◎鳥公園「緑子の部屋」から考える
(鼎談)落雅季子+鈴木励滋+野村政之
『緑子の部屋』をどう見たか
—11月にはフェスティバル/トーキョー14でも、鳥公園主宰の西尾佳織さんの作品の上演が予定されています。『緑子の部屋』は3月に大阪と東京で上演されました。今回は東京公演についてお話をうかがいます。とてもざっくりした言い方になりますが、緑子という女性がもう死んで居なくなっている状況で、緑子の兄と、一緒に住んでいた大熊という男性と、友だちだった井尾という女性が三人で集まって緑子のことをいろいろ思い出したり、昔のシーンが挿入されたりするという物語でしたね。それから、最初と最後で、とある「絵」について語る場面がキーポイントになっていました。ではまず、お一人ずつ、今日の話の糸口となるようなところから伺いたいと思います。
鈴木励滋 僕は(チェルフィッチュの)『三月の5日間』のことを思いながら観てました。主体が移動するというスタイルの話ではなくて、そこから岡田利規さんがやろうとしていた、『三月の5日間』で僕にいちばん響いたような話と、作・演出の西尾佳織さんがやろうとしていたことがどう違っていて、西尾さんはどこまでを射程にしているのかが気になりました。偽善や欺瞞にも受け取られかねないようなモチーフが頻繁に出て来るんだけど、そういうものと出会った時に自分がどう対峙しうるかを書いているように思いました。作家が「当事者性」に対してすごく悩んでる姿が見えてきたんですよ。単に社会的弱者に同情や共感はしないけれど、他人事として笑ってる奴らを強烈に批判してる。「それで満足していいのか」と、見てる側にも揺さぶりをかけてくる。
野村政之 僕は「演出的」に見ました。3331arts chiyodaの教室のような部屋を使って、シーンごとにぶつ切りにしていく。外のサッシのところから椅子を運んで来たり、廊下側の上の窓から首を出したりして、空間の捉え方を変えていく。空間が持ってるポテンシャルみたいなものを一枚二枚と出される感じですね。そのことと、壁に投影されたイラストについて語るふわっとした感じ、現実に存在しているところから少し浮いてる感じのレベルをそれなりに構成してるというふうに思ったんですね。戯曲というか、話の内容については、全体の輪郭が取れなくてぼやっとした印象に留まります。だから、全体としてはいいと思うところもあったけど、殊更に意味付けたくないと思っています。ただ、昨年以降の西尾さんの作品の変化として捉えた時に、近いうちに彼女なりのスタイルが確立されるのではないか、という僕の興味は保たれたので、そのくらいの好感は持ってます。
—落さんはCoRich舞台芸術まつり!2014の審査員をなさっていて、この演目について触れられていましたね。
落雅季子 はい。そこにも書いたんですが、私は西尾さんの倫理観の底の無さというか、寄る辺無さみたいなものを感じました。『カンロ』でも蟻にお湯を注いで殺すシーンがあったけど、私自身は、虫が死ぬところは見たくないし殺したくもない…。基本的に西尾さんは「正義の人」だから、巨大な悪そのものや差別そのものを観察しているんですよね。観察者としての公正な目線があるから、自分が蟻をかわいそうに思うことより、悪の仕組みそのものを描写しようとする。その時に、見ている側の不安をかき立てる、ぽっかりあいた穴のような何かがあるんですね。公正さは彼女の武器でもあるけれど、そこからもっと踏み込むには、西尾さん個人が何に嫌悪を感じるのかをもっと見たいです。
—今の落さんの「正義の人」という言葉と、鈴木さんがおっしゃった社会問題に対する姿勢ということの意味は同じですか?
鈴木 微妙に違うと思います。僕は今まで西尾さんのことを「自分」が揺るがない厄介なタイプの「正義の人」だと思ってたんだけども、今回は揺らぎが見えた気がした。盤石な場所から西尾さんが語っているのではないと思っていて、そこに可能性を感じる。
野村 ちなみに鈴木さんが、西尾さんがある種の公正さからはみ出したと思ったのはいつ頃ですか?
