板橋駿谷一人芝居「俺の歴史」

◎スピード感とリズム感のある心地よい作品
 カトリヒデトシ

【「俺の歴史」公演から。撮影=橋本倫史】
【「俺の歴史」公演から。撮影=橋本倫史】

 板橋駿谷を初めて見たのは、2009年2月の劇団掘出者第6回公演「誰」@サンモールスタジオであった( 因幡屋さんのレビュー)。「誰」は第15回劇作家協会新人戯曲賞最終候補にノミネート。その後、2010年には劇団昴(ザ・サード・ステージLABO公演)でも上演された。
 板橋とは以来のつきあいである。彼にはカトリ企画UR第2回「溶けるカフカ」と第4回「文化系体育会」とに出演してもらっている。その彼の作品を評するのは、ある種身贔屓の誹りを免れないのだが、その実力を評価し、ともに作品づくりをしたからこそ、彼の良さもダメさもよく知っている。そしてそんな関係の私でも今回の作品については書きたいと思った。

 劇団堀出者は10年に解散したものの主宰田川啓介は水素74%を立ちあげ、現在も活動を続けている。劇団員だった澤田慎司も現在FUKAI PRODUCE羽衣に所属し活躍を続けている。駆け出し劇団だったため、公演のために膨大なノルマがあり苦労はたえなかったようだ。板橋は11年よりロロのメンバーである。

 さて、今回の「俺の歴史」は板橋駿谷の初の一人芝居。快快(FAIFAI)野上絹代が演出をとり、30歳になる自分の半生を舞台化した。

 役者が自分史を舞台にかけるというのはどういうことか? 30足らずで半生記かよ、という突っ込みは別として、役者という「役」を演じる主体が、「自分を演じる」ということは可能なのか? 役者が役を演じるとき「自分自身」をどこにおいたらよいのか、は演技論の中核になる。

役への没入の度合や役に対する客観性など考えることは多い。それを飛び越え、自分が舞台の上で自分として振る舞う? 単なる自己愛に満ちた、プライドだけが鼻につく、きれいごとをみせられるのではなかろうか? という不安は当然生じる。

 半年ほど前にこの企画を本人から聞いた時、一抹の不安をというよりも、不安と心配で市松模様に心が乱れたと言った方がいい。

 しかし心配をよい意味で裏切る作品となった。

80分間走り抜ける舞台は、爽快なもので、板橋自身のもう一つの活動の柱である、RAPを踏みつつ、筋肉美をさらしつつ板橋の人間的魅力が横溢した、スピード感とリズム感のある心地よい作品になった。(この後、便宜的に板橋本人を「板橋」と、作品上での彼を「イタバシ」と表記し区別をつける)

 板橋はなかなかに困ったやつである。小劇場界の若手の中でも最も暑苦しい男だと思っている。ことあるごとに鍛えあげた筋肉を自慢するために裸になる。ロロに最後に加入した割には一番ブイブイいわせている。その面倒くささは、苦手な人には近づきたくない要素満載だと思われる。実際の本人の素顔はサービス精神満載かつ気を配る人柄で人に優しく、当然のごとく彼の周りには人が集まる。多くの役者が彼を慕っている。しかしその実体は所属のロロ主宰の三浦直之が私にいったことば「板橋さんは乙女のハートを筋肉で覆い隠していますから」ということばに表れているように外面とは全く別の繊細な心を内包している。

 作品の中にもこんなセリフがあった。「朝起きて。日課の筋トレする前に、プロテイン飲んで腹下す。 筋肉キャラでも虚弱体質」。筋肉増強のためにタンパク質を補給しているのに、そのプロテイン自体が栄養の吸収を妨げている本末転倒だ。その効率の悪さが何とも彼らしい。

 役者はだれでも売れたくてしかたない。彼の一人前になりたい意識も人一倍強いのだが現実そう簡単にはいかない。また、役者は例外をのぞいて人間的に「だめ」であることがままあるが、まさに彼はそのアンビバレンツを体現している。凡庸ないいまわしになるが学校をでても就職もせず、バイト暮らし、いつまでたっても自立できない。

