連載企画「外国人が見る小劇場」第5回

-青年団の芝居はいかがですか。

クラウトハイム 俳優さんたちがいいですね。とてもすぐれています。あと、戯曲がおもしろい。「サンパウロ市民」公演はすばらしかったですね。ただ演出はドイツでは通用しないのではないでしょうか。地味すぎます。日本の文脈ではあの演出方法は意味があると思いますけど。

-フランスで評価が高いですけど、ドイツではダメですか。

クラウトハイム ドイツの演出は派手ですから、舞台に俳優がただ座って話しているのは受けないでしょうね。フランスでは違うようですが。

演劇を支えるのは

クラウトハイム (20135~6月)ウィーン芸術週間に行く機会があって、舞台芸術形式の多様性を感じました。それは演劇なのか、というような疑問は誰も持っていません。多分、そういう面では、演劇の形式は拡大しているんです。

-日本の場合は、演劇はこういうものだという枠組みや固定観念がいまだに信じられているということですか。

クラウトハイム そうですね。固定観念が強いのではないですか。最近そのような固定観念と違った形で創作をするアーチストが、演劇界で場がないので、美術の世界で活動すると聞きました。ちょっと問題ですよね。

-ウィーン芸術週間の公演はどういうものでしたか。どんな演劇形式の公演があったのでしょう。

【写真は、ウルリケ・クラウトハイムさん。撮影=ワンダーランド 禁無断転載】
【写真は、ウルリケ・クラウトハイムさん。撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

クラウトハイム 印象に残ったのが、70年代のフェミニストと現代のフェミニストがディスカッションする作品でした。実際に編集会議を開くという仕掛けの作品で、こういうテーマだから雑誌に載せようとか、その人はダメとか、実際に活動している人たちが出演して話し合います。昔と今のフェミニストの見方、考え方の違いが分かりました。舞台が終わったあとはラウンジでお客さんが意見を述べたり交流したり出来るようになっていました。

-お客さんは入ってましたか。

クラウトハイム いっぱいでしたよ(笑)。

-そこが違うのかなあ(笑)。

クラウトハイム 意欲的な企画が持ち込まれると、日本でよく聞く言葉は、「これは難しい」(笑)。行政側も言いますし、一般のお客さんから聞くこともあります。アートはこういう役割を果たすべきだというコンセンサスがない。ハッピーになるのがアートだとみんな考えていて、それがコンセンサスなんでしょうかね。そこをどう変えられるのか。それが一番の問題だと思います。

-その問題は、ドイツで最初に仕事された小劇場での経験ともつながりませんか。演劇の枠組みを変えたりする公演の場合、演劇はこういうものだと既成の考え方を信じている人たちが違和感を述べたりするでしょう。同意や理解もあれば摩擦や反感もありますよね。日本ではそういう場合、往々にして芸術側が孤立することがあります。例えばウィーン芸術週間でそういう実験的な公演があっても、ことさら批判や非難が起きないのは、何によって支えられているからでしょうか。

クラウトハイム 根本的な問題につながると思いますね。それは、民主主義でしょうか。自分たちの社会を考える場として(演劇が)想定されてるからでしょうね。ドイツの場合、演劇がハッピーになるために存在するとは考えられていないと思います。最近、劇場も商業的なロジックに巻き込まれつつありますが、基本的に、演劇は社会が抱えている問題を取り上げるべきだとある種のコンセンサスになっているから、いろんなことが起こっても、それが受け入れられる素地が出来ていると思います。

-日本の演劇シーンは多様ですよね。大劇場でウェルメードのおもしろい芝居があれば観客はいっぱいになる。チェルフィッチュの公演にもそこそこ観客は集まります。野田秀樹さんのNODAMAP公演は連日満席が珍しくありません。どっさり渡されるチラシの束に入っている小さな劇団もそれなりに公演が開けている。こういう状況はもっと整理されて、例えば公立劇場で、選ばれた少数の舞台を見る仕組みの方がいいのでしょうか。それとも戦国時代の群雄割拠ではありませんが、それぞれが勝手に活動するのがいいのか。そういう状況が活力を生み出しているという見方もあると思いますが…。