鈴木 「God Save the Queen」で上演された『蒸発』は、正しい人が無理して悪いことしてるみたいな印象もあったのね。でも今回は、被害者、加害者のどちらでもあるというスタンスで差別的なこともあえて言わせている。緑子がお兄さんのことを語る時の「あいつ使えない、障害レベルだよ」っていう台詞自体を非難するつもりはないし、それだけのことを言うだけの腹のくくりはあるな、と感じました。いたずらに露悪的ではなく、考え抜いた上で出している差別的な言葉だと思う。人間にそういう差別的な部分があることを断罪するのとは違う形で、描き始めたっていう気がしてるんですね。前は描くとしてもコミカルなネタとしてとか、俯瞰した誰かの描写みたいに、自分とは抜き差しならない関係ではないものであるかのように見えたけど、今回は西尾さん自身がどろどろした渦中にいるような印象を受けた。それが単に「正義」とは言えない理由ですね。
—「障害」という言葉もそうですし、「中国人」という言葉も出て来ますね。見てる時はよくわからなかったけど、緑子のお兄さんは実は中国人なのでしょうか?
落 友だちの佐竹(兄と同じ俳優が演じた)が中国人という設定だったんじゃないですか。あと、井尾も。でもそれもよく分からないです。他の登場人物含め、緑子のことが全然わからないという意味では緑子は「出てこない」ままだったけれど、緑子と呼ばれる人が出て来て(井尾と同じ俳優が演じた)台詞を喋ったことは面白くなかったと思う。緑子が現れることに対して、俯瞰する視点を感じちゃって、やっぱり公正すぎるんじゃないかと思ったんですよね。
—(台本のト書きを読みながら)佐竹って「緑子の兄。改名した名前。本名はヤン」ってことは緑子も中国人でしょうか?
野村 台本には確かにそう書いてあるんですが、見てる時は信じられない。信じさせないようにしてると思って僕は見てました。
鈴木 だって、『カンロ』でも大熊と佐竹という人物が(さらにいえば井尾も)出てきていて、彼らがが「チャイナ」ってあだ名してヤンなる人物のことを語っていたわけで、僕も台本のそういうのには引っ張られなくていいと思う。「実は~」とかいうのって、西尾さんの劇世界では、どんな作品もそうかもしれないけれど、とりわけ西尾さんの作品においてはあんまり意味をなさないと思います。
野村 僕は、最初見終わった時の印象では「緑子はいなかった」と思ったんです。緑子の台詞は出て来るけど。それで台本を見て、理由はよくわからないけどがっかりしたんですね。言葉ではキツいこと言ってるけど、身体は日常のレンジに収まっていて、ここにある身体を蝕むようなテキストではないし、舞台でそういうことが起きていたと感じなかった。だから、台本を殊更に読み込みたくない。深読みして意味付ければ、それだけ逆に「結局記号をまぶしてるだけじゃないか」っていう批判のほうが意味を持って来てしまう。僕は、曖昧なゾーンの中に留めて、先を楽しみに待ちたい。
『三月の5日間』との関連
野村 先ほどの『三月の5日間』との関連で言うと、僕はどっちかって言うと青年団の『東京ノート』寄りだと思ったんですよ。絵の比喩が出て来て、絵に描かれたもので何を見ているかという問いを観客に投げかける…これって『東京ノート』じゃん! 僕にとって『三月の5日間』的であるということは、言葉で語られている身体が含んでいる政治性を演じている身体そのものも持っているということです。日常性を持ってもいるけど、劇の世界が持つ政治性も混じり込んでいる。でも、鳥公園はそこには踏み出そうとしてない。でも今のところは、身体が日常に留まってるからダメとも言いたくないし、いいとも言いたくない。
—鳥公園に限らず、完成された作品というよりは、プロセスや移動を見たいということでしょうか?
