Port B 「光のないII」
ミュンヘン・カンマーシュピーレ「レヒニッツ (皆殺しの天使)」(F/T12イェリネク三作連続上演から)

◎イェリネクからなにが見えたのか
  高橋宏幸

Port B 「光のないII」プログラム表紙
「光のないII」プログラム表紙

 おそらく、エルフリーデ・イェリネクという作家への一般的なイメージは、難解の一言に尽きているのではないか。少なくとも、演劇という分野で、日本で上演される際はそう思われていただろう。しかし、そのわりに今までリーディングだけでなく、上演もされている。小説だけでなく、戯曲も出版されている。それは、良く言えば、テクストのわからなさや難解さゆえに、上演に果敢に挑もうとする人がいたということだ。悪く言えば、スノッブゆえに小難しい作品の演出をしたがっているものがいる、そんなふうに思われてきたふしがある。
 今回、「フェスティバル/トーキョー」で、いくつも上演されたイェリネクの作品からは、そんな難解さなどという一言に還すことができない作品がいくつもあった。むろん、分かりやすく演出されたということではない。主催公演では三作品、公募プログラムでも一作品と、イェリネク作品が、これだけ一挙に上演されると、まるで難しさの飽和点から、一挙にシンプルな現実の問題へと、イェリネクの言葉を召喚したような結果が生まれた。
 むろん、個々の作品が目指したことは、その一点に帰そうとするものではない。しかし、上演されたなかでも、優れていると思われた作品には、現実への闘争のために、いかにイェリネクの言葉が重要となっていたのかが必然的に現れた。

 Port Bが上演した『光のないⅡ』は、それが最も顕著に現れた。彼らにとって、イェリネクの戯曲を上演するのは、何度目かになる。以前にも『雲。家。』という作品を、再演を含めて、東京国際芸術祭で上演している。そのときの舞台も、成果を残したものだった。
 『雲。家。』というテクストは、どれがどれなのかは聴いただけではわからないが、ヘルダーリン、ヘーゲル、フィヒテ、ハイデガーなどの、言葉の引用によって書かれている。黒い基調で覆われた舞台空間から、重く響く俳優の声で語られるドイツにおける「血と大地」の問題は、テクストそれ自身の言葉の重みが観客に伝わるように、シンプルな演出がなされていた。だが、その重みが異化される。テクストをゆるやかに逸脱して挿入される、スクリーンに映し出される留学生へのインタビューなどによって、アンバランスな空間が作られるのだ。テクストで幾度となく使われる「わたしたち」という言葉が、これもまた日本の「わたしたち」の問題であるかのように、緩やかに接続されていく。たとえるなら暗い能舞台のような重みの空間が、現実的な日常によって、歪んで現出させられるのだ。その優れた成果は、数年前の舞台にも関わらず今もって記憶に残り続けている。
 今回の場合は、Port Bがしばしば行うツアー・パフォーマンスという作品の形式に、イェリネクの戯曲が用いられた。それは、かつてのイェリネクの戯曲を上演した経験が間接的ながら関係しているのではないか。
 観客というより参加者は、まず新橋の向かいのビルの一角からスタートする。そこから手渡されたポストカードと携帯ラジオを手がかりに、新橋という街を歩く。まず最初の場所である東京電力本社に行くときに気づかされるのが、これが脱原発デモのいくつかのコースの一つということだろう。むろん、デモ自体は、コースも場所も主催者によっても違い、いくつものコースがある。ただ、その一つとして、たとえば日比谷公園から始まり、経産省や国会議事堂、そして東電前から新橋駅前の広場で解散するコースはある。東京電力の本社前を行くこと自体は、デモコースの定番の一つだろう。
 それを逆走するような形でまず指示はなされる。一つ目の東電本社前の場所は、まさに立ち並ぶ高層ビルのなかに落とされた都市のエアポケットのような空間だ。そこで、指示された周波数に合わせて、ラジオから流れてくるイェリネクのテクストの朗読を聞く。その四方を高層ビルによって区切られた場所から見えるのは、空と向かいの東電本社ビルだ。

