クロード・レジ演出、SPAC『室内』アヴィニョン公演

◎喧噪のなかの静寂
 片山幹生

 『室内』の公演会場は、城壁で囲まれたアヴィニョンの中心街からバスに乗って25分ほど行ったところにあった。フェスティヴァルで活気づくアヴィニョン市壁内の狂騒とは無縁の静かでがらんとした場所だ。モンファヴェという郊外の小さな町にあるそのホールは、日本の地方都市にでもありそうな無機的で特徴の乏しい多目的ホールだった。クロード・レジが2009年のアヴィニョン演劇祭で『彼方へ 海の讃歌』を上演したときに使ったのもこの会場だった。

 

【公演会場のモンファヴェ・ホール(SPACブログより)  写真撮影:米山淳一】
【公演会場のモンファヴェ・ホール(SPACブログより)  写真撮影:米山淳一】

 2014年7月4日から27日まで開催された第68回アヴィニョン演劇祭には、SPAC(静岡県舞台芸術センター)が制作する二作品が公式プログラム(《イン》と呼ばれる)として招聘された。SPACの芸術総監督である宮城聰演出による『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険』とフランス演劇界の巨匠、クロード・レジ演出の『室内』(メーテルリンク作)である。祝祭的な『マハーバーラタ』と瞑想的な『室内』という対照的な雰囲気のこの二作の公演は、フランスの多くのメディアで取り上げられ、『ル・モンド』紙の演劇祭の総括的記事「アヴィニョン演劇祭:心に残る10本の舞台のなかでも挙げられるなど高い評価を得た。『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険』のアヴィニョン公演を巡るフランスのメディアの反応とこの公演の意義については、あらためて別稿で詳しく取り上げる。本稿では『室内』について、フランスのメディアに掲載された劇評を紹介しつつ、筆者が7月26日(土)に見た公演についての報告を行いたい。

メーテルリンクとクロード・レジの美学

 モーリス・メーテルリンク(1862-1949)は、ベルギーのフランドル地方の都市、ガン(ヘント)で生まれた。ガンはフラマン語(オランダ語)圏だが、当時のフランドル地方のブルジョワ層はフランス風の教育を受けており、メーテルリンクの作品はフランス語で書かれている。現在の日本ではメーテルリンクは童話的な寓意劇『青い鳥』(1908)の作者として知られているが、1890年代に書かれた初期作品群では、運命に翻弄される人間の悲劇的状況が内省的で神秘的な雰囲気の中で描かれており、文学史のなかではメーテルリンクは象徴主義の劇作家として位置づけられている。ドビュッシーのオペラによって知られている『ペレアスとメリザンド』(1892)が書かれたのはこの時期である。

 『室内』は、『ペレアスとメリザンド』の二年後の1894年に『アラジンとバロミイド』、『タンタジールの死』とともに発表された。『アラジンとバロミイド』、『タンタジールの死』、『室内』の三作に、メーテルリンクは「マリオネットのための小さなドラマ」という副題を与えている。この副題は糸で操られるマリオネットのように運命に繰られて動く登場人物を想起させる。またこの副題はリアリズムの様式によって作品が再現されることを、作者が拒んでいることを示している。

 この《マリオネット三部作》の上演機会はフランス語圏でも稀だが、レジは1985年にフランス人の俳優たちとともに『室内』を上演している。また1997年には『タンタジールの死』の演出も行っている。日本人俳優との『室内』の初演は、昨年のふじのくに⇄せかい演劇祭(2013年6月)だった。日本平の舞台芸術公園にある楕円堂で四回の公演が行われた。この初演を筆者も見ている。日本人キャストによる『室内』は今年の春からヨーロッパ各地を廻っている。この5月にウィーンとブリュッセルで開催されたフェスティヴァルで合計10回の公演が行われた。アヴィニョン演劇祭では7/15から演劇祭千秋楽の7/27までに11公演が行われた。この後、『室内』はフェスティヴァル・ドートンヌ・ア・パリ(秋のパリ芸術祭)に招聘されており、パリ日本文化会館で19公演(9/9から9/27まで)が予定されている。