野村 僕は制作者の職業柄、作家の「プロセス」として個々の作品を見て行くチャンネルがあるんですよね。最近の『蒸発』『カンロ』は別々の方向にかなり極端なチャレンジをしてたと思ってる。『蒸発』は激しく非倫理的な方向をあえてやっている感じで、でも本人がそれについて考えたくてしょうがなかったんだと思うし、それが見どころで。一方『カンロ』のほうは個人的には(舞台美術の)杉山至さんのワールドに自ら呑み込まれたと思ってたので、今回やや落ち着いたのは、いい冒険をした上だというのを感じていて。だから、これから彼女がどういう歩みをしていくのかに可能性が見える。
—鈴木さんも、プロセスとしてご覧になった面もあるんですよね?
鈴木 『三月の5日間』で肝だと僕が思ってるのは(ラストシーンで女が)ホームレスを犬と見間違えるあのシーン。あれがものすごく重要なのは、他者をどう捉えるかっていう話だからです。イラク戦争が物語のベースにありながらもセックスを続けている二人がいる。そしてその後男と別れた女が朝の渋谷で、ごみをあさっている犬を見るけれども、それは道ばたで排便しているホームレスだった。それを見て吐くわけですよね。つまり他者を「人間」ではなく、何人死んだとかいう「情報」でしか捉えられない戦争が色濃く背景としてある中で、すごくリアルに、「犬」だと思ったら「人」、しかも普段自分が無意識のレベルでホームレスを人間として認識してないんじゃないかってことまでも、見間違いによって不意に突きつけられてしまったわけです。その揺さぶりってすごく大きいと思っていて、舞台上の人物を演じる俳優が入れ替わり、語りの主客が混濁し、見ている自分というものもあやふやになるそういう混乱の中で、あのシーンを見せつけられた時、どうしてもこの形で表さなきゃいけない必然性を持っているように見えたんです。だから西尾さんが執拗に主体を入れ替えたりしつつ、差別のことを舞台に乗せるのは彼女が腹をくくって、何かを探ろうとしていると思ったんです。この作品の最後にも、男が緑子と井尾を間違えるシーンが出て来るんですね。そのやり取りの中では、男は井尾を緑子だと思っていて、とうとう女のほうがあきらめて「ねえ、井尾って女知ってる?」って聴くんです。そこまで人を揺さぶって、最後はどんなむちゃくちゃな展開があるのかって期待していたのだけれど、最後は見ている側がどういう視点でいればいいかわからなくさせられたところで終わってしまった。
野村 そうですね。僕は、そこで終わったものをいろいろ意味づけることをしたくないというか、逆に言うとそこで終わらせた罠だと思うから、その罠にはかかりたくない。
落 最後の方、アウシュビッツにまつわる長台詞がありますよね。今まで工場の話とか大学での緑子の話の中でいろんなパターンを試してたのが、『三月の5日間』ラストシーンのような、決定的でヴィヴィッドな瞬間に収束していくのではなくて、視野をぶわっと拡張する。そしてその後、ひろがりを締めない。大熊が緑子と井尾を間違えるのはある種ドキッとさせられる場面ではあるんだけど、最後の場面でまた絵を見るふくらみの中に話を戻したっていうのは西尾さんの中で何かを決定づける段階ではないのだと思いますね。
野村 『三月の5日間』の最後のホームレスのくだりは「発見」なんですね。描かれてることは狭いんだけどぐーっと俯瞰になるというか世界で起きている暴力も我々自身が持っているものでもあるし、我々自身にも、舞台上の身体にも、同様のものが向けられているというふうに、認識のレベルが変わるんですよ。でも『緑子の部屋』では、そうした「発見」には至らず幕が閉じられる…。
鈴木 アウシュビッツとか東日本大震災の話は、そのまま受け取るとほんと陳腐なんですよ。でもビルの上の女を見ている自分を見ていて、あとでネタのように話せてしまう「わたし」というものを俎上に乗せた。僕がこの作品を評価してるのは、そこまで踏み込んだこと。踏み込んで何か突き抜けられたかと言えばそうではないと思うけれど、そこを越えるか越えないかって、作り手として信頼できるか否か、ってくらい大きく違うような気がしてるんですね。
「アート」的なるものについて
—Twitterなどで、マイナスな意味でアートっぽすぎるとかおしゃれすぎるという意見もありましたよね。
