◎ノイズが無いということ
田辺剛
shelfの作品のシンプルさは、削られるものはできるだけ削ってだとか、引き算の発想だとか、そういうことで成り立っているのではない。わたしとしては久しぶりのshelf作品だった『nora(s)』において、久しぶりだったからこそと言うべきか、shelfの作品の核を垣間見たように思えた。
確かに『nora(s)』では舞台装置や照明、音響などさまざまな演出効果が抑えられている。それは一見「削った」「省いた」ようである。しかし、ここでなされているのは、そうしたさまざまな方法で表現できたはずのことを、凝縮し極小化するという作業であって、なにかしら舞台における表現の要素を消失させたわけではない。そしてその行き先は、舞台にいる俳優である。
わたしが『nora(s)』を観た直後の感想は、「ノイズが無い」というものだ。それは実際の音だけではなく、舞台上の設えや照明、俳優の動線、所作など舞台の上のあらゆるものについて、演出の気遣いが及んでいるということだ。俳優の手足の先はもちろん、スカートの裾が床について流れているその流れ、あるいは襞、そうしたものまで、あるいは神経質過ぎるようにすら思えるそのノイズの無さだ。
むろん俳優は台詞を発話する。というより、つねに誰かがしゃべっている。韓国人俳優は韓国語で、それを追いかけて日本人俳優が同じ台詞を日本語で発話する。歌も歌う。だから音としてこの作品は賑やかだ。また俳優は動きもする。というより、5人の出演者はつねに舞台上にいて、発話がなく光も当たっていない俳優は移動もするだろう。動きとしてもこの作品は賑やかなのだ。いくらでも雑多な、ノイズに溢れた舞台になりそうなのだけど、そうはならなかった。
否、正確にはノイズはあった。劇中に聞こえた水の音だ。パイプを通る水の音。それをわたしははじめ音響効果かと疑ったが、けれども耳を澄ましてその音に脈絡が無いことから劇場の機構の問題だと知った。しかしその唯一のノイズが、舞台の上にノイズが無いことをも教えるのだった。それと似たようなことが俳優の演技にも言える。つまりこの作品においては、発話していて光があたっている俳優と同じかそれ以上に、発話しておらず光もあたっていない俳優の存在が考えられている。分かりやすく言えば、出番の無い俳優を舞台に残すその残し方だ。それは出番の有る無しという単純なオンオフで俳優の存在を分けていない。『nora(s)』ではどの俳優が誰を演じるかを固定していないが、俳優が誰を演じていなくても(発話していなくても)、その俳優の存在は誰かを演じている別の俳優と有機的につなげられている。そのつながりが空間をいつも満たしており、演じていない俳優の、その存在の静寂が、演じている俳優のノイズの無さを担保するのだ。空間を造形するのに大切なのはむしろ演じていない俳優ではないかとすら思う。仮に彼らが退場してしまえば、たちまち演じている俳優たちの在り様は不安定になり空間にも裂け目が生まれるのだろう。俳優が終始舞台にいる作品は珍しくないが、shelfでは空間における俳優の配置と各々のつながりに有機性が強く、独自の劇空間を作っている。
この作品のシンプルさが表現の要素の割愛ではなく、凝縮と極小化によると先にわたしは述べたが、その違いは要素の量だ。前者では量は減るが、後者では変化は無い。凝縮され極小化された表現の要素は俳優へと集約されている。そのことが俳優たちのつながりにおける有機性云々の話へとつながるのだが、あるいはそれ故に俳優を舞台から出すわけにはいかず(それではただ省いただけになる)、空間のなかにつなぎとめておかなければならないとも言える。しかしこれは決して否定さるべき事態ではなく、そもそもがshelfが目指していたものに他ならない。要は、それがうまくいっていたということなのだろうと思う。さまざまな演出効果を削るだけなら簡単だ。しかし、さまざまな演出効果を凝縮して俳優に向けて極小化することで舞台を構成するには、相当の試行錯誤がいるだろうと予想されるし、実際にshelfはそれをやってきたのだろうと思う。
一方で。この演出においては『人形の家』というドラマを物語ることは放棄される。物語らないためにこの演出方法を用いたというよりも、この演出方法では物語りようがないと言うべきだろう。なぜなら物語りをしようとすればするほどに「ノイズ」は避けられないからだ。そこで果たしてノラがしっかりと立ち現れていたかはまた別の議論となる。わたしたちは日常生活においてでもそうだが、他者を知るのにはその他者の物語に依っている。氏名、住所、職業、時には性別、今ここにいる経緯など、これらすべてを含む個人の「物語」を知ることをわたしたちは他者を知ることと同一視している。しかしその物語が断片であれば、端的に言えばその人のことは「よく分からない」。だから『人形の家』を知らない人にはこの作品で浮かび上がるノラはよくは分からない。このことは人によっては大きな問題になるだろう。
『nora(s)』を観てふと思い出したのは2009年の7月のことだ。shelfは、京都・下鴨にある世界遺産、下鴨神社の糺ノ森(ただすのもり)でこのとき小品を上演した。カフカの『掟の門』を15分ほど、ちょっとした野外公演だ。糺ノ森は、さまざまなノイズのなかにある「ノイズ無き場所」だ。そこでのshelfの作品は、そのノイズと非ノイズの同居する場所に共振するようなもので大変に見応えがあった。あれから4年以上。もちろんそのあいだにshelfはいくつもの作品を発表しているしわたしも観ているが、一貫した作品づくりの継続があったということだ。その充実した成果をわたしは『nora(s)』に見たのだと思う。
【筆者略歴】
田辺剛(たなべ・つよし)
劇作家、演出家、劇場「アトリエ劇研」ディレクター。1975年生まれ。京都市に在住。2005年に『その赤い点は血だ』で第11回劇作家協会新人戯曲賞を受賞。2006年秋より文化庁新進芸術家海外留学制度で韓国・ソウル市に一年間滞在し、劇作家として研修する。2007年に『旅行者』で第14回OMS戯曲賞佳作を受賞。
【上演記録】
shelf volume16 『nora(s)』(第20回BeSeTo演劇祭 BeSeTo+参加作品)
アトリエ春風舎(2013年10月25日-31日)
原作 / ヘンリク・イプセン、他
構成・演出 / 矢野靖人
[出演]
川渕優子 Yuko KAWABUCHI
春日茉衣 Mai KASUGA
ミウラケン Ken MIURA
日ヶ久保香 Kaoru HIGAKUBO
Cho Yu Mi (soo)
※出演を予定していた上原用子は事情により降板。
[衣装] 竹内陽子
[照明] 則武鶴代
[制作助手] アマンダ・ワデル
[提携] (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
[協力] アトリエ春風舎
[後援] ノルウェー王国大使館
[共催] 第20回BeSeTo演劇祭実行委員会
[企画・製作・主催]
[料金] 一般前売 2,800円 一般当日 3,300円 学割 2,000円