「演劇とは戯曲とは、舞台表現、観客とは何か」と大学時代の講義からこれまで幾度となく問いかけられ考えつづけてはきたものの、いまだに答を見い出せない。
『性的敗北』の台本を繰りかえし読み、『未亡人の一年』の舞台を思い起こすことは、この答をみつけるというより、もっと迷い悩む方向へ導かれる予感がする。暗く危険な夜道。しかしその道はぞくぞくするほど魅力的であり、進まずにはいられないのである。
【著者略歴】
宮本起代子(みやもと・きよこ)
1964年山口県生まれ 明治大学文学部演劇学専攻卒 1998年晩秋、劇評かわら版「因幡屋通信」を創刊、2005年初夏、「因幡屋ぶろぐ」を開設。
【上演記録】
シンクロ少女#9『未亡人の一年』(王子小劇場支援会員セレクト公演)
王子小劇場(2011年11月30日-12月4日)
脚本・演出 名嘉友美
*出演
先生・・・坊薗初菜
アカギ・・・中田麦平(2012年1月よりシンクロ少女)
お母さん・・泉政宏(シンクロ少女)
エリ・・・岸野聡子(味わい堂々)
キホ・・・浅川薫理(アシカツ 絶対安全ピン)
ソノヤ…横手慎太郎(シンクロ少女)
ミツコ・・・髙畑遊(ナカゴー)
セイ・・・太田誉允(今夜はパーティ)
ハナ・・・名嘉友美(シンクロ少女)
ババア・・・上松頼子(風花水月)
お父さん・・林剛央
*スタッフ
舞台監督/太田誉允(今夜はパーティ)
照明/井坂浩
音響/久郷清(今夜はパーティ)/伊藤幸拓
宣伝美術/菅井早苗
制作/祝大輔
*前売2500円 当日2800円