 初期のメーテルリンクの戯曲はすべて死が主題となっており、その表現は沈黙を基盤としている。現実を模倣するという写実的な演劇表現は求められていない。登場人物たちは、個性を剥奪された抽象的な概念に近い存在だ。死という人間にとって不可避の不条理は、シンプルで断片的な台詞と緩慢な動き、そして沈黙を通して、観客に象徴的に提示される。作品を通して観客は死と静かに向き合い、内面化することを求められる。このメーテルリンクの静的演劇の美学を、クロード・レジの演出は忠実に、そして先鋭的なかたちで具現化する。

 『室内』は2010年にベルギーの出版社から刊行されたメーテルランク全集で20ページほどしかないごく短い戯曲である(Œuvres. Maurice Maeterlinck, éd. Paul Gorceix, Bruxelle, Versaille, 2010, t.II, p. 523-543)。この作品をクロード・レジは一時間半かけて上演する。沈黙が支配する暗がりのなかでゆっくりと展開するレジの『室内』は、荘厳な宗教的儀式のような緊張感が漂う。
 待合室のホールから客席に入ると中は既に薄暗く、舞台と客席の境界はあいまいだ。
 『室内』の冒頭は非常に印象的だ。その薄暗がりのなかに女性と子供が下手からゆっくりと現れる。舞台の中央まで来ると子供は床に横たわり、そのままそこで眠ってしまう。その子供は芝居が終わるまでずっとそこで眠っている。舞台は奥側がごく控え目な照明でぼんやり弓形に浮かび上がっているが、舞台装置は何も置かれていない。

【ふじのくに⇄せかい演劇祭2013より。写真撮影:三浦興一】
【ふじのくに⇄せかい演劇祭2013より。写真撮影:三浦興一】

 手前側の暗い影になっているところに老人とよそ者が現れ、抑揚のない調子でとつとつと状況を語る。彼らの声は衰弱した重病人の声のように弱々しい。通りがかりのよそ者が、川で死んでいる若い娘を発見した。その娘の家族と付き合いがある老人とともに、よそ者は娘の家のそばまでやって来た。娘が死んでしまったことを家族に伝えなくてはならない。しかしどうやってそれを伝えたものか。家のそばに到着し、窓越しに夕べの団欒を過ごす家族の様子を見て、二人はこの痛ましい知らせを伝えることをためらう。舞台奥では眠っている小さな子供を中心に、父、母、二人の娘が無言でゆっくりと動き回っている。その動きは家族の団欒を写実的に表現するものではなく、不確かな前兆を感じ取り、得体のしれない不安に怯える亡霊のように思える。室内にいる家族たちは一言も話さない。

 

【ふじのくに⇄せかい演劇祭2013より。写真撮影:三浦興一】
【ふじのくに⇄せかい演劇祭2013より。写真撮影:三浦興一】

 老人には二人の孫娘がいる。この二人の孫娘だけがこの戯曲のなかで固有名詞を持っている。彼女たちは村人たちが娘の遺体を担いで家に向かっていることを老人に伝えにやって来る。まずマリーが現れる。マリーはずっと中央で眠っている子供の前方に立つ。この二人を結ぶ中心線の周囲で、他の登場人物たちがシンメトリーを形成する。曖昧模糊としていた空間に秩序が立ち現れたとき、室温が少し下がったような気がした。マリーがゆっくりと腰を下ろす。その過程の動きとかたちが美しい。彼女が体をゆがめ、重心を下げていくにしたがって、空間の重力が増していくような錯覚を受ける。もう一人の娘、マルトがやって来る。マルトは村人たちがすぐそこまで来たことを伝え、老人がまだ娘の死を家族に伝えていないことをなじる。マルトが現れると、マリーの登場によって形成された空間秩序に動きが生じる。眠ったままの子供を中心にまるで天体が動くように、人物の動きによって舞台上に幾何学文様が描き出される。それは詩の朗読と音楽に合わせ踊られたという一七世紀の宮廷バレエの象徴性を連想させた。ゆっくりとじりじりと推移してきた物語は、マルトの登場とともにクライマックスに向けて徐々に加速していく。