鈴木 でも、それで敬遠されてももったいないですよね。
落 西尾さんの描こうとする汚いもろもろに対して舞台美術が可愛すぎるっていうのはあります。今回西尾さんが描こうとしてるものにはアンバランスだったなと思いますね。それから、大阪公演と東京公演ではだいぶ空間が違ったようなんですけど、arts chiyodaではサッシや窓をフル活用したり、ミシンを下から出したりして、それはちょっと空間を使いこなそうという意識が先行しているような印象を受けました。
鈴木 「アート」をたしなむような人に対して意地悪をするっていう感覚で、あえてそういうギャップを狙う意図は無いんですかね。
落 それは感じないな。西尾さんって空間に対して敏感な人だから、東京芸術劇場でも三鷹市芸術文化センターでも、広さと高さを使おうとしてる感じはあったんですよ。それに比べて、今回は単純に美術スタッフがパワーダウンしていたと感じます。
野村 常に良くも悪くも空間に踊らされてるというのはあります。だから劇場で美術家とやると、美術家の人が西尾さんと同じ観点持ってないとバランスが崩れる。空間に何を施すかが、西尾さんの演出にとってはすごく大事なんだろうと思います。僕は、今回、空間配置が観劇に与えた影響はわりとうまくいってたと思う。
鈴木 僕は、僕は西尾さんが「アート」好きで寄って来る人を狙い撃ちして気づきを与える段階を狙ったという意地悪な可能性を今も捨てていないんです。だから作品には、ジェンダーや人種差別など、何かに気づく初歩編だけがすごくたくさん示されては放置されている。それは、普段社会問題にまったく関心のない人にとってはいろんな発見があるかもしれないけど、それをそういう意図でやっていたとしたら傲慢だと取られても仕方ない。なぜなら、やっぱり「その先」に連れて行ってもらえなかったから。稚拙であってもその人がもがいた痕跡を見せてもらった納得がなかった。
落 視野が狭いわけではないですが、何事かに対する「これは許せない」という心の狭さがすごく出ていたとは思う。それがこっちを糾弾して来るようでもあり、見ていて息苦しい。「その先」に連れて行ってもらえなかったというのは糾弾した先のガスの抜けがなくて、作品として隙とか余地がないということですね。テクストが、ただ関係性を具象的にズバズバ記述しているというところにも息苦しさを感じます。純文学的な比喩などでひろがりを持たせていない。着地点が見えないというのは、西尾さんの苦しさも現れてると思うけれど、同時に観客の首もすごく締めてくる。
鈴木 うーん…。落さんのその話を聴いて思うのは、やっぱり落さんが今まだ葛藤の中にいるんだなということですね…。
落 えっ!!(動揺して持っていた台本を落とす)
野村 (笑)。
鈴木 僕は(そういう葛藤の時期は自分で)抜けたって思うことにしていて、悩むヒマがあったら余生をがんばろうって思っているから、葛藤をやめてるの。でも何か答えを得てスッキリしてるわけじゃなくて、「ひとまずこれが答えでいいや」と、腹をくくっているだけなので、西尾さんに対しても「示しちゃえばいいじゃん!」と思ってて。だからこういう問題について全然考えたことがない人が見たらまた違うだろうし、葛藤の最中にこれを見たらやっぱり苦しいだろうなとは思う。やはり、受け手の状況でしょうね。
—息苦しいっていうのはちょっと新しいコメントでしたね。息苦しくないって人もいるかも。
野村 僕もそれが言いたかったんです。何だろう、「スッキリしないからってスッキリしてほしい」って思ってるんじゃなくて、「もっともっとスッキリしないことだよね、これって?!」っていう「スッキリしない感」が残ってるんですよ。分からせてほしいんじゃなくて。僕もこういうことについて葛藤したし今も考えてるけど、「こんなふうに終われることじゃないよね? それもきっと分かってるんだよね?」…ってことで良くも悪くも言いたくないんです。
鈴木 自分ではもっと考えてある程度の方向性も見いだしてるのに、気づかせるためにやってるとしたら極悪人ですよね…。
落 極悪っていうよりは意地悪ですよ…。
鈴木 でもそうじゃないんだろうなって思ってるけど。選ぶ題材があえてチープだから何の狙いなんだろうなあって思いますね。
落 チープというのは類型的っていう意味ですか?
