◎道化の魔法がひらく 祈りのような情景
鈴木励滋
行進を促すようなリズムをドラムが刻む冒頭、タンスの上によじ登り仁王立ちする女。セピア色に見える景色の中で、女は「ふざけんじゃねぇ、くだらねぇ」と呪詛のような言葉を怒鳴りちらしているのだが、はたして彼女の怒りはどこへ向かっているのだろうか。
この印象的な場面は、589nmの波長以外の色を見えなくしてしまうナトリウムランプの効果だ。東野祥子を始めとして多くのダンサーとも組んできた照明の筆谷亮也の鮮やかな仕事で、次のシーンで明かされる女の肌の秘密を際立たせることに成功した。意表をつきつつも単に奇抜さにとどまらない誠に巧みなオープニングだった。
別の照明が灯り、世界が色を取り戻していくと女の顔が真っ赤であることに観客はようやく気がつく。彼女は身体じゅうを激しく掻いている。肌が燃えるような重度のアトピー性皮膚炎を患う少女マリの暴力と破壊の叙事詩が幕を開ける。
昨年、原宿のVACANTで初演された『バーニングスキン』は、大阪の芸術創造館やブリュッセルでの拍手喝采を受け、ツアーの締めくくりに東京凱旋公演でふたたびVACANTに帰ってきた。彼らはツアーの一年ちょっとの間、同じくVACANTにて「プレイ小屋」というイベントで快快や成河とどんちゃん騒ぎしたり、ブリュッセルのみならずパリで創作したり、大阪谷町六丁目の本拠地ポコペンでの再演作品がCoRich舞台芸術まつりにノミネートされたり、忙しくなる一方であった(註1)。
彼らを取り巻く環境に伴って客層も変わったかに思う。初演の際は小劇場で見かける顔は少なく、アートや音楽やダンス経由でやって来たかのような若い観客が多かった。大阪ではさすが子供鉅人のホームタウンだと感じさせるほど、温かい客席に笑いが満ち溢れていた。そしてふたたびの原宿には、CoRich舞台芸術まつりで、あのFUKAIPRODUCE羽衣と大接戦の上で準グランプリに輝いた劇団を観ようと、演劇ファンも数多く押し寄せた。
舞台にはタンスに食卓、ソファなどが配置されている。そこへ彼女の父と母と妹が現れるが、すでに人々は彼女の負の力に支配され言うなりになっている。彼女は「アタシは生まれついての出来損ない。体中のあちこちが象の皮膚みたいに腫れあがって、赤く毒づいてる」と自らのことを嘆き、父母を手足のように使い、妹にいたってはクビ(!)にされ、いともたやすく打ち殺されてしまう。
替わりに妹として紹介された「男? 女? どっちかわかんない」厚化粧に奇妙なサングラスで長身の、妹と同じ衣装を身につけたジェニファーが家族に加わる。
かつての妹ユリの幕引きに際し中林キララの妖艶なギターが奏でるテーマ曲の流れる中、下手からカーテンが引かれる。
このカーテンが実に見事な舞台装置で、舞台の下手奥側から放射線状に引かれる四枚の色も模様も異なる布が、舞台を幾層にも柔軟に区切り、場面場面でがらりと背景を変えていた。そしてこのカーテンが、最後にこの上なく重要な役割を果たす。
ユリを始末した上にジェニファーを受け容れるという、もはやとても正気とは言いがたい順応をする父と母。娘が交代したその日の夜に愛を語り合うシーンで父と母はガウン姿なのだが、肩パットというよりハンガーを付けたまま着てしまったかのような異様ないかり肩をしている。ほの暗さの中でふたりの影が、赤地に白い水玉のカーテンに大きく映し出される。
【写真は、「バーニングスキン」公演から。撮影=橋本大和 提供=子供鉅人 禁無断転載】
このようなシーンがデイヴィッド・リンチの映像を想わせるし、しばしば作演出の益山貴司もリンチの影響を認めているけれど、わたしはずっとダイアン・アーバスのことを想起させられていた。厳密に言うと、政治思想史の巨人藤田省三が「素人の感想」というタイトルで『カメラ毎日』に掲載したアーバスの写真についての文章を思い出していた(註2)。
