劇団HIT! STAGE「Case4 〜他人と自分〜」

◎他者性の欠落
 柴山麻妃

「Case4 〜他人と自分〜」公演チラシ」
「Case4 〜他人と自分〜」公演チラシ」
 私は逃亡者。/生まれるとすぐ/私は自分の中に閉じ込められた。/あぁ、でも私は逃げ出しました。

 同じ場所にいることに/人が飽きるのであれば/同じ存在でいることにだって/飽きるのではありませんか?

 わが魂は私を探している/だが私はあちこちを逃げ回る。/魂が私を/どうか見つけませんように。

 自分であることとは牢獄/私であるとは存在せぬこと。/逃げ回りつつ私は生きてゆこう。/それが本当に生きることです。
(フェルナンド・ペソアFernando Pessoa「私は逃亡者Sou um evadido」より)

■氾濫する「私」・本当の「私」

 「私」が氾濫している。とるに足らない些末な「私」が、小さな青白い画面から溢れている。私が何を食べた、私が何をした、私がこう思った。今ほど自己顕示と存在証明のための「私語り」が蔓延している時代はないかもしれない。
 その一方で、ネットの匿名性を利用して、他者との関係性の中で自在に自己像も操る。なりすまし、理想化、ちょっとした見栄…、「虚構の私」が作られていくことで、あたかも「本当の首尾一貫した私」がどこかに存在するような錯覚も生まれる。一頃はやった「自分探し」も同様、思春期でもあるまいし、この自己への執着は気持ちのいいものではない。

 劇団HIT! STAGEの『Case4 〜他人と自分〜』は、タイトルからもわかるように、自分探しの物語である。だが面白いのは、設定が現代であるにもかかわらず(劇中にスマホらしき小道具が登場する)、自己像の悩みを「影武者を立てる」というアナクロな奇策で対処しようとする点だ。
 主人公ナオは、仕事も恋愛も行き詰った30代の独身女性。理想の人生と現実の人生のギャップを埋めるために、自分の影武者を立てることを思いつく。電子メディアを利用すれば、理想の私を作ったりかわいそうな私に酔ったり攻撃的な私になったりできるわけだが、ナオが採った方法は、誰かに思い通りの私の人生を歩んでもらうことだった。そして求人案内を見てやってきたスズとモミジと同居を始め、ナオの思惑通りに「倉本ナオ」を演じてもらうが…。

写真は「Case4 〜他人と自分〜」公演より。撮影=佐々木典子(N-style) 提供=劇団HIT! STAGE 禁無断転載
写真は「Case4 〜他人と自分〜」公演より。撮影=佐々木典子(N-style) 提供=劇団HIT! STAGE 禁無断転載

 他人に「私」になってもらってもらうという「自己像のリライト(劇中では「リプレイ」という言葉)」は、演劇的に面白い仕掛けである。ナオに同一化し、ナオの人生をリライトできたとしても、生身の肉体がそれは他者でしかありえないことを見せつけるからだ。3者がナオとして見えていけばいくほど、3つの肉体が他者性を際立たせる。そこが膨大な「私語り」の虚無性と異なる点であり、演劇でやる意味を持つ(そして説得力のある)自己の物語へと膨らむポイントだった。

 だが、せっかくの他者の存在が、ナオの苦しみをあぶりだすことに終始し、それ以上の意味を生んでいない。求めている「歩むはずだった本当の人生」なんてないのだと気付くためだけに影武者を使うのはもったいない(なにより、影武者に演じさせようとした「理想の人生」を示していない時点でそれは明らかである。結局ナオが提示するのは「〜しなかった人生」というつまづきのやり直しであって、積極的な「歩みたかった人生」ではなかった)。
 自分の内面を見つめ、過剰な自己肯定と自己否定の間で揺れ、自己に気がつくという帰結は、それ自体が未熟な自己完結である。そこには自己が他者との関係でしか成り立たないこと、他者を介してしか自己像も形成されないこと、そういった他者との関係性という概念がない。「自分を模倣する影武者」ではなく「影武者であっても他者」という位置づけでナオとの関係を描いていけば、世界が展開し身体性のある面白味が出たのではないだろうか。

 その観点でひきつけられたのが、唯一の他者との接点、郷里の母親からの電話である。母親との電話のやりとりこそが、ナオの実体を感じられるのだ。この時だけ郷里の方言を話す点にも顕著だが、母親や郷里という自分のルーツの存在をちらりと見せる。都会での霞のような自分探しと反対に、それらは実存する形で自分を証明する。電話の向こうの(見えない)存在が、大きい。それはこの劇団が佐世保で15年活動し、佐世保だからこその物語を作ってきたことも影響しているのかもしれない。