【ふじのくに⇄せかい演劇祭2013より。写真撮影:三浦興一】
【ふじのくに⇄せかい演劇祭2013より。写真撮影:三浦興一】

 ようやく老人が意を決して室内に入り、娘の死を家族に伝える。観客は、舞台の手前側にいるよそ者、老人の二人の娘、そして村人たちとともに、その様子をじっと見守る。そこには残酷で悲壮な瞬間を待ち受けるいくぶんかの期待のような感情も含まれていたかもしれない。老人が悲報を伝え終わると、家族はさっと舞台上から消えてしまう。それまで舞台上には緩慢な動きしかなかったため、告知が行われたあとの家族の動きの素早さは鮮烈だ。子供ひとりが舞台中央に残される。子供はこの事態の急変に動揺した様子も無く、横たわったまま動かない。
 「子供は目を覚まさなかった」。
 ずっと眠ったままの子供の平穏には、われわれが死に対して抱くあらゆる感情が託されているように思える。悲しみ、絶望、怖れ、希望、そして願い。死者と生者をつなぐ煉獄のような世界のなかで、観客は静かな内省へと導かれる。

語られることと語られないこと

 フランス語で書かれているメーテルリンクのテクストが、大半の観客にとっては未知の言語である日本語で読まれることについて、フランスの観客たちはどのような反応を示しただろうか? もともと簡潔で素朴な原作の台詞を、レジの上演台本ではさらに刈り込んでいる。俳優たちは感情を殺して、とつとつと不器用に、断片的な台詞をつぶやく。日本語の台詞はフランス人の観客たちには神秘的な呪文のように聞こえたに違いない。字幕の処理にも独特の工夫が見られた。字幕として表示されるテクストは、俳優たちが話した台詞のなかでもその場の核となるいくつかの語だけなのだ。つまり台詞の大半は訳されない。削ぎ落とされた最小限のことばが、舞台中央の壁の下の部分に数秒かけてじわじわとゆっくり浮き上がっていく。そしてまた数秒かけてゆっくりと闇のなかに消えて行く。字幕表示のフェードインのタイミングとそれがフェードアウトして消えていくタイミングの精緻さは特筆すべきものだった。『室内』公演では、字幕はセリフの意味を説明するものではなく、最小限の合図を観客に提示することで観客を作品の内部に引き込むような仕掛として機能している。ここまで繊細で芸術的な字幕処理の例を私は他に知らない。

 クロード・レジは、フランスの国営ラジオ局、フランス・キュルチュールのインタビューのなかで「字幕で完全な翻訳を与えてしまうと、観客はそれを読んで理解しようとする。それは避けたかった。筋を追うのに最低限必要な目印となるような表現だけを与え、観客を沈黙のなかに浸らせたかった。知的な理解を経ずに、感覚的に理解すると言う体験を与えたかった」と述べている。サラ・ケイン作『4.48サイコシス』(イザベル・ユペール主演)をニューヨークでフランス語上演したときにも同じような字幕処理が行われ、批評家たちはおおいに困惑したようだ(Madinin’Artでのインタビュー記事による)。

 フランスの批評ではおおむねレジのテクスト処理に理解を示していたが、身体表現のみならず言語表現までも徹底的に解体し、抽象化する方法に不満を訴える評もあった。ミニマルな字幕ゆえに、ことばと沈黙がいったい何を伝えようとしているのか、観客はその都度、立ち止まって考えなくてはならない。劇の進行は緩慢であり、言葉の情報量は厳しく制限されているため、観客には思考のための時間は十分に与えられている。しかしこれは一部の観客にとってかなりストレスフルな作業であることは想像に難くない。批評サイト《一階椅子席》のコメントは、こうした観客の不満を代弁したものだと言えるだろう。「字幕はあったとはいえ、われわれには縁遠い日本語という言語をレジが選択したのは残念なことだった。われわれに理解できない言語ゆえに、実行された作業の重要性について理解することが難しかった」。もっともこのサイトは作品全体については最高の評価を与えている。