藤田は、「身体形態上の例外者」たる道化など、異形の人たちを数多く写した彼女について、決して自らの表現のユニークネスを求めるために珍奇な被写体を求め利用したのではなく、社会の周縁に存在する人々に「羞恥と畏怖の入りまじった感情」で対峙していたのだと論じている。外見上の特異さや見世物としての芸に焦点を当てるといった対象処理をするのではなく、「存在そのものとして応答しあう」ような関係の紡ぎ方の先に、「転形力ある光線」そして「内なる根柢に向かって閃光のような啓示」として彼女の作品があるのだと。藤田がアーバスの写真に感じたものが、子供鉅人の作品になぜだか判らないが通底しているように思えたのだった。
ただ現実には、今回の公演は注目度が格段にあがったゆえか、昨年の公演の際よりも批判的感想も増した。その中で、技術についての意見にはうなずけるのだが(註3)、内容に対しての批判の数々にはどうにも釈然としないものが多かった。ツイッター上で散見された批判は、きょうだいを殺したり、親に殺し合いをさせたりするような人間の醜態をいたずらに見せることが理解できないという「苦情」と、いやいや生温い、もっとドロドロとしたものを描けただろうという「不満」だったのだが、この作品はそもそもそんな悪趣味なものではないはずだ。
むしろ、これほどまでに人間である苦悩や存在に纏わりつく罪に、真正面から挑んだ作品は他にほとんど観たことがない。そして、このような挑み方からしか、わたしたちが差別や暴力を乗り越えていくルートは見いだせないようにわたしは思っている。
藤田がアーバスを、他の興味本位で臨む写真家たちと位相を異にすると評したように、子供鉅人は「露悪的」な作品とは似て非なるものを差し出しているのである。
そのことをもっとつまびらかにしたいので、十数年前の卑近な記憶へと回り道を辿ることにする。
凶悪犯罪が起こると犯人の異常性を週刊誌やワイドショーはこぞって喧伝する。その度に思い出すシーンがある。1995年3月、地下鉄内で猛毒を撒くに至ってしまったオウム真理教団。サティアンと呼ばれる教団施設のある上九一色村で、入信した家族を取り戻そうとする人たちが「こっちに帰ってきて」と涙ながらに訴えるという、当時のワイドショーで流されていた映像だ。家族たちが叫ばざるを得ない気持ちはわからないでもないが、えもいわれぬ違和感が生じた。「こっち」がこれだけ正しくないからこそサティアンに逃げ込まざるを得なかったのに、あちらの異常性をもって「こっち」の正当化の根拠とし、その実なにも変わらない世の中で「こっちへ帰ってきて」と呼びかける人々の様子を映し出すメディア。
凶悪事件なり甚大な事故をやらかした輩は、「薬物中毒」でも「新興宗教」でもなんらかの「障害」でも「外国人」でもなんでもいい、とにかくわたしとは異質なだれかであったのだ、と確認することで安心したいという心性は、このわたしと犯罪者を線引きしたいという衝動に留まらない。わたしたち自らが支えるこの狂った世界で「正常」でいつづけることの異常性を、白日の下にさらされてしまうことへの拒絶反応が、そうした心性を支えているのではないかとわたしは思っている。むろん犯罪者が正常だと言いたいのではない。異常が世の中の常態となり、その世の中が管理できる枠内の差異のみを認める限定的な「多様性」が蔓延し、突出すれば異物として速やかに排除される。
藤田のアーバス評から三十年近くを経て、この国の文化は一応の「成熟」をみたのか、多様性を尊重すべきだという意見も広く社会に浸透してはいる。だからこそ、多少の違いがあったとしても、座敷牢に閉じ込められたり、見世物小屋のような周縁に追いやられたりすることは一見するとなくなった。けれど、ほんとうにそれは差異が受容されたからなのか。わたしにはマジョリティ(多数派)(註4)が「多様性」という寛容さを武器に、かろうじて差異を保っていたマイノリティまでも飲み込み、ほとんど制圧してしまったとしか思えない。
そんな現代、かろうじて生き延びている子供鉅人という道化たちが、価値の転回をもたらしてくれるのではないかと、わたしはかなり本気で期待している。それがどんちゃん騒ぎでも、悪ふざけでも、だ。