■劇団HIT! STAGE

 ここで本劇団についての説明が必要だろう。劇団HIT! STAGEは長崎県佐世保市で15年前から活動を続けている。2007年に『春の鯨』で日本劇作家協会の新人戯曲賞最終選考にノミネート、2009年には『白波の食卓』で第一回九州戯曲賞大賞を受賞。同年、『Case3〜よく学ぶ遺伝子〜』は近松賞最終選考にノミネートされた。これらはすべて佐世保が描かれ、それ以上に狭いコミュニティ(あるいは家族)のしがらみ、圧迫感が描かれている。その点で今回の作品は異質なのだが、今までの作品が背景にあるせいか、本作における母親からの電話がリアルに立ち上がってきたのである。ナオの背後に感じられる郷里の鬱陶しさこそが、彼女の実体を示し強い印象を残した。

■三角柱、鏡、千手観音

 さて本作が過去の作品と違うもう一つの点は、舞台美術である。ホールでリアルに作り込まれた舞台から一変して、本作はコンクリ打ちっぱなしの小さなギャラリーで木箱と木枠だけの大きな三角柱を置いた舞台になった。この三角柱には下にキャスターがついていて動かせる。特に目新しいとは言えないが、木枠を動かしながら様々なものに見立てる使い方がいい。例えばクルクルと回しながら木枠に布を干すシーンでは、生きることは繰り返すことだと納得する。例えば、三角柱を動かすことが時間経過を表す。そして例えば三角柱の内と外で二人が向かい合うと、それは鏡となる。向かい合う二人が左右反対にゆっくりと同じ動きをする様は、狭い空間でのアクセントのある動きとなった。

 鏡。劇中で「他人から見ている私/私から見ている私」というセリフも登場したが、ラカンを持ち出さなくとも自己認識と鏡が切り離せないのはわかるだろう。だが鏡のモチーフが、まさに「鏡像段階」以上のものになっていない。言いかえると、鏡が自分を認識する装置としてしか機能していないのだ。前述したように「鏡としての他者」の意識があれば、この鏡の動きが互いをなぞる動きだけでなく変化できたはず。他者性が薄い脚本を飛躍した鏡の動きで補うことも可能だったと思うと、もう少し演出が冒険してもいいのではないかと感じる。

 と、ここまでは不十分に感じる部分があってもフムと納得のいく演出だったのだが、解せなかったのが開幕すぐと終幕の千手観音のポーズである。聞けば脚本では阿修羅像をイメージしていたらしいが演出が千手観音に変えたという。3人の役者が6本の腕を伸ばし千手観音が如くポーズをとるのは、形として美しい。ただ、なぜ千手観音なのか(それは阿修羅も同じ)。全てに意味を求める必要はないのかもしれないが、意味ありげなだけに疑問が残った。

写真は「Case4 〜他人と自分〜」公演より。撮影=佐々木典子(N-style) 提供=劇団HIT! STAGE 禁無断転載
写真は「Case4 〜他人と自分〜」公演より。撮影=佐々木典子(N-style) 提供=劇団HIT! STAGE 禁無断転載

■地方の劇団と自己完結

 公演が終わってその内容を一通り考え終えたとき、本作の「他者性の欠落」が地方の劇団の置かれた状況と似ているとふと思った。特に劇団の数の少ない地域で活動することは、良くも悪くも他者の介在が少ないだろう。過剰な自己(自劇団)肯定と否定の間で揺れ、自己完結する。もちろん、所在地は関係ないかもしれない。本劇団もそこから逃れようとし変化を求めている。ただ、他者の存在は演劇・劇団においても同じ意味を持つのだなと思い至った。

【筆者略歴】
柴山麻妃(しばやま・まき)
 演劇評論家。九州大学博士課程満期終了(文化人類学専攻)。1997年〜98年トヨタ財団助成でNY調査。1998年〜2011年演劇批評誌「New Theatre Review」(季刊)を発行。2006年より朝日新聞にて演劇批評を執筆中。

【上演記録】
劇団HIT! STAGE15周年記念公演「Case4 〜他人と自分〜」
佐世保公演:Blue Mile(旧エクラン東宝 ファミリーマート2F)(2013年10月3日-6日
福岡公演:紺屋2023 konya-gallery(2013年10月19日-20日)

作:森田馨由
演出:田原佐知子
キャスト:真島クミ、森カヲル、森タカコ
舞台美術:真島久美
大道具:(有)西九州舞台
制作:森馨由・森貴子

【福岡公演】
制作協力:アートマネージメントセンター福岡

料金:一般2000円(前売り1800円) 高校生以下1200円(前売り1000円)

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