◎だれが日本を盗むのか ― 鼠小僧が消えた闇の今
新野守広
流山児★事務所が『義賊☆鼠小僧次郎吉』を上演した。安政の大地震からわずか1年2ヵ月ほど後の1857年、江戸市村座の正月興行で上演された河竹黙阿弥の『鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』が原作である。東日本大震災から2年が経ったこの時期に江戸末期の泥棒芝居が選ばれた背景には、崩壊する幕藩体制と現在の日本社会の混迷を重ねる意図があったと思う。
公演会場は流山児★事務所の拠点、Space早稲田。地下空間の北と東の壁際に椅子席を並べ、南と西が正方形の舞台の二辺になるように演技の場が設えられている。さらに椅子席の列の間にも俳優が通る通路があり、俳優たちは縦横に走り回る。劇団ホームページには90㎡と示されているが、この狭い空間にこれだけの客席と演技スペースをつくりあげた情熱に感嘆。登場する12人の俳優が演じる役は、解説役も入れると28役。一人二役や三役は当たり前。密集と離散を繰り返す俳優たちのスピード感溢れる動きがリズムを生む。
舞台の特徴は、誇張とデフォルメの大胆さにある。黙阿弥の原作を丁寧に上演すると、半日はかかるに違いない。その一大長編を1時間50分におさめてしまった(脚本:西沢栄治)。台詞は大胆にカットされ、物語の主筋からはずれる脇筋には削られたものもある。鼠小僧が盗みに入る場面は、速攻の人形劇である。原作の床浄瑠璃は、ロック調やポップス調の曲に作り直され、合唱、独唱、二重唱で歌い出される(音楽:諏訪創)。江戸時代の町人社会の義理や人情をしみじみと描いた世話物の世界から、現代の大衆社会にかなう表現を生み出す工夫だろう。
台詞を口語調に直し、浄瑠璃を現代風の音楽に置き換える演出は、宇崎竜堂が音楽を担当し自らも出演した映画『曽根崎心中』(1978年。監督:増村保造)など例がある。『花札伝綺』や『ユーリンタウン』をはじめとして、数々の音楽劇を手掛けてきた流山児★事務所にとって、黙阿弥の『鼠小紋東君新形』を音楽劇仕立てで上演するのは自然な流れだったに違いない。
大胆に改変された流山児版『鼠小僧』は、黙阿弥の『鼠小紋』に立ち戻ろうとするものではない。むしろ黙阿弥の意図を斟酌しながら、黙阿弥から遠く離れた今を撃てるか、その可能性に賭けた舞台だと感じた。
【写真は、いずれも「義賊☆鼠小僧次郎吉」公演から。提供=流山児★事務所 禁無断転載】
1. 現代化された音楽劇
捨て子の生い立ちを陰ある表情に垣間見せる稲葉幸蔵(上田和弘)、悪と強欲の権化が一転情けある心根をさとらすお熊(甲津拓平)、一分の隙も見せない気丈な後家お高(神在ひろみ)、軽薄な悪役に徹するイワヲの平岡権内など、狭い空間に溢れる個性的な俳優たちは、いくつもの役を掛け持ちする。全体に誇張された劇画的な印象があるが、これは俳優たちが広い劇場でも十分通用する声量と所作にもかかわらず、客の目と鼻の先で演じているためかもしれない。劇団主宰の流山児祥も登場し、いつもながらの落ち着いた存在感と軽妙なとぼけ味で解説役と薬売り山井養仙役を好演した。
流山児版『鼠小僧』では、すべての台詞が口語に書き直されているわけではない。黙阿弥の文語調の言葉を生かしながら、全体として耳で聞いてわかる程度に口語調に直しているに過ぎない。ただその結果、舞台で交わされる会話は江戸時代のものでもなく、かといって現代のものでもない曖昧なものになった。この曖昧さは舞台の疾走感の源でもあるが、黙阿弥の世話物が描いた江戸町人社会の情感が無情にも切り捨てられてしまったと嘆く観客もいてもおかしくはない。
その一方、全体が休憩なしの2時間弱で一気に見られたため、稲葉幸蔵、すなわち盗賊鼠小僧の周囲の人間関係を細い糸でつなぐ黙阿弥の才気が鮮やかに伝わった。幸蔵の育ての母であるお熊が計画した百両の騙りに引っかかった新助とお元。二人が心中するところへ通りがかった幸蔵が情けで盗んだ百両には極印があり、新助とお元は捕えられる。一方、百両を盗まれた屋敷の辻番與惣兵衛は捕えられ、息子與之助は父のため百両の盗みに入った両替商若菜屋で捕えられる。さらに與之助を守るため嘘をついた若菜屋の後家お高も捕えられる。すべてを知った幸蔵は皆を救うため自ら問注所に名乗り出て裁きを受ける。善意から出た百両の盗みが、幸蔵と彼を取り巻く人々の本当の関係を明らかにするのだが、実にこれら主な登場人物たちは、たった一つの家族とその親戚一同なのだ。渡辺保は次のように書いている。