子供鉅人の『バーニングスキン』には、異質であることを飼いならすかのように都合よく取り込み、画一的な統制が取れているかに見せる社会の欺瞞を、内側から食い破らんとする激しさを感じる。それは、益山自身の出自が関係しているようであった。
アフタートークで益山貴司は、自分たちは差別的で、ヘンなおばちゃんとかいたらすぐ笑う、などと言っていたが、それは彼らが生まれ育った猪飼野の逞しさなのだとも語った。「差別的」という言葉をそのまま真に受けてはいけないと思う。在日朝鮮人(註5)のコミュニティで生まれ育ち、この社会で異質なる者として周縁に追いやられていた人たちの逞しさとは、ハイバイの『ヒッキー・カンクーントルネード』評でも引用した「ミリタント(闘争的)なやさしさ」に通じている(註6)。その中で育まれる笑いとは、他者を一方的に嘲り笑うのではなく、「お前もヘンだが俺もヘンだ、人間っておもろいな」という人間の普遍的なおかしさを笑う双方向なものなのだ。
子供鉅人の舞台を観て笑って良いのかと躊躇う人たちは、とても良識的で、「差別的」ではないに違いない。けれども、異質な人々を周縁に追いやったり同化したりして見えなくしてきているというような、それ自体が紛れもなく差別的である社会において、良識的に振る舞うことの方が、無自覚であってもよほど悪質に差別の温存に加担していると思うのだ。
『バーニングスキン』で人間の醜態を見せつけられて不快を感じた人の、マジョリティとしての直観はある意味では鋭かったとも言える。つまりそれは、自分たちが延々と続けてきているマイノリティへの理不尽な仕打ちの帰結を、まざまざと見せつけられたことによる不快感だからである(註7)。
大阪の公演との笑いの起こり方の違いは東西の笑いの質の違いだけではないだろう。東京の人々の方が空気を読む力を持ち、同調性が高いということではないだろうか。それだけ「良識的だが、差別構造を含んだ社会」に統制されているともいえるはずだ。
子供鉅人の舞台では、笑いだけでなく、音楽やダンス、戯画的なヴィジュアルに詩的な台詞、あの手この手を駆使して「残忍で救いのない物語」にデコレーションが塗ったくられていく。どれもこれも“真っ当”なものは何ひとつ無いといってよいほど異質なもので世界が組み立てられていく。
ひと昔前のコントに出てきそうな「ワタシ、ニホンゴシャベレマセーン」的な片言の、しかもちょっと“お上りさん”風味も足された墓掘りカウボーイは、本物のカウボーイになりたがっている。彼に褒美の牧場やキャンピングカーをチラつかせ「黒い油、燃える水」を砂漠から掘り起こせと指令を出すボスもいる。けれど、チアガールのダサいダンスやワニとの決死の格闘やモーテルのカップリングパーティーやド派手なカーチェイスなど、勘違いも甚だしいイメージがどれほど積み重ねられたとしても、決して自由の国には辿り着かない。
【写真は、「バーニングスキン」公演から。撮影=橋本大和 提供=子供鉅人 禁無断転載】
それどころか、墓掘りカウボーイが埋めたという40人の盗賊の死が暗喩する、憧れの「自由の国」による「大量破壊兵器の査察」などという正しそうな口実に隠された原油強奪疑惑により、「自由の国」が虚像であることまでも、ほのめかされてしまう。
それでも、マリたちは理不尽にも押し付けられた人生から逃れるがごとく、怒りをエネルギーに変えて、立ちはだかるものすべてをなぎ倒して猛進する。彼女たちだってそんな都合のいいハッピーエンドが待っているなんて信じてはいないことくらい、痛々しいくらいに判ってしまうのだけれど、わたしはなぜか祈るように手を握り締めている。
『キッチン・ドライバー』でのダメ男っぷりも見事だった影山徹が演じる墓掘りカウボーイは、その頼りなさゆえに誰もが受け容れざるをえないほどのヴァルネラブルな(傷つきやすく、誰を傷つけることもない)魅力でマリさえも捉え、ふたりはともに「世界で一番清潔な場所」を目指す。