「光のないII」1
「光のないII」2
【写真は、「光のないII」公演から。撮影=Masahiro Hasunuma© 提供=F/T12 禁無断転載】

 そこから、雑居ビルや新橋の片隅の見落としてしまうような十数か所の場所を、震災や原発といった3・11を髣髴とさせる放射線、防護服、避難、立ち入り禁止地区などをモチーフにした、インスタレーションを巡り歩く。イェリネクの宣告のように響く重く、圧倒的な言葉の量を、行く先々のインスタレーションを前にして聞くのだ。むろん、福島の原発事故をモチーフにしたイェリネクのテクストでも、聞くだけですべてを汲み取ることは難しい。それほどに、うねる様な言葉の量がある。しかし、いくつかの単語が、たとえば光、水、土地、太陽などが、脳裏に引っ掛かり、そこからイェリネクの言葉の渦のなかに、尽きることのない想起の場所へと参加者は連れて行かれる。そこにはインスタレーションも、ときにあまりに具体的なものまでがあり、参加者に言葉の重みを物質的に感じさせようとしている。
 それは、否が応でも、この場所から福島へと思考を誘導する。新橋という都会で目にする風景の中に輝く光のビルやネオン、街の光の渦は、どこでどのようにして作られているのか。最終的なインスタレーションの場所に近づくほど、イェリネクの言葉の渦と新橋を取り巻く圧倒的な光の渦が、相乗的に目まぐるしく襲ってくるような錯覚が現れる。それこそ、わたしたちは火の怖れを知っているのか、と。
 また、最後の場所に並べられた、いくつもの自由に取ることができるポストカードには、福島第一原発からのそれぞれの距離で撮られた空の写真がある。その空の距離感は、県境や距離の境を一瞬にして失くし、どこまでも続いている空という空間だけがあることを示す。まるで最初に見た区切られた高層ビルの空と、福島の空との距離が、一瞬にして融解してしまった感覚を与えてツアーは終わる。
 しかし、どれだけ福島に思いを巡らそうと、矛盾するようだが、これらの言葉とインスタレーションを聴いても、行く先々の間にあるのは、新橋という雑多な街の喧騒だ。それは、自由な想起に絶えず打ち消すように、我々が享受している現実空間を介入させる。いくつもの飲み屋街とビジネスマンたちの毎日が、そこにはあるのだ。
 そのアンバランスさのなかで、確かにある面では、参加者がもつ新橋という街に対する認識は異化されるだろう。しかし、この新橋という場所では、自身もまた人から見れば異質なものという認識を持たれ、異化される存在としてあることに気づく。
 実際、脱原発デモにどれだけ人が集まろうとも、新橋において彼らのデモは、多くのビジネスマンにとっては異質な存在であっただろう。それは、どちらが少数者か多数者であるかという問題ではなく、彼らから見れば、わたしたちが彼らの認識を異化する奇異なものと映ることもあるのだ。それは、今作においても同じだ。ポストカードを片手に、街中を歩き、時に立ち止ってラジオの声を佇んで聞く人たち。それは、いつもの街にとっては、不確かな存在だろう。
 『雲。家。』の時ならば、インタビューなどが、観客が舞台へと単に没入しないように、現実を導入して異化するためのものだった。ただ、この『光のないⅡ』は、参加者であるわたしたちも見られる存在として、新橋を歩く人たちにとって、デモと同じように異化する存在としてあったのではないか。これは、かつての演出の方法を基底にしながら、その先にあるものとして、さらに効果的にイェリネクの言葉が用いられて、今回の作品が作られたといえる。原発という一国の空をこえるグローバルに展開する問題と、対抗勢力としてのデモ。それを取りまく環境を見すえながら、現実の闘争の一助としてこの作品もある。

レヒニッツ(皆殺しの天使)のプログラム
レヒニッツ(皆殺しの天使)の
プログラム表紙

 そしてもう一つ挙げるならば、いわゆる舞台作品としては、来日したミュンヘン・カンマ―シュピーレの『レヒニッツ(皆殺しの天使)』は、印象に残った。作品のモチーフは凄惨である。第二次大戦当時、オーストリアのレヒニッツ村でパーティーのさなかに行われた、およそ180人のユダヤ人の虐殺だ。いまだに事件そのものを隠ぺいしようとするような雰囲気があるなかで、それを報告者が語るという形式でテクストはある。
 テクストでは誰がどの台詞を話すのか分割されていないが、舞台は5人の俳優たちによって行われた。そして、イェリネクの特徴といえるのだろうが、変わらずに圧倒的な言葉の量によって埋め尽くされる。ドイツ語が分からない場合は、字幕を見ることになるのだが、おそらく字幕用に省略されているのだろうが、それでも追うことだけで精いっぱいな量であった。
 だが、これはなにも本来のテクストに小説のような描写が多いというわけではない。あくまで語る言葉としてある。その多さに反比例するように、言葉の渦から垣間見えてくる筋のようなものは、ただ一点に向かっているように思えた。テクストは、なにも史実や事実を丹念に積み上げて論証されるわけではない。ただ、この無数に飛び散りながら、自由に書かれているように思えるテクストが、語弊があるかもしれないが、シンプルなのだ。それが目指す先は、端的に言えば、モチーフとなっているこの事件への追究であり、告発であり、その真実に対して蓋をしようとする社会への闘争ということになるのだろう。
 実際、舞台上の狩小屋のような舞台美術や俳優がもつ紳士淑女の雰囲気など、演出もすべてはシンプルで和やかなものだ。どれだけ凄惨な台詞においても、ときにエロチックな行為においても、それは崩れない。むろん、それが無気味さを増すのだろうが、字幕を完全に読むことを途中で断念すると、このポストドラマ演劇ともいえるようなテクストが、逆説性を帯びてくる。
 狩小屋の更衣室のような舞台は、列をなしており、それ自体は伝統的ともいえるモダニズム演劇の舞台装置を思い出させる。その扉が開閉して、小道具が出されたりするのだが、特に奇をてらった演出はなされない。それは、ポストモダンやポストドラマと言う言葉の行き着き先が、モダニズムというものがもった近代の問題を問うことだったという王道を思い起こさせる。
 むろん、演出によってテクストがそのように見えるということはあるのだろうが、テクストもまた同様に、理知的に描かれたシャープな言葉として、政治的な問題と作品を覆う芸術の形式との二つを追うことができるものだ。

