連載「もう一度見たい舞台」第8回 蜷川幸雄演出「近代能楽集 卒塔婆小町」

◎観劇は初恋のように
 高羽彩

 私の、「演劇」というものに対する興味の芽生えは、小学校中学年頃。
 わりと早いほうなんじゃないかと思う。
 とはいっても「物心ついた頃から子役として活躍してました!」なんて人と比べれば全く話にならないし、興味が芽生えたといっても「将来は女優さんになりたいです!」なんて具体的な目標を早くから掲げたわけでもない。
 あくまでも「なんとなく」。

 小学校中学年頃からなんとなく、「中学生になったら、部活動ってヤツをやるらしいぞ? そしたら演劇部とかいうところに入ったら面白そうだぞ?」と思っていた、というだけ。
 それでもまあ当初の想定通り、中学校では演劇部に所属し、ほとんどままごと遊びのような演劇活動に放課後を費やしているうちに、少しずつ台詞を喋ることの快感を覚え、その流れで高校でも演劇部を選んだ。
 私が所属していた演劇部は、「全国大会出場を目指します」といった意識高い目標を掲げるということは一切なく、顧問の先生も全くの放任で(それがいかにありがたいことだったかいまなら身にしみてわかる)、私はやっぱりままごとみたいに演劇を楽しんでいた。
 当然のように、演劇を生涯の仕事にしようなんてことは考えもしていなかった。
 そんな、地方都市の、意識低い系演劇少女が、ある日突然「私はプロとして演劇の世界で生きていこう」と決意するのである。
 
 その決意はあまりに唐突で、ほとんど天啓じみた衝撃をもって私に訪れたので、その瞬間のことはいまでも強烈に脳裏に焼き付いている。
 2000年11月9日、当時、私、高校二年生。
 その瞬間は、アクトシティ浜松 大ホールで、蜷川幸雄さん演出の舞台『近代能楽集 卒塔婆小町』を見終わった後に訪れた。
 この作品、正確には『近代能楽集 卒塔婆小町/弱法師』と題されており、二本立てだった。しかし、私に人生を変えるほどの衝撃を食らわせたのは『卒塔婆小町』だけである。というか、『卒塔婆小町』のあまりの衝撃に、その後上演された『弱法師』が全然頭に入ってこなかったのだ。
 『弱法師』には、当時アイドル的人気を博していた藤原竜也さんが出演しており、私も生で見る彼を楽しみにしていたはずなのだが、どうにもほとんど記憶にない。
 そのくらい『卒塔婆小町』の衝撃はすさまじいものだった。
 
 この記事をお読みの皆様には、『卒塔婆小町』の概要など改めて説明する必要もないかとは思うが、いちおう簡単に書いてみようと思う。
 『近代能楽集 卒塔婆小町』とは、三島由紀夫が能の謡曲を原作にして書いた翻訳戯曲シリーズの中の一作である。

  夜の公園で、詩人の青年はシケモクをひろう老婆と出会う。
老婆は、卑しく、汚く、醜かった。それでも老婆は、自分はかつて「小町」と呼ばれる絶世の美女だったと詩人に語る。そして言うのだ。
  「私を美しいといった男は、みんな死んでしまう」
取り合わない詩人に、老婆は80年前、自分が小町と呼ばれ、鹿鳴館に出入りしていた頃のことを語り出す。
すると夜の公園はとたんに鹿鳴館に変貌し、老婆は絶世の美女となる。公園でいちゃついていた恋人達は紳士淑女となり、美しい小町を褒めそやす。
そして詩人は小町とワルツを踊り、彼女の制止も聞かず「君は美しい」とつげ、命を落としてしまう。

 こんな感じのお話。
 
 まず驚いたのが、老婆を演じていたのがずんぐりむっくりしたおじさんだったことである。いや、いまなら「あ! あれは壤晴彦さんだわ! すごーい!」となるのだが、当時の私は意識低い系女子高生である。
 「わ! なんだありゃ! おじさんだ! おじさんが、おばあさんをやってる! 志村けんかよ!」
 ……初手の感想はそんなもんである。
 しかし私は確かに見たのだ。老婆が、いや、ずんぐりむっくりしたおじさんが、絶世の美女になる瞬間を。
 メイクがかわったわけではない。衣装がかわったわけでもない。それなのに、おじさんがただすくと背を伸ばしただけで、絶世の美女になった。
 あれはほとんど妖術、狸か狐の仕業に等しかった。私はただ呆然と、目の前で起こっていることを受け入れるしかなかった。
 詩人を演じていた高橋洋さんも素晴らしかった。
 先ほどからくどく申し上げているとおり、小町はおじさんなのである。しかも、もとが老婆として舞台に登場しているので、メイクだって美女風になっているわけではない。おじさんと言われれば、おじさん以外の何者でもないのである。
 それでも詩人は小町に、「君は美しい」と告げるのである。死ぬとわかっていて、それでもなお言ってしまうのである。そうしてしまってもいたしかなたし!と思えるだけの説得力が、高橋洋さん演じる詩人にはしっかりとあった。
 あの瞬間、詩人の命が、恋によって燃えているのを私は見た。命を燃やし尽くすほどの恋が、絶頂が、舞台上に実際に存在していたのだ。
 私はおじさんが絶世の美女であることを心の底から信じたし、詩人の命が本当に恋のために燃え尽きて、消えてしまったんだと思った。
 あまりの没入感に、幕が下りてしばらくは唖然としていた。
 自分自身が、鹿鳴館で踊り、恋し、そして死んでしまったようだった。
 
 ここまで書くと「それで感動して、プロになろうと思ったのね」とお思いになるかも知れない。
 が実は、そうではない。
 直接のきっかけになったのは、舞台上で咲いていた椿だ。
 芝居中、舞台上では椿が咲き、時折、ポトリ、ポトリとその花を落としていたのだが、その花の落ちるタイミングが何とも絶妙だった。
 台詞のココ! 人物の感情が動くココ!!
 その瞬間瞬間を外さずに、見事に美しく落ちてくる。
 椿があたかも第3の主役かのように、舞台上の空気を作っていた。
 当時、「降らしもの」の仕掛けに関する知識に乏しかった私は、「あの椿も雪とか桜吹雪なんかと同じように、箱かザルに入れられ、天井から吊され、綱でゆっさゆっさと揺らされて落ちてるんだ」と思っていた。しかしその方法の場合、ものの落ちるタイミングを計るのは非常に難しい。だから私は、今日この瞬間、絶妙なタイミングで椿が落ちてくるのは、全部偶然だと思いながら見ていた。
 偶然の割にはいいなぁ。きっと今日見れた私はラッキーなんだな。
 そんなふうに思っていた。
 
 休