クラウトハイム 自分たちだけでやるとしたら、アルバイトで資金を稼いで公演を実現することになりますね。そうなると、事実上、活動する人たちの年齢が制限されてしまいます。舞台に登場するのが若手ばかり。30歳を過ぎると、多くの劇団は解散せざるを得なくなる。それでは継続性がありません。自分の身を削って、犠牲を払って活動できる時期もありますが、そうではない時期もやって来ます。そういう状況が変わらなければ結局、有名芸能人を起用するスターシステムになるでしょう。私はまったくそれには興味がない(笑)。

商業的なロジックを超えて

-いま演劇を支えるための公費助成の拡充が叫ばれています。半ば同意しますが、次のような素朴な問いに答える必要があるとも思っています。というのは、音楽の世界では、ミュージシャンならアルバムやコンサートを通じて実績を重ね、経済的にも成り立つように活動します。作曲家なら歌手らに曲を提供するほか、TVコマーシャルの作曲などで活躍できるかもしない。クラシック系なら学校で教えるかたわら演奏活動するケースが多いのではないでしょうか。美術の世界もほぼ似た状況でしょうか。音楽や美術の世界にも公費助成はありますが、結局どこかで残る人、転身する人が分かれます。演劇だけがどうして、公費助成で永続的に活動が成り立つようにしなければならないのか。そう問われたときは、どう答えますか。ヨーロッパで芸術へかなりの額の公的助成があると思います。それはどういう根拠からそうなるのですか。答えは幾つもあると思いますが、ウルリケさんの意見を聞かせてください。

クラウトハイム かなり責められますね(笑)。

-ぼくも日ごろ、その種の質問に対応しているのですが、念のため(笑)。

クラウトハイム いろんな芸術ジャンルの中で、演劇はもっともコストパフォーマンスがよくないでしょう。ミュージシャンは極端に言ったら、1人でも演奏できてしまいますね。でも演劇は、舞台に登場する人が少なくても、照明や舞台装置のスタッフもたくさんいるので20人、30人になる場合も少なくありません。しかも客席数が少ないので、商業的なロジックはほぼ成り立たないのではないですか。お金を稼ぐには、一番条件が悪い(笑)。作曲家も個人で活動できます。演劇はお金はかかるけれど、得られるお金は少ない。生の活動が中心です。演劇を商業的なロジックで展開しようとすると、スターシステムになってしまいますね。

-スターシステムか、あるいはブロードウェイのような、もっと市場原理主義的な興行システムか。いずれにしろアートにとっては厳寒状態です。だから演劇でも美術でも、寄付や民間助成方式がアメリカのアートを支えているようですね。日本の場合はそういう構造的な要因がある程度理解されていないと、アートとしての演劇を公的に支援する力が広がらないのではないでしょうか。

クラウトハイム 簡単なことではないでしょうね。でも、完全に生の公演として活動するのは、音楽の一部と、あとは演劇だけでしょう。

-確かに市場原理が演劇の世界を覆うと、上演にどれだけ資金をかけられるかだけでなく、劇作の段階で既に制約を負ってしまいます。例えば登場人物を何人にするかも、経済状態で決まってくる。現実問題としてそうなるかもしれません。平田オリザさんの危惧でもあります。ヨーロッパではこういう議論はあるのでしょうか。

クラウトハイム 例えばドイツなら、どの町でも劇場が中心部にあって、市民がしょっちゅう劇場に出入りしています。自分たちの文化やアイデンティティーを確かめるためでしょうか。劇場に行ったことのない市民は少ないと思います。あと違うのは批評の存在です。日本は批評があまり活発ではありませんね。ドイツでは、ある作品の初演があれば、その町の新聞には必ず劇評が出ます。ワンダーランドのような劇評サイトも最近立ち上げられ、公演をめぐって一般のお客さんたちの間でものすごい議論が起こるんです。

 例えばある劇場の芸術監督に誰かが起用されると、それに対していろんな意見や主張が書き込まれます。演劇が社会の中に自然に組み込まれているという状況がありますね。

-ヨーロッパと日本では、演劇が市民社会に占める位置が異なるので、日本で芸術への公的助成を拡大するには、もっと越えなければならないハードルがあるかもしれませんね。

クラウトハイム 岡田利規さんのケースはその点、とても参考になるのではないでしょうか。スターシステムでもないし、考えていることが社会的だし、でも売れている! という珍しい存在でしょう。ちょっと希望が見えてきますよね。

-岡田さんはいいとして、役者はどうなんだろう? 食べていけてるのかなあ(笑)。俳優はなかなか大変でしょうね。

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