野村 安易にジャーナリスティックという意味です。中国人に対する差別感情みたいなことって一般的に今問題視されているじゃないですか。だから逆に、西尾さんがあえて今それを取り上げたことの意味はわからなくなる。作家が何でその素材で語ろうとしたのかが見えない素材ばかり使ってる。
鈴木 しかもそこから考えを進めていく内容が、そんなに深くない。
野村 あえて深くないというか、限定しないようにしてるんだと思うんですよ。
鈴木 だから憶測も深読みも出来るということですね。
上演と戯曲
—上演を見た時に比べて、今こうして話してみると違う顔が見える面白さやしたたかさがありますね。
落 上演のわりに、台本から深読み出来すぎちゃうように思うんですね。だからどれだけ上演として舞台に乗ってたかというのは疑問ではある。「演劇」のつくり方を今後彼女がどうしていくのか分からないですけど、台本に騙されちゃいけない…。
野村 単純に上演がうまく行っていない可能性もある。個人的にはそういう言葉では片付けられないものがある気がしてるんですけど、「うまく行っていない」って言い切られてもしょうがないような試みをしている感じ。で、やっぱり上演と台本が違うものとして立ち上がってくる。
落 彼女、書き言葉との距離が独特ですよね。「書く」時のスピードで「考えてる」気がする。そして、全部のモチーフに対して書き手の距離が等しいとは思います。それは当事者性について悩んでいるからこそではないでしょうか。何かに対して現時点で白黒つけることを良しとしない、こういう差別やこういう感情がよくないって断定することを西尾さんは現段階では避けているのかなと思いますね。だからそれが、同じく葛藤の最中である私には…ずるいとまでは言わないですけど…あの…。
野村 まあ、ずるい方面ってことですね(笑)
落 そう、その方面に(苦笑)見えるんですね。
鈴木 しかも「あなた、もっと考えてるでしょ?」って思いますよね。自分を晒しきって、全存在を賭けた創作だったらそうは思わないんじゃないかな。これは私の全部ではないって言い訳しうる余地を残して何かを言うのはずるいって感じたのかもしれない。
野村 岸田國士戯曲賞にノミネートされた『カンロ』を僕は読んでなくて上演しか見ていないけど、言葉で語られていることのイメージは豊かだと思った。それを上演する時に抽象的なものに陥ってるだけで。自分の台本の力とか、演出でぼんやりしてることをどのくらい自覚出来てるのか、いまのところ僕はペンディング。
落 そこは非常に悩んでるんじゃないかな。私は、鳥公園の上演より西尾さんの文章を読んだほうが面白く感じるんです。台本もそうだし、ワンダーランドにときどき寄稿している文章もすごくいい。だからこそ、上演する意味とか効果を考えて、空間を余すところなく使うように思慮してしまうという感じは受ける。書くことと舞台で演出することに対してまだまだ答えを探している途中なんだと思うし、明晰さを持って上演している段階ではないと思います。だって、今回上演見たあとで「面白くなかった…」と思って鬱々として帰りましたけど、台本読み返したら「あれ、面白いんじゃない?」って思いましたもん。
野村 演出を自分がやってることで、台本のポテンシャルを下げてるかもしれないし、そういうところを本当にリアルに見つめないと「期待が持てるから悪く言いたくない」ってところで歳をとるうちに終わっちゃうので、気をつける必要はあるかもしれません。
鈴木 こうして見ると、台本に指示がすごく多いですね。見た側として、書かれているほどの意図が伝わらないのは演出の問題。言葉で完結しすぎているというか。『三月の5日間』のあのシーンは、ずっと前に見たっきりなのにどうにも私の中に残っている。そこまでの強度を持った場面が、この作品にはない。見る人に何か気づかせる視点を与えるところまでは出来ると思うんですよね。そういう意味において危ういなと思うのは、小出しにするのは、戦略かもしれないけどあんまり有効じゃないということ。ちょっと引いて、余裕を保ちつつやっているんだとしたら危ない。