けれど演じること舞台で輝くことに魅せられてしまった役者の宿業。抜けることはできないのである。自分の日常からは乖離したい、演じている瞬間の充実感、十全感の瞬間だけを生きがいにしたと思うのである。

 うまくいかねえ現実に 毎日真剣に 向き合って電気消して おやすみ
 来年は売れるって 明日も知らずに 心配ばっかかけたね 母ちゃんごめん

 そういったイタバシの半生として作品は構成される。売れるまでと支えてくれた母が病に倒れた前で何もできない、立ちすくむ無力。それは実生活の板橋自身の無力とかさなる。

 役者としては非凡であっても生活人として無能なイタバシを平凡に生きる観客が見て「あはは」と笑うのは健全なことだが、それだからこの舞台がおもしろいわけではない。

【写真は、「俺の歴史」公演から。撮影=橋本倫史 禁無断転載】

 上演の動機は最初に語られる。

 なんでやろうかって思ったかっていうと、母ちゃんが病気だったからで、癌なんですけど、(略)俺が自分の歴史を面白く生き生きやってるところを田舎で、福島なんですけど、福島で闘病している母ちゃんのためにUSTとかで見せて、元気になってもらいたいって思ったのがきっかけです。

 優しい気持ちから出発しているのである。しかし現実は

 この「俺の歴史」っていう芝居をいちばん見せたいと思ってた母ちゃんは死んでしまって。「俺の歴史」っていうこの芝居はいき場所を失ってしまいました

 このあたりで、舞台作品にとって役者本人の人間性はどのように重要であるのか、ないのか、などとかんがえながら見るようになっていった。

 板橋の亡母への感謝と鎮魂、慰撫が舞台の中心になって進んでいく。それはとてもリリカルだった。ストレートでやや暑苦しい題材を、演出の快快野上は実に手際よく、過剰を排して、板橋の魅力を引き出していった。野上はなかなかにマッチョな性質を持っている、フェミニンな板橋との配合はある種のトランスジェンダーとしてよく機能した。愛情を率直にストレートに歌い上げるようなことは許さない。イタバシのダメさをこれでもかと描き、甘い感情の吐露ではなく、過剰に感情を先行させることをていねいに排除していく。板橋も演出のルールを守り、感情を思うままにはき出すことはしない。それは板橋も野上も舞台が演者と黒子と観客との相剋と相互作用の産物であり、そのことによってしか舞台作品が生まれないことを今までのキャリアからしっかりつかみ取っているからだろう。だから板橋を晒さなければならないところではこんな暴露まである。野上自身が演出席から読み上げるシーン。

 ところで、イタバティが前に話してくれたことだけど、お母さんからの仕送りのお金を飲み代や風俗でぼったくられて…
イタバシ  もうやめて! やめたげて! なんでこんなこと…ひどい…恥ずかしいじゃない…

 容赦ない。また、本人にも忸怩たる思いがあるようでその場面に続くところでは

イタバシ  俺が企画して、俺の人生を俺が演じて俺の好きな人たちに金とって見せるってなんなんだよ…

 かっこつき笑いであるようなところだ。赤裸々なのである。同時に先に書いたこと、役者が自分を演じることは可能なのかという問いの端緒があらわれている。

 作品は板橋が人生30年間に出会った人々への感謝を綴っていくことが主軸になる。
 全くの個人の話でありながら、そこには役者の孤独、一生かけてやりたいことには出会えたもののそう簡単には大成できないという、若者の持つ普遍が、あらわれていた。

 最後には個人史だが同時に「生への感謝」という志の高さにあふれた作品へと昇華していく。その様子をみていきたい。

 また、この作品はライブパフォーマンスだからこそベタにならず見せることのできたということがある。逆説的ではあるが、「実演」だからこそ単なる自分大好き、自分自慢という落とし穴に落ちずにすんだ。あられもない恥ずかしい自分を晒し尽くした上で、役者が自分を演じるという倒錯に意味と強度を持たせることができた。役者の人生を作品化することが可能になったのは、その引きぐあいの良さが大きい。