 日本人俳優たちがメーテルリンクの作品を演じることについては違和感なく受け入れられたようだ。リアリズムを排した作品のため、登場人物はもとよりアレゴリーの次元まで具体性を喪失している。俳優はある役柄を演じるというより、その声と動き、存在自体によって、作品のなかで暗示される様々な感情や思いを象徴的に伝える媒介であり、俳優が日本人であることは障害とはならない。むしろ『リベラシオン』紙の評にあるように、「死」という主題と厳粛な雰囲気は能、《マリオネットのためのドラマ》という副題は文楽と結び付き、メーテルリンク、クロード・レジ、日本人俳優の組合せは、美学的必然性があるものとして受けとめられたようだ。日本人俳優はレジの深遠な世界観を見事に具現したとしていくつかのメディアの評では称賛されていた(「日本人の俳優たちは、クロード・レジによって規定されたこの世界の中で、あらゆる永遠性について、あたかも体験しているかのようだった」『ル・モンド』紙、「俳優たちは、クロード・レジによって規定されたこの世界の中で、ずっと前から生きていたようだった。ゆっくりとした動き、穏やかな台詞の語り口、人間と時・空間の融合。死と生を結合させる光のなかで、あらゆるものが、同じ動きのなかで、同じ安らぎに向かって、調和を形作っていた」『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』、「レジは時間を引き留める。極度に緩慢な移動のなかで、俳優たちは自分たちの動きと声を、指定されたとおりに制御していた」『テアトル・マガジン』)。

フランスのメディアの評価と観客の反応

 世界最大級の規模の演劇祭であるアヴィニョン演劇祭の正式招聘作品への注目は高い。筆者がインターネット上で検索しただけでも『室内』アヴィニョン公演の劇評は18本あったが、これは網羅的な数だとはいえない。この18本の中には、『ル・モンド』紙、『リベラシオン』紙、『リュマニテ』紙、『ラ・クロワ』紙といった全国紙に掲載された劇評も含まれている(なお『ル・モンド』紙、『リベラシオン』紙、『リュマニテ』紙の『室内』評は、拙訳がSPACのブログに掲載されている)。ネット上に見つけたこれらの劇評には一通り目を通したが、作品の精神性の深いところまで読み取った優れた劇評が多かった。評はおおむね好評だ(「アヴィニョン演劇祭において最も成功した作品の一つ」『レゼコー』紙、「レジによる暗闇のレッスンがもたらす恍惚」『リュマニテ』紙、「驚異的な経験が『室内』の観客を待ちうけている」『ル・モンド』紙)。『ル・モンド』紙のブリジット・サリーノは、マノエル・ド・オリヴェイラ監督を引き合いに出し演劇界の91歳の巨匠を讃え、その光と闇の表現をジェームズ・タレルのインスタレーションに例えて説明する。『リュマニテ』紙のジャン=ピエール・レオナルディーニは、レジの闇の深さをピエール・スーラージュの絵画と比較した。

 観客の実際の反応はどのようなものだったか。7/26(土)の公演を見る前に私は何本かの劇評記事を既に読んでいた。『レゼコー』紙の評には以下のような記述があった。

アヴィニョンの外れにあるモンファヴェの劇場の入口で入場を待つ観客たちに、女性のアナウンスがクロード・レジからの「指令」を伝えた。携帯電話の電源を切るという通常のメッセージに加え、扉から劇場に入ったら、たとえ開演前であっても静かにしなくてはならない、と告げられた。ほとんどの観客はこの要求に従う。ごく数名の反抗的な観客も最後にはお喋りをやめた。これは観劇の準備作業なのか? いやむしろこれは演出家が、観客たちがそれぞれ抱えているものを放棄することを呼びかけているのだ。レジの作品創造のなかでは、観客と俳優たちのあいだに一つの共感の共同体が成立している。拒否反応を示す観客もいるかもしれない。しかし旅に身を委ねることに決めた人にとっては、立ち寄る価値がある場所だ。