野村 一回二回くらいはいいんじゃないかと僕は思います。だけど、アーティストの自覚は大事。作品づくりにおいて、今、自分が世の中をどう見ているかについて自覚を持った上で、創作活動の中でその見方の変化、発見した瞬間が刻まれてる作品が傑作になると思うんですよね。年齢的にもこの一、二年が彼女の分岐点なんじゃないですかね。確か85年生まれですよね。まだ若いんです意外と。
—マームとジプシーの藤田貴大さんと同じ年代ですが、二人ともずいぶん作品数が多いですよね。
鈴木 そうか、若いなあ。そう思うと、年寄りじみたやり方してるなあ。落ち着いたやり方してるからずっと三十代だと思ってた。もっと無茶すりゃいいのになあ。それをあえてしたって感じがしたんだけどなあ、『蒸発』。
野村 無茶するっていうストーリーに乗れないんじゃないですかね。それはそれでアリだと思います。
「だらしなさ」のススメ
落 西尾さんは老成しているけど、だからこそその距離感が意地悪く感じることもあるんです。それで得することはひとつもないと思うから、もっとぶっ壊せばいい。蟻を殺すモチーフなら、こないだのFUKAI PRODUCE羽衣がやった『観光裸』は素晴らしかった。不倫している男女が京都に旅行に来て、女がふざけてこぼしちゃった缶コーラに蟻が二匹来ているのを二人で見ながら、女が「殺して」って言う。それで、男が女を見つめながらプチッて蟻をつぶす。あんな大人の蟻の殺し方ないですよ。だから何が言いたいかっていうと、西尾さんはもっと自分の中の激情に狂ってもいいと思う。狂えないとは思いたくない。だってそんなのつまんないから。別に汚い感情に向き合わなくてもいいんですけど、どうしても引きずられてしまう強い感情に飛び込んでもいいんじゃないかと思いますね。ゆっくり文字を書き付けている間は思索に耽れるのかもしれないけど、いざ俳優の身体や美術を使おうとした時に何かのセーブが働いているように見える。
野村 もっとだらしなくてもいいと思うし、俳優がやってることの量や力が少ないと感じた。ある種の政治性を扱っていくんだとしたら、それが演劇である以上、ここにある身体を何かする必要がある。身体の大きい人が小さい人より威圧感がある…というようなベーシックなことと政治は無関係ではないわけで、舞台はそれができる表現ですよね。今はまだほぼ言葉のレベルだけど、やれる可能性は十分にあると思うんです。
—だらしないところを出さないようにしてるのでは。
落 その厳しさをちょっと緩めると、その隙間から何か入って来るかもしれないし、自分も出せるかもしれない。それは大人の余裕だったり、漏れ出る愛情みたいなものだったりするけど、そういうものが感じられないと人間味に欠けるというか。
野村 西尾さんは、周りにもっと左右される感じが出て来ると面白いんじゃないかな、と、ポジティブに僕はそう思ってます。『蒸発』にはそれがあったんですね。森すみれなのか、野津あおいなのかわからないけど、滲んでくるだらしなさがあって、そういうだらしなさと、動物を犯すという『蒸発』のモチーフを西尾さんがうまくつないでいたと思う。
鈴木 さっき冗談っぽく、落さんのこと「葛藤してる」って言ったけど、別に僕が答えを見つけたわけじゃなくて、いい加減になった部分があるということなんですよ。「だらしなくなった」でもいいけど、それは、雑なんじゃなくて、硬直しないというか、しなやかでいろんな可能性を保っているというか。自分と他者のラインや、存在することの悪みたいなものを突き詰めると、死ぬか宗教的な絶対の答えをもらうしかない。どっちも嫌だったので、そうするとどこかいい加減になるんですね。ここまで徹底的に考えたから、ま、いっか、とかね。なにかを少しでも良くして行きたいんだったら、魅力的じゃないとならない。正しさを信じて一生懸命やると自分も苦しいから、人にも苦しさを強いて正しさでがんじがらめにしていくってことになりがちだけど、それだとなんにも良くならないんですよ。そんな苦しい顔をして何か活動している人に惹かれる人はまずいない。それは考えることを止めて、それまで考えた全部忘れてって意味ではなくて、野村さんが言ってた「スッキリしない感」なんかも抱えつつも歩を進めちゃうと、何とか突き抜けられる道があるっていう。それをずるさだと若者に罵られるならそれでもいい。「正しさ」なんかのために殺したり殺されたりするくらいならば、だらしなく狡猾に生き抜きたい。