結局、世界で一番清潔な場所=灼熱の砂漠には至りようもなく、彼女の憎む海の砂浜に行き着く。ところが、あれほど忌み嫌っていた海で、「おぶってやるよ」というカウボーイの誘いに、照れながら悪態つきつつもマリは応じる。このシーンで、少しでも「あぁ、良かった」と感じたのであれば、彼女を異常と片付けるのとは逆の情動が働いているのであろう。わたしたちの社会では許されようもない暴力の権化であるはずの彼女なのに、観る者はたやすく彼女を悪と切捨てられずにスッキリさせてもらえない。
ボスのさらなる指令に導かれて訪れた家で、応対した女の態度が気に入らなかったというだけで、マリはまた女を惨殺してしまう。そのように、破綻も行き着くところまで至ってしまった先であるのにもかかわらず、性懲りもなくカウボーイは手に入るはずもない牧場で一緒に暮らさないかとマリを誘う。
理路整然としたつながりはほとんどなく、断片的なイメージが塗り重ねられていく。しかも展開は速く、意味づけして整理していく暇もない。もとより意味などないものも多いのだが、ダメな人たちのどうしようもなく堕ちていく様が、滑稽さや妖艶さとして観る者のうちに積もっていく。わたしたちはそんなふうに道化が示す狂騒の只中で、奇妙なことに、どこか居心地の良さを感じている自分を見出す。そして現代の道化は価値を転倒する魔法をもうひとつ用意していた。
愛着の湧いてきた異常な世界が崩れ落ち、カウボーイとの夢もつゆと消えゆく中で、彼女は叫ぶ。
「開けゴマ」
はたしてカーテンは開く。嵐の後の静けさの中で、舞台奥に向かって置かれたソファにはジェニファーとカウボーイ…いや、ふたりとも衣装が違う。声も出さず、ふざけあいが高じて叩き合うパチンパチンという音のみ響いていて、ふたりはどうやら子どものようである。
彼女はかすかに震える声でささやく。
「開けゴマ」
ゆっくりと次のカーテンが開く。そこには書物に目を落とす父がいる。子どもにいたずらをされても動じない寡黙な父親は、前半の頼りないイメージとはずいぶん異なる雰囲気である。
マリの祈りと共鳴するかのようにわたしの中にも揺れが生じる。わたしのためにも、わたしたちのためにも、どうか開いてくれ、と念ずる自分がいる。そして彼女は乞い願うように唱える。
「開けゴマ」
さらにカーテンは開く。一番奥には食卓があり、お払い箱になった妹や唐突に殺された女(タンスに仕舞われていた姉も演じたきたまり)たちまで座っている。「ごはんできたわよ」と母に声をかけられて父親と男の子たちも席に着く。母は何ごともなかったかのように「マリも、何してるの」と呼びかけ、マリはすべてを赦されるかのように、そこへ招き入れられる。
もしかしたらジェニファーやカウボーイも、姉や妹よりも前にマリによって殺されていた彼女のきょうだいたちではないのかという邪推が湧く。けれど、いま、みんなで食卓を囲んでいる。
そして母は、かつて誰かが言った、いまもどこかで言っているにちがいなく、きっとこれからも言いつづけていくだろうことを言う。
「今日の晩御飯どうしようかしら」。すかさず暗転と壮絶な音楽。
このなんでもない食卓の風景は、砂漠にシャベルを突きたてて石油を掘りおこすことで、本物のカウボーイになれると信ずる男に、砂漠のようにただれたその胸を貫かれたマリが、最期の刹那に見た夢にすぎないのかもしれない。また、時間を遡って、家族が壊れていく前に戻ったともいえるし、パラレルワールドを示しているとも、いえる。「結局最後はどうなったの?」というのは愚問にすぎなく、演劇はその手の結論を示すためにあるのではない。
ただ、ラストシーンはパーライトの眩しいほど澄んだ灯りで照らされていたのだった。まったく穏やかな朝の光。これから一日が始まる食卓。
新しい一日の生き直し。それはもう、マリただ一人の生き直しということではない。異常な世界で正気を装っているわたしたちが、彼女の叫びに対して心を響かせてしまったのであれば、それはわたしたちが生き直すための始まりの食卓でもあり、母親がマリを呼んだとき、招かれていたのはわたし自身だったのかもしれない。