 『リベラシオン』紙の評では次のように書かれていた。

ブリュッセルの上演では、客席に入る前、待合室にいる段階で、観客は沈黙を要求された。熱心な観客たちによってこれとはまた別の指令も伝達された。劇場内の薄暗がりのなかに座った後は、お尻をもぞもぞさせてはならないし、咳払いも禁止。「シーッ」といらだった調子で注意されるなんてもってのほか。レジの作品の観客には、こうした注意が行き過ぎだと思うものは誰もいないだろう。

 2013年に私が見た楕円堂の公演もそうだった。開場は開演の5分前。入場するとすでに会場は暗くなっていた。座席にたどり着けるよう、辛うじて足元だけがかすかに明るい。楕円堂の空間は、開演前から厳粛な空気に包まれていた。われわれは座席に移動する足音にさえ神経を配り、音を立てないようひっそりと席につき、自分の心臓の鼓動が聞こえるのではないかと思うような静寂のなかで開演を待ったのだった。私はアヴィニョンの公演でも、楕円堂の公演のときのような静寂と緊張感が成立しているものだと思い込んで公演会場のモンファヴェ・ホールに向かった。

 モンファヴェ・ホールは、収容人数は200名ほどの多目的施設だ。座席は自由席だったので開場前に行列を作った。行列を作っている時点ではまだがやがやした感じである。失業保険制度改正に反対する舞台関係の有期契約労働者(「アンテルミタン」と呼ばれる)たちの声明文のアナウンスがあった。宮城聰さんの声による日本語版の声明文もアナウンスされた。アンテルミタンたちは、公演キャンセルも状況次第では厭わないという姿勢で労働運動をやっているので、このアナウンスは仕方ない。しかしアナウンスが終わってもあいからず静けさは戻って来ない。「しーっ、しーっ」という沈黙を促す声も方々から聞こえたけれど、あまり効果はないようだ。それでも開場し列が動き出すと、話し声は聞こえなくなった。公演会場内に入る。フランス人の観客は、一応、大人しくはしているが、楕円堂公演のあの緊張感からはほど遠い。開演前のわさわさした落ち着きのない雰囲気は濃厚だ。芝居が始まった後も、咳をする人はいるし、もそもそ動く人もいるし、椅子をガタゴトさせる人もいる。携帯電話を上演中にのぞき込む人さえいる。

 集中力がかなり削がれたが「うーん、でもこれがフランスだ。仕方ない」と思って見ていた。クロード・レジの公演では公演中に出て行く人もかなりいると聞いていたので、それを思うとまだ許容範囲だ。しかしどんなに勘の鈍い人間でもあと少しで終幕になることが明瞭なクライマックスの場面で、わざわざ音を立てて席を立ち、足音を鳴らして階段状の座席を降り、舞台前の通路を、身をかがめることもせず堂々と下手側から上手側へと横断して退場した男性老人がいたのには驚いた。こんなことをされたら芝居は台無しである。その老人が下手側の階段を下りるときに、待機していたスタッフが小声と動作で「ムッシュー」と呼びかけ、下手側の出口から退場するように誘導したのを、私は確認した。にも関わらず、その老人はそれを無視してわざと舞台の前を横切ったのだ。「俺はこんな芝居は我慢できない。大嫌いだ」と主張したかったのだろう。ひどい妨害行為だが、衆人環視のなかあそこまでやるとなるとたいしたものだとも思う。フランスらしいものを見ることができたとも思った。

 終演後のカーテンコールは熱烈な拍手があった一方で、カーテンコールの最中にさっさと退場していく観客も五分の一ぐらいいた。彼らも我慢できなかった観客だろう。私が読んだ劇評のなかでは、文化情報誌『テレラマ』誌だけが『室内』を酷評していた。記事のタイトルは「クロード・レジは自分の『室内』に閉じこもったまま」。「もったいぶった自己陶酔的な方法は傲慢で、寛容さに乏しい。観客を開演前に15分も立たせたままで、沈黙を強いる横柄さに文句も言えない。一人ずつ順序を守って入場なんて、今どきミサに出席するときにさえやらないのに。気取りすぎの舞台美術と照明には何の新鮮さも感じないが、それを称賛しなければならないのか?」とレジの作品鑑賞の「作法」の厳しさに異議申立をしていたが、これはあの「儀式」を受け入れることのできなかった1/5ほどの観客の感想を代弁したものであると考えてよいだろう。