 前提として現代演劇にはリアリズムを原理としているということがある。写実こそが現代演劇の大きな原理である。原理は制作の最初の推進力になる。それはリアリティを立ち現せるのが舞台である。という理念に基づくものである。そしてその理念は最終的な目標として、現実を超えていくような「リアル」を理想とする。日々凡庸にいきている生を震撼させるリアル。これこそが到達点になる。現代演劇の理想は生の真実をあらわすこと。人がどこからきてどこへいくのか、という永遠の問いの答えを感知させることにある。

 まず原理はスピリットとして舞台の隅々を構成していく。けれどもリアリズムだけでは「ほんとうらしさ」を現せても、最終目標である「ほんとう」にはたどりつかない。凡庸な日常を活写できたとしてもそこから真理は現れない。原理=スピリットをどれだけ追及しても理念=ソウルは現れてこないのである。原理を駆使し理念の筋道をつける。その二つを十全に実現したあとに、理想=リアルを追い求めることが可能になるのである。この作品はスピリットには甘いところがあるが、ソウルの熱さが作品を壊さないのである。
 それはこの作品が「ファクション」であったことが大きい。

 「ファクション」とはfactとfictionの合成語で「事実と虚構とを織り交ぜた作品。ノンフィクションとフィクションの中間のもの」と「デジタル大辞泉」にある。その語釈はノンフィクションというジャンルを「事実」を映し出したものと考える点で間違っている。ドキュメンタリーは演出手法の一つであり、事実が写っていると早とちりしてはならない。また、フィクションは人の感情を揺さぶり、感動させることも可能だが、その本質は観劇後に余韻が残り、観客に様々な感想を抱かせられればよい作品となる。

 「俺の歴史」は板橋の個人史をイタバシによって語らせることにより、すぐれた「ファクション」になっていた。30までの人生という現実を写しつつも、それをイタバシに仮託し、フィクションに仕立てた。この手法こそがこの作品をフィクションでもドキュメンタリーでもない、むしろ両者の強度を兼ね備えた作品になった。ここでは日常を転覆転倒させる機運がえられたのである。

 さらに、この作品の成功のキモには二つの仕掛けがあったことが大きい。一つ目は「神話」を使ったことである。
 イタバシの日常が語られる場面で台本を自分の部屋で覚える場面がある。

 我が名は駿谷神。このパンドラの箱を開けようとした時…

と始まるのだが、本筋と関係ないように見えるが、この部分は実は大事だ。

 神話を私はつぎのように考えている。多くの他のエピソードや伝説の積み重なりによって造形された神という純粋な存在が、時を経てより明確な性格、役割を持つようになる。その神々たちが極めて人間的な対立やら葛藤やらを引き起こしていく。つまり神は行動し、行動をやめない。「する」ことを描くのが神話である。神は「する」存在だ。

 一方わたしたちは日頃行動しているようだが、実際は行動した後生じた結果に左右されて生きている。

 神がする存在であるのに対してわたしたちは「なった」状態の中で生かされている存在である。だから、われわれは純粋な行動の結晶である神話に感動する。

 まず、イタバシにとっての歴代の「神」が登場する。中学の時いじめから救ってくれた金子。アイデンティティ獲得の時期の過剰な自意識から起こった妙な癖をやめさせてくれたクマ。そして大学で演劇をはじめたものの最初の劇団でうまく行かなかったところにであったロロ三浦の三人である。三人との明朗なエピソードはイタバシの人生に多大なる恩恵をもたらしてくれた。神がしたことがイタバシの人生を導き、今日を築いてくれたのだ。神は「する」存在なのだ。

 二つめの仕掛けとして家族の記憶があげられる。
 運動会で食べたなめこ汁というソウルフードの思い出が現れる。セリフによれば「なめこの醤油煮にお湯を入れただけ」のもので現在では再現しても、とても美味しいものではない。それは運動会で家族そろって食べたという家族の記憶を体現した食べものであるから忘れられない美味しさであったのだという気づきが現れる。

 真の「家族の食卓」には常識的に必須と思われがちな母の手作りはなくてもよい。それは小津安二郎「東京物語」(1953年、松竹)を見ればわかることだ。原節子は一人暮らしの団地に訪れた舅姑に店屋物のカツ丼をとる。実子たちにすげなくされて所在なくなった老親は未亡人である嫁のとったカツ丼によって東京で初めて心の籠もった食卓を囲むのである。「なめこ汁」はそれと同じだ。