憎悪と破壊と希望と愛で狂乱する物語に飲み込まれて、束の間の正気を取り戻したわたしたちは、生き直しの一歩を踏み出す。せつなる願いが結晶したかのようなあの美しい朝の光は、なににも増してそんなわたしたちの後押しになるような気がしたのだった。
(註1)カフェバーの営業もしていたポコペンは、創作活動の多忙さのあまり7月7日に惜しまれつつ閉店した。
(註2)藤田省三著作集9『「写真と社会」小史』(みすず書房)に収録されている。
(註3)公演を重ね、作り込んだことによる弊害は確かにあったと思う。慣れのせいなのか、台詞を観客に届けるということがところどころお座なりになっていた。平田オリザの同時多発の台詞だって、聞かせるべきところは緻密に計算されている。藤田貴大や矢内原美邦のように繰り返すことで届くようにしている作り手も少なくない。益山貴司の書く台詞は流れるような詩である。観客が十分に堪能できるような演出の工夫を期待したい。
(註4)マジョリティ/マイノリティは数の多さではなく権力関係における立場の強さ/弱さを意味している。
(註5)わたしは学生時代に教示を受けた徐京植の影響で、「在日朝鮮人」という記述を用いる。国家ではなく、民族としての朝鮮を示している。詳しくは『ディアスポラ紀行』(徐京植著・岩波新書)を参照されたい。
(註6)栗原彬は『人生のドラマトゥルギー』(岩波書店)で「やさしさに欠かせない三要素」として、「生命への感受性。他の生命の波長との共振」と「ヴァルネラビリティ(可傷性、傷つきやすさ)あるいは共苦」と「心の寛やかさ。差別したり排除したりしない心の習慣」とをあげている。他者の存在を感覚するだけでなく、自らの痛みをもって他者の痛みを想像することで、差別や排除を否定する生き方といえる。
(註7)かつて記した風琴工房『hg』評において、誰もが加害性と被害性を秘めていることを論じたのだが、同様にマイノリティ/マジョリティに関しても、誰もが両方の性質を併せ持つ。「民族的マイノリティで性的マジョリティ」とか「言語的マジョリティで宗教的マイノリティ」というように。本人に自覚があろうがなかろうが。
【筆者略歴】
鈴木励滋(すずき・れいじ)
1973年3月群馬県高崎市生まれ。舞台表現批評。地域作業所カプカプ所長を務めつつ、演劇やダンスの批評も書く。『生きるための試行 エイブル・アートの実験』(フィルムアート社)や劇団ハイバイのツアーパンフに寄稿。ウェブサイトBricolaQ にてお薦めの舞台紹介(ブリコメンド)もしている。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/suzuki-reiji/
【上演記録】
子供鉅人『バーニングスキン』
VACANT(東京・原宿、2012年6月30日-7月2日)
脚本/演出:益山貴司
出演:キキ花香 影山徹 益山寛司 億なつき 益山有司 小中太 きたまり(KIKIKIKIKIKI) 益山貴司
楽曲提供:イガキアキコ(violin / たゆたう) 中林キララ(guitar / オシリペンペンズ) ワタンベ(drums / トウヤマタケオ楽団)
舞台監督:ロッテンマイヤー
音響:林裕介
照明:筆谷亮也
美術:さくらの 加納たかえ
衣装:ONEGAIGOTO(teji)
ウェルカムミュージックセレクト:Dj威力
web/宣伝美術/写真:橋本大和(宇宙へようこそ)
演出補助:ゴ タケヒサ
制作:佐々木瑞穂 田中沙枝子 中西由佳 鳥井由美子
子供鉅人物販部「こどちゃ」:ミネユキ
協力:大神崇(HUTU)
主催:子供鉅人
提携:VACANT
企画制作:子供部屋 HUTU
鈴木励滋様
初めまして。ここにコメントしても良いのか?随分悩みましたが、昨夜、劇評を拝読し、劇団子供鉅人のファンとして、言葉を抱きしめて号泣したいような、そんな気持ちである事と鈴木さんの文と存在に深謝申し上げたく、一筆申し上げます。