 そう考えると、二つほどの作品を言及しただけだが、イェリネクの読み方や見方というものが、少なくとも単なるテクストを解体した、難解なポストドラマの作家と紋切型に日本で括られていることからは、今回のフェスティバルによって変わったのではないか。いくつも上演された作品の総和と、そのなかでもいくつかの作品には、それらが顕著にあった。

【筆者略歴】
 高橋宏幸(たかはし・ひろゆき)
 1978年岐阜県生まれ。演劇批評。桐朋学園芸術短期大学・日本女子大学非常勤講師。「図書新聞」「テアトロ」などで執筆。評論に「プレ・アンダーグラウンド演劇と60年安保」(『批評研究 vol1』)、「原爆演劇と原発演劇」(『述5』)、「マイノリティの歪な位置?つかこうへい」(『文藝別冊』)など多数。2012年Asian Cultural Council(ACC)グランティー(助成受給)。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ta/takahashi-hiroyuki/

【上演記録】
F/T12イェリネク三作連続上演から
▽Port B「光のないⅡ
新橋駅周辺(2012年11月10日-24日)

作 エルフリーデ・イェリネク
翻訳 林 立騎
構成・演出:高山 明
写真:土屋紳一
舞台監督:清水義幸(カフンタ)
装置:江連亜花里(カフンタ)
装置アシスタント:森川存子
衣裳:有島由生(カフンタ)
技術:井上達夫
ラジオ:毛原大樹
ポストカード編集:深澤晃平
デザイン:アジール
記録写真:蓮沼昌宏
演出助手:坂田ゆかり、的場真唯
プロジェクトアドバイザー:猪股 剛

声の出演:いわき総合高校演劇部
(青木愛、飯島もも、沖崎美菜、片寄真亜也、鎌田彩音、桜井智恵理、鈴木ゆうか、田中涼、千色和希、新妻宏恵、西田藍、原田麻穂、松本芽生、屋代七海、渡辺真衣、渡部若菜)
協力:株式会社 太一、株式会社ダク・エンタープライズ、
神山産業株式会社、エクセラマネジメント株式会社、
石井路子(いわき総合高校演劇部 顧問)
特別協力:ニュー新橋ビル管理組合、ニュー新橋ビル商店連合会

F/ Tスタッフ
プログラム・ディレクター/ドラマトゥルク:相馬千秋
制作統括:武田知也、小島寛大
制作:藤井さゆり、田中沙季
F/ Tクルー:箭内聖司、青島美和、川口茜、寺本奈津美、金セロム、一ノ瀬貴志
製作:フェスティバル/トーキョー、Por t B
主催:フェスティバル/トーキョー

▽ミュンヘン・カンマ―シュピーレ [ ドイツ ]「レヒニッツ (皆殺しの天使)」
東京芸術劇場 プレイハウス(21012年11月9日-10日)

作:エルフリーデ・イェリネク
演出:ヨッシ・ヴィーラー
舞台美術・衣裳:アンヤ・ラベス
音楽:ヴォルフガング・シウダ
照明デザイン:マックス・ケッラー
ドラマトゥルク:ユリア・ロホテ

出演:カトヤ・ビュルクレ、アンドレ・ユング、ハンス・クレーマー、スティヴェン・シャルフ、ヒルデガルド・シュマール
製作:ミュンヘン・カンマーシュピーレ劇場

東京公演
翻訳:林 立騎
字幕:萩原ヴァレントヴィッツ健
技術監督:寅川英司+鴉屋
舞台監督:鈴木康郎
演出部:佐藤豪、十万亜紀子、長谷川ちえ
小道具:栗山佳代子
美術コーディネート:福島奈央花
照明コーディネート:佐々木真喜子(株式会社ファクター)
木下尚己(株式会社ファクター)
音響コーディネート:相川 晶(有限会社サウンドウィーズ)
音響協力:(株)エス・シー・アライアンス
字幕コーディネート:幕内 覚(舞台字幕 / 映像 まくうち)
通訳:須賀幸子 田原奈穂子
記録写真:石川 純
記録映像:(株)彩高堂「西池袋映像」

F/ Tスタッフ
制作統括:武田知也、小島寛大
制作:戸田史子、クラウトハイム・ウルリケ
制作アシスタント:小野塚央
フロント運営:寺地友子
プログラム・ディレクター:相馬千秋
F/ Tクルー:宇都宮千陽、崎濱恵梨、福原麻梨子、山口侑紀、弓野亜希、米谷今日子
特別協力:東京ドイツ文化センター、在日オーストリア大使館
後援:ドイツ連邦共和国大使館
主催:フェスティバル/トーキョー


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