 楕円堂での公演が80名ほどの観客であり、モンファヴェ・ホールが200名ほどの観客であったことも考慮する必要があるだろうが、民族性の問題もあるだろう。一般的に日本人よりはるかにおしゃべりなフランス人の観客は、あの静寂に耐えることができない者の割合が日本人より高いのだと思う。
 クロード・レジは毎回、俳優やスタッフにその日の公演についての短い講評を述べるそうだ。筆者が見た7/26(土)の公演の講評でレジは、「死を受けとめることに耐えられず、最後まで劇場にとまることができない人が、今日もひとりいました」と述べたそうだ。

 観客の質以外にも、楕円堂での公演と比べて気になったのは照明の明るさと声の大きさである。アヴィニョン公演のほうが楕円堂での公演より照明が明るいし、大きな声で発声しているように感じられた。楕円堂の公演では、とりわけ冒頭の部分では目を凝らしてじっと見ないとわからないくらい母と子の姿は、ぼんやりしたものだった。自分がメガネをかけ忘れたのかと思ったほどである。俳優の声ももっとぼそぼそとして聞き取りにくかった。後で出演俳優に聞いてみたところ、会場の大きさなどに合わせて照明の明るさや声の大きさを調節しているとの話だった。

 上演を重ねているため、作品解釈や表現面では2013年の楕円堂での公演より深まっている部分は当然あるだろう。しかしトータルで見れば、公演としての完成度は、静岡の楕円堂のほうがはるかに高い。これはパフォーマーや演出の問題ではなく、観客を含む上演環境の問題だ。あの楕円堂というのは『室内』の上演にとっては稀有の空間であり、作品の崇高さはあの独特の空間のなかでさらに高められていたのである。あの空間では、演じると者と観客とのあいだに、『室内』を味わうのにふさわしい共感の共同体が成立していた。
 高い関心を集めていたにも関わらず、2013年の楕円堂公演は四公演のみであり、わずか300名ほどの観客しか『室内』を見ることができなかった。パリ公演のあとの予定は発表されていないが、この素晴らしいプロダクションは最終的にはその誕生の地である楕円堂に戻ってきて欲しいと思う。あの楕円堂という特権的な場所でこそ、『室内』は理想的なかたちでの公演が可能になるのだから。

【筆者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
 1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学ほかで非常勤講師。専門はフランス文学で、研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。2012年より《ワンダーランド》スタッフ。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katayama-mikio/

【上演記録】
室内』Intérieur フランス・アヴィニョン公演
「アヴィニョン演劇祭」Festival d’Avignon
7月15日(火)~27日(日) 11公演
 
会場:Salle de Montfavet モンファヴェホール

演出:クロード・レジ
 Claude Régy
作:モーリス・メーテルリンク
Maurice Materlinck
訳:横山義志
出演:泉陽二、伊比井香織、貴島豪、大庭裕介、
下総源太朗、鈴木陽代、たきいみき、布施安寿香、
松田弘子、弓井茉那、吉植荘一郎、関根響
演出助手:アレクサンドル・バリー
装置デザイン:サラディン・カティール
照明デザイン:レミ・ゴドフロワ
衣装:大岡舞、サラディン・カティール
通訳・アシスタント:浅井宏美
上演時間:90分
会場:モンファヴェ・ホール Salle de Monfavet

日本語上演、フランス語字幕

チケット料金:一般28ユーロ(約3800円)、割引(失業者、生活保護受給者、舞台芸術関係者、身体障害者、25名以上のグループ、5演目以上の同時購入者など)22ユーロ(約3000円)、26歳以下14ユーロ(約1900円)

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初演:2013年6月「ふじのくに⇄せかい演劇祭2013

会場: 舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」
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◆『室内』フランス・パリ公演◆

フェスティヴァル・ドートンヌ・ア・パリ」

 9月9日(火)~27日(日)
 
会場:Maison de la culture du Japon à Paris パリ日本文化会館


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