長文になるかも知れませんが、お許し下さい。
劇評の文の全てを理解、また共感し得たわけではありません。けれども、有難いと感じました。
思想的に近しいように感じた為です。
私は子供鉅人自体に夜 透明な混沌(岡本太郎の言葉)を感じ、同時に夜明けを感じています。
また、
労働者に必要なものはパンでもバターでもなく、美であり、詩である。(シモーヌ ヴェイユの言葉)
のパンもバターも必要ではありますが(笑)
ヴェイユの言わんとする「美」「詩」が、子供鉅人に在る事を感じます。
また、
まさしく、芸術の偉大さとその必然さとは、それがより単純な世界の輝き、もっと生の神秘の謎を手っとり早く解いてくれそうな現象を暗示する点にある。人生に苦悩する者は何人もこの幻覚なしには生きられない。たとえば睡眠なしには何人も生きられぬと同じように。人生を認識することいよいよ至難となってゆくにつれて、いっそう熱烈に我々はあの単純化への幻覚を欲望する。たとえそれはほんの刹那の出来事であろうと。またいっそう事物の一般的認識と個々人の精神的=道徳的能力との間の緊迫は増大する。その絃が断絶せぬために、芸術がそこに存在するのだ。(ニーチェの言葉)
の「絃の断絶」を子供鉅人の存在により免れた私は、子供鉅人自体を心底愛し、感謝しています。
深淵に限りは無く、無限は安定していると信じています。
鈴木さんの文を読めて、幸せです。涙とともに、心底感謝を込めて…
本当は直接御礼が言えると良いのですが。
劇場ですでにすれちがったり、またお会いするかもしれません。
今後とも、劇団子供鉅人をどうぞよろしくお願い致します。
劇団子供鉅人の中毒的(笑)ファン 小林幸子より
小林幸子さま
まずは、コメントがつかないことで有名(?)なワンダーランドへの勇気ある投稿ありがとうございます!
また、このように熱烈に愛してくれるファンがいてくださることが、子供鉅人という劇団の実力の何よりの証明なんだろうな、と思います。
ほんとうは自由にそれぞれが受け取ればよいわけで、なんとも無粋な営みとも言えるんですが、自分のうちに生じた揺れを言葉にして誰かと分かち合いたいようなところもあるので、少しでも届けられたとしたら嬉しいことです。 そして、なにか響いたとしたら、それはすべて舞台上にあったことだとも思います。
今回、わたしが藤田省三を手助けとして読んでいったのと同じように、小林さんの応答によって、岡本太郎やヴェイユやニーチェの言葉に触発されて、『バーニングスキン』という作品やわたしの文章までもが、より一層複眼的に味わってもらえることは愉快なことです。
それから、もうひとつ。
「人生に苦悩する者」というのは特別な誰かではないと思っていまして、生きてしまっている者はだれもが、生そのものの孕む不条理や避けられない死という理不尽を前に、逃れようもなく生きがたさを秘めていると思っています。そんな生きがたさのただ中で信仰も持たぬわたしが生きながらえているのは、自らに絶対的価値を帯びなくてはならない宗教ではなく、価値を揺さぶり組み直す=常に生成しつづける芸術に支えられているように感じています。
年間200ほどの舞台作品を観させていただいていますが、そのような出会いは数えるほどで、一度出会えたのであればしつこく追いかけることになります。もちろん子供鉅人も追いかけますよ!
今まで書かせてもらった「ハイバイ」や「羽衣」や「藤田貴大(マームとジプシー)」のいずれも通底する表現だと思いますので、ご興味をひかれるようでしたら、ぜひ公演に足を運んでいただけるとありがたいです。
「直接御礼」だなんて恐縮ですが、次の東京公演にいらっしゃるのであれば、10月6日(土)のマチネで斬られる2人のうちでほんのちょっと膨らんでいる方がわたしです。同日ソワレの黒田育世さんが斬られる回の方がわたしとしてはお薦めですが。
この度は、ほんとうにありがとうございました。
鈴木励滋拝