◎翻訳劇を翻訳の劇として明示する
柳沢望
ベケットの「しあわせな日々」は、「ゴドーを待ちながら」のように二幕の戯曲である。一幕がはじまると、奇妙にも腰まで地面に埋まった中年女性のモノローグが続き、ニ幕がはじまると女は首まで地面に埋まっていて、歌で終わる。ベケット自身が英語で執筆し、フランス語に翻訳した。フランス語で書いて英語に翻訳したゴドーと、あらゆる点で好対照をなしている。
たとえば、岡崎京子の作品に、寂しくなって海まで来てしまった私は陳腐なんだと少女がひとりごちる一齣がある。そこでは、未来は開かれて、動く余地はあり、自分に対する余裕がある。この余地、この距離が失われてしまえば、ひとりごとはもはや「しあわせな日々」のものに他ならない、かもしれない。
さて、話はARICAが上演した「しあわせな日々」についてだ。日本の現代演劇に知的な標準を打ち立て、批評性のある上演を続けてきたグループであるARICAがベケットを手がけるのなら見逃せない。その上演は、どのように思考を促すものであったか。初演は「あいちトリエンナーレ」に参加しているが、大雪の翌日、横浜赤レンガ倉庫での再演を見た。
*
ノウルソンによる伝記にも詳しいが、ベケットは自身の戯曲を字義通り上演するよう厳しく求めた。「しあわせな日々」を複数の女優に演じさせるような逸脱は、ベケットが健在であれば訴訟沙汰である。ARICAの上演は、おおよそ戯曲の指示に忠実だったが、だからこそ逆に戯曲から離れたと見えるところが目立ってくる。
問題は、戯曲を愚直に解釈した結果、現代の日本ではこう上演するほかないものとして現れるような必然性がそこにあるか、である。
翻訳についても同じことが言える。今回は、ARICAに参加する倉石信乃が新たに訳した上演台本が使われて、上演では原文と思われる英文が(抜粋のようではあるが)ステージの上方に表示されていた。これは、観客への便宜である以上に、新たな訳の検証をその場で求めるようだった。
新訳でひときわ目立つのは、固有名の排除だ。ウィニーとウィリーという主人公とその夫の名前は、元の戯曲で重要な役割を演じているが、呼びかけに使われる固有名のかわりにARICAの上演で残されたのは代名詞だった。
しかし、「ウィニー」を「わたし」に置き換えたところで、日本語の振る舞いとしては不自然さが残る。名前に関わる言語行為的な振る舞いのあり方は英語圏と日本語の環境でまったく異なるのだから、当然のことだ。
だからこそ、あえて固有名を排除することは、逆に、戯曲がそこから立ち上がり、演技がそこに根を張るような文化的土壌の相違を浮かび上がらせている。そして、このような置き換えは演出全般に及んでいるだろう。
英語を可能にした歴史と、日本語を可能にした歴史を交差させるような作業が翻訳劇と呼ばれる営みだ、としよう。そこで、翻訳と演技は同じ課題に直面する。この上演では、ベルの音がブザー音に置き換えられ、それが台詞では合図と名指されるなど、演出と台詞にまたがる、あえてなされた意訳のような置き換えを他にいくつも指摘することができるだろう。ここでそうした細部に立ち入る余裕はないが、中野成樹の「誤意訳」がそうだったように、これらの点に、翻訳劇という日本の演劇の土壌をなした系譜に対する批評性を見出せるはずだ。
*
この戯曲はウィニーが祈る場面から始まるが、その、英国聖公会的な祈祷文をどんなに字義通り演じようとしても、日本語での上演はちぐはぐになるだろう。祈りの実践が別の文脈をなしているのだから。ゆえに、日本語では、どんなに字義通りに演じても忠実な上演にはならない。
この祈りはARICAの上演で、なにやら土着的なものと習合した密教的祈祷のような仕方で演じられていた。この齟齬と違和から、翻訳劇を翻訳の劇として明示する批評性がすでに立ち上がっている。
安藤朋子の演技は、はじめ露悪的な誇張をもって、戯画的にこわばった風な動きをぎくしゃくと描くように始まって、狙い通りの退屈さで観客を逆撫でするある種のとげとげしさを備えていたのだが、それもまた、劇を自然ととりちがえるようなことなどおきないよう翻訳劇という営みの奇妙さをありのままにさらけ出したかのようだった。
だが、背中をそむけあいつつも決して無関係にはならないような接触を保っていた夫婦がついに見つめあい距離を縮めようする第二幕の終盤、丘の上で動けない妻へと這い上がろうとする夫に首だけの姿で語りかける妻の言葉には、芝居がかった誇張としてであれ、けばけばしさとは違う感触が、こわばりを解きほぐす呼びかけのように響いてはいなかったか。
元の戯曲で、このあとに残された最後の場面におかれた歌は、俗耳に馴染んだオペレッタのメロディだ。しかし、この上演では、なにやら耳慣れない曲が歌われていた。それは、私たちの歌ではなかったのかもしれない。あるいは来るべき人々のための歌だったのかもしれない。ぼんやりと考える空き時間は終幕後に放置されている。
*
さて、終盤のクライマックスについて語る上で無視できないのが、まず、戯曲のト書きからかけ離れた舞台美術のあり方だ。だまし絵風に、焼け草のひろがる草原に円丘をおき、目のくらみそうな光に満ちた青空を描く「月並みな背景布」を垂らすよう指示したベケットのト書きに対して、この上演では、劇場の暗闇の中に積み上げられた日用品のがらくたのような、あるいは瓦礫の山のような、しかし緻密な配列を感じさせるオブジェの堆積を置いて、女はそこに埋まっている。幕のない舞台に、開演前から展示され続けている。