落 何だか私の人生相談みたいです…。すごく響きます。
鈴木 いかに苦しいかをあれやこれや見せられても、「そうか、しんどいね」としか言いようがない。そこで留まっていては、物事は良くなって行かないんじゃないかと。西尾さんには葛藤の先の景色がきっと見えている気がしていて、もったいぶっていないで、見せてほしいなと思うんです。
—この話をまとめるのは難しい、というかまとめる話ではないですね。それでは今日はこの辺で。みなさん、ありがとうございました。
(2014年6月29日、世田谷区にて)
(聞き手:大泉尚子 構成:落雅季子)
【略歴】
落雅季子(おち・まきこ)
1983年生まれ東京育ち。2013年4月より、BricolaQ「マンスリー・ブリコメンド」管理人。「こりっち舞台芸術まつり!2014春」審査員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ochi-makiko/
鈴木励滋(すずき・れいじ)
1973年3月群馬県高崎市生まれ。舞台表現批評。地域作業所カプカプ所長を務めつつ、演劇やダンスの批評も書く。『生きるための試行エイブル・アートの実験』(フィルムアート社)や劇団ハイバイのツアーパンフに寄稿。ウェブサイトBricolaQにてお薦めの舞台紹介(ブリコメンド)もしている。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/suzuki-reiji/
野村政之(のむら・まさし)
1978年生。大学から演劇活動を始め、公共ホールに勤務の後、2007年より青年団・こまばアゴラ劇場制作部に在籍。並行して若手演出家の公演に様々な形で参加。主な参加公演として、サンプル『自慢の息子』、ままごと『わが星』(ドラマトゥルク)、平田オリザ+石黒浩研究室[大阪大学]ロボット版『森の奥』(制作)など。桜美林大学非常勤講師、アサヒ・アートスクエア運営委員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nomura-masashi/
【上演記録】
鳥公園「緑子の部屋」
大阪公演 大阪市立芸術創造館(3月21日-22日)
東京公演 3331arts chiyoda(3月26日-31日)
作・演出
西尾佳織
出演
武井翔子、浅井浩介(わっしょいハウス)、鳥島明(はえぎわ)
スタッフ
舞台監督/若旦那家康
舞台美術/中村友美
照明/石田光羽
衣装/藤谷香子(FAIFAI)
写真撮影/塚田史子、宇津木健司
宣伝美術/鈴木哲生
制作/萩谷早枝子 鳥井由美子
チケット料金
大阪 前売2500円/当日2800円 U25 2200円
東京 前売2800円/当日3100円 U25 2500円
企画・製作/鳥公園
主催/大阪市(大阪公演)、鳥公園(東京公演)
演劇批評ではなくて、演出家の人物批評、さらには自己開示のすすめになってるのは、批評の力の低下もあるけど、演劇界がみんなお知り合いな、狭い世界になってるからなんだろうな。
自分の地平からしか、批評ができない、あるいはやりたくない風潮って、すっかり蔓延してしまってるようだね。
kasaさま
なかなかコメントのつかないこのサイトに投稿いただき、ありがとうございます。
批評に対する貴方のお考えを伺い、こちらの考えもお伝えするような遣り取りをするにはこの欄はいささか使い勝手がよくないので、もしツイッターをご利用でしたらsuzurejioというアカウントでおりますので、意見を交わせると幸いです。
わたしは自分の地平から断絶した大きな言葉で批評することに、さらには論理を道具としてゲームをするがごとき議論には一切の興味がない者なので、お互いがよりよく生きていくための遣り取りを望んでおります。