 また最愛の母との思い出では、母が好きだった、フラダンスが語られる。背後には実際の母が踊る映像が映しだされ、イタバシはその母の姿をバックに同じ衣装を身にまといフラを踊る。

 人間にとって被服をまとい身を飾ることはきわめて日常的なことだが、同時に服や装身具は自己顕示でもある。また服や装身具はその装いを通して社会への適応をうながし、社会参加を体現する。「まとう」ことは、気分を高め、満足感を得、その結果心の安らぎを得るものである。それは次の段階では自分らしさを表現するだけでなく、他者との関係を深めるものでもある。ムームーをきて満面の笑顔で映る画面の中の母はまさに地域の中できちんと生きてきた婦人の証しが感じられる。だからイタバシが母の衣装をきて、母のダンスを踊るという行為はおふざけではなく、母への強い思慕と賛同の意志表明となっている。母の人生への慰撫を舞によって鎮魂しているのである。「まとう」ことは同化でもあるのだ。

 それは自分自身を離れて、歴史という大いなるものと接続し同化しようとする意志である。母との共演という形は強い創作性があると同時に、この舞により母に見せて元気を出してもらおうとしたこの作品の初発の動機を超えた、一つ階梯を上がった鎮魂に昇華した。

【写真は、「俺の歴史」公演から。撮影=橋本倫史 禁無断転載】

 家族の歴史は続く。バブル後破産した父は借金整理のために離婚し一人暮らしをはじめ、推理作家を目指す。激変した環境は懐かしいふるさとの海の姿にも感じ取れる。母の死後、父と二人しみじみとその海を見るシーンが最後にあり、そこでラップでうたいあげられるのは

 あの親父が泣きながら言ってたよ。そこにいると思えばいるって
 想像が次元超えてくるんだって じゃあ今ここにいてくれてんの?
 見てくれてんの? マジ最高じゃん!! じゃあ、楽勝じゃん!!

 肉親や近親者は亡くなっていき、原風景は変容していく。その中でふるさとという場所で愛情にあふれた人たちに囲まれ育まれていたことをイタバシは「自覚」していく。

 イタバシはこの作品を母に見せられなかった後悔から脱し、大きな時間の流れ、途切れることのない人とのつながりを「実感」していく。愛情をもってはぐくんでくれた存在からもらったものの「自覚」と「実感」が、これからのイタバシの原動力になるということを確信させていくのである。

 作品の最後でその受け取ったもの、そしてそれを次に手渡そうとする意志がエールとして現れる。それは上京するイタバシに捧げられた母のエールと二重写しになって心に響いていく

 フレーフレー俺は元気だぜ フレーフレー俺は幸せだぜ
 フレーフレー親父小説書け フレーフレーばあちゃん長生きして
 フレーフレーみんな元気で フレーフレーみんな楽しんでくれ
 フレーフレー世界よ元気で フレーフレーフレーフレー

 家族に友人に生かされて、ここにあることの自覚と決意は強いものだった。
 最後にイタバシから板橋にもどり、観客一人一人との握手をする。彼はいまここでしっかりと踏ん張っていくことを決意し、これからを見据えて行く意思表明をした。

【筆者略歴】
カトリヒデトシ(香取英敏)
 1960年、神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、公立高校に勤務し、現在は家業を継ぎ独立。2011年より「カトリ企画」を主宰し、プロデュース公演を行う。
ワンダーランド寄稿一覧: http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katori-hidetoshi/

【上演記録】
板橋駿谷一人芝居「俺の歴史
浮間ベース(2014年2月8日-16日)
(記録映像:http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=ZAWDnxVfEx0
出演:板橋駿谷(ロロ)
構成/演出:野上絹代(FAIFAI)

舞台監督:鳥養友美/音響:池田野歩
照明協力:中山奈美/衣装協力:藤谷香子(FAIFAI)
音楽:渡邊智昭/制作+デザイン:加藤明日香
マスコットボーイ:大石貴也/マスコットガール:野上三月
協力:JUNGLE/ FAIFAI/ロロ/本郷剛史/浮間ベース
料金:一般 2,000円 当日券  2,500円 高校生 1,000円(メールにて受付。公演当日要身分証)※全席自由席

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