黙阿弥は、この事実こそ書きたかったに違いないのであり、本来の悪とは無縁なのである。幸蔵の周囲に集まった人々、幸蔵を責めたてる人々の存在は、ひたすら幸蔵の悪を際立たせるのではなく、幸蔵における悪の欠如を際立たせるためにのみ存在している。
(渡辺保『黙阿弥と明治維新』岩波現代文庫160頁)
このような「義賊」のテーマは興味深い。盗賊鼠小僧次郎吉が義賊であるのは、なにも裕福な大名屋敷を専門にする盗人であるからだけではない。鼠小僧はむしろ善意の人であり、善意から行なう行為が「悪」を生み出し、彼の周囲の人々を犯罪に巻き込んでしまうのだ。渡辺保はこれを、「現実的な『悪』の空洞化、すなわち『悪』の境界のあいまいさ」と呼び、このあいまいさこそが江戸末期の人々の倫理観であり、秩序の崩壊を示していると結論づけている。
2. 闇に生まれる義賊:だれが日本を盗むのか
舞台の最後の場面に注目してみよう。黙阿弥の原作では、問注所に出頭した幸蔵が縄を抜け、追っ手を振り切り逃亡するところへ早瀬彌十郎という善玉の役人が現れ、雪洞(ぼんぼり)を掲げながら幸蔵の姿を透かし見る。そして「落ち行く影は、取逃せしか。」と語りかけ、雪洞を吹き消して幸蔵を逃がす。幸蔵は「かたじけない」と彌十郎に手を合わせる。ここでおそらく舞台は闇になり、幸蔵は降りしきる雪と闇に溶け込むように逃げていくという設定である。
流山児版『鼠小僧』は、この闇に言葉を与えて、次のようにメッセージ性を持たせている。
幸蔵 あの大江戸の闇の闇!
早瀬 幕末の世を揺るがす「義賊☆鼠小僧」を、早瀬彌十郎、取逃せしか、ふ、は、は、は、は。(ト雪洞を吹き消す)
幸蔵 義賊?そうか、おれは、これから「義賊」になるのか。そいつぁおもしれえや。む、ははははは!
(流山児★事務所『義賊☆鼠小僧次郎吉』上演台本より)
流山児版では、幸蔵の消えた先は崩壊する秩序の闇そのものであることが明確に語られる。しかも幸蔵の台詞は、秩序の崩壊から義賊が生まれるというメッセージになっている。このメッセージを伝えるところに、流山児版『鼠小僧』の可能性が賭けられているのだ。
実際の舞台では、この台詞の直後、俳優たちは衣装を脱ぎ、Tシャツ姿になると一斉に舞台上に立ち、客席をきっと見据えて、騒然としたノイズと「ええじゃないか」の掛け声が響くなか、次の台詞を和した。
(同上)
すなわち、舞台上に立つ俳優たちこそが「義賊」である。俳優たちは3.11を体験した現在の日本社会の崩れゆく秩序のただなかに立ち、義賊として活動を始めるのだ。義賊の宣言である。観客を見据えて「いまこそ盗まん、いまこそぬすまーん」と宣言する彼らは、これから日本を舞台に白昼堂々と始まるであろう大窃盗劇を予言している。
だれが何をどのように盗むというのか。
渡辺保は黙阿弥の『鼠小紋』について、「『日本』を盗むものは、外国だろうか、西国大名だろうか、天皇だろうか」(『黙阿弥と明治維新』167頁)と書いた。すでに西国大名と天皇は日本を盗んでしまった。外国もしかりだが、まだ半ば盗みの途上にある。今後、外国が日本を盗む事態が完成する。TPP、原発再稼働……。流山児★事務所の『義賊☆鼠小僧次郎吉』は、これから私たちの身に降りかかる不幸な未来の闇をあぶり出したのではないか。
【筆者略歴】
新野守広(にいの・もりひろ)
1958年神奈川県生まれ。東京大学文学部卒。立教大学教授。現代ドイツ演劇専攻。「シアターアーツ」編集委員。主な著書「演劇都市ベルリン」、主な訳書「ポストドラマ演劇」「火の顔」「餌食としての都市」「崩れたバランス」「最後の炎」など。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/niino-morihiro/
【上演記録、リンク】
流山児★事務所『義賊☆鼠小僧次郎吉』
Space早稲田(2013年3月14日-24日)
原作:河竹黙阿弥「鼠小紋東君新形」
脚本・演出協力:西沢栄治
構成・脚本・演出:流山児祥
■出演
五島三四郎、柏倉太郎、阿萬由美、イワヲ、山下直哉、谷宗和、上田和弘、甲津拓平、流山児祥、山丸莉菜、佐藤華子、神在ひろみ
■スタッフ
音楽・作曲:諏訪創
振付:北村真実
照明:横原由祐
音響:斎藤貴博、畝部七歩
衣裳:堀内真紀子
舞台監督:吉本均
演出助手:山下直哉
宣伝美術:アマノテンガイ、畝部七歩
剣術指導:上田和弘
制作:米山恭子
主催:有限会社流山児オフィス(流山児★事務所)
一般 前売り3,200円 当日3,500円/学生 2,500円