これは、現代美術作家である金氏徹平の手になるもので、それ自体で作品として成立するような美質を持っている。バスドラムらしいもの、バケツのようなもの、管のようなもの。雑貨店かホームセンターの棚から崩れ落ちたようなこのオブジェの山は上演中に存在感を増して、だんだんそのディテールが際立ってくるようにも思えた。
これが一種の意訳として原文に忠実であろうとしているならば、地面ないし大地とはもはや売り場をなくした商品の堆積以外のなにものでもないということだろうか。用途を失った日用品に腰まで、首まで、埋め尽くされるような人生。地球ないし大地という言葉がどのように訳し分けられたかを検証してみるべきかもしれない。二幕では、そのオブジェの一部がいくつか少しずつ崩れるような演出もなされて、ときおり乾いた響きをあげていた。
夫が這い上がろうとする隔たりは、用をなくした品物だ。日常の秩序を失った事物が山をなし障害として現れる。それは、戯曲において、手元の袋から日用品を取り出したり仕舞うことが妻にとって祈りと同等かそれ以上に生きる上で重要なこととして現れてくることと照らしあっている。日用品は支えであるが、それはまた、拘束するものでもある。ぎらぎらと際立って収まろうとしない日用品の山が暗闇に浮かび上がり、どこまでも裾野を広げてゆくかのようだ。
*
さらに、ニ幕終盤のクライマックスは、幕間の演出と響きあっている。元の戯曲には一幕と二幕の間で幕を下ろす指示があるだけで、「ゴドー」がそうであるように、幕と幕の間にどれほどの時間が流れているのか明示されてはいない。
この上演においては、一幕と二幕の間は暗転して女優のまわりだけやわらかく照らされた舞台に紙吹雪のように赤茶けて見える小片が天井から降り注ぐ。その間に、女優の体はゆっくりと沈んで、気がつくと首まで埋まっている。
この舞台ではマイクが使われており、とりわけ夫の声は録音なのかライブなのかわからないほど加工されスピーカーから流され、たゆたうような音楽も流れさえするのだが、そうした音響が舞台を内省的なイメージの世界であるかのように見せていたのと同様に、この赤い紙吹雪は、台詞にある昇天のイメージを逆転させながら、そこに距離と猶予があることの恵みを指し示しつつあるかのようでもあり、そのあからさまな感傷性はベケットの戯曲原文が指示する干からびた舞台形象のあり方を裏切っているようにも思える。
まるで、そして時間は流れ去る、というような感傷。あたかも、それが特別な時間であるかのような演出。そのように見てしまう目が客席に集められるという、ありふれた事態。しかし、この、かけがえのない作品を月並みな芝居に置き換えてしまったようにも見える、紙吹雪のような陳腐さの活用は、ベケットがト書きで、いかにも劇場にありそうなことをあえて用いるよう指示していることと響きあっている。
一幕の後半、焼き尽くす日差しに日傘が燃え始めるという場面がある。元の戯曲で、できれば炎も出すように指示されている。そんな小道具を仕掛ける劇場的な小細工がこの悲喜劇に要請されるのは、ベケットに、劇場自体の由来と切り離せないいかがわしさへの愛好があったからではないだろうか。もちろん、そこに舞台形象の皮肉な活用によってこそ顕になる意味が読み取れるのだとしても。
幕間の紙吹雪は、月並みな書き割りをあえて用いるようなト書きのあり方を変換するように導き出された演出であるとみなすことができ、それはベケット的劇場概念への注釈として成立していたと言えるかもしれない。そして、世界的な劇場文化の多層的な交流の歴史がそこに浮かび上がる。
腰まで、首まで埋まってしまうという舞台形象に変換されているのは、ありふれた人生の姿であり、そのかけがえのなさに他ならないとすれば、幕間に紙吹雪を降らせることも、月並みさとかけがえのなさが反転しあうような元の戯曲に対して、さらに同様な変換を行うことであって、そこから浮かび上がるのは、ありふれた芝居そのものが隠し持っている置き換えがたさである、かもしれない。
*
名前を奪われたヒロインに夫を見返す少しの距離が与えられるように、演出の操作は戯曲への少しの距離を与えて、ベケットに一歩近づいた気にさせてくれる。そのとき、自分の足元に残された瓦礫のようなものをすでに美的に享受し終えていたことに気付かされる。事態に追い越されてしまうことによってのみ生きられているとでも言えるような経験が指し示される。
【筆者略歴】
柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
1972年生まれ長野県飯田市出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。現在は介護職員としてグループホームに勤務。
【上演記録】
ARICA「しあわせな日々」
TPAM ショーケース(国際舞台芸術ミーティング in 横浜2014)参加作品
横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール(2014年2月14日-16日)
原作:サミュエル・ベケット『しあわせな日々』
翻訳:倉石信乃
演出:藤田康城
美術:金氏徹平
音楽:イトケン
衣装:安東陽子
出演:安藤朋子 福岡ユタカ(YEN CHANG)
料金:前売¥4,000 当日¥4,500 学生¥2,500 (自由席)
著作権代理:株式会社フランス著作権事務所
初演:愛知芸術文化センター小ホール(2013年10月12日-14日)あいちトリエンナーレ2013参加作品
「しあわせな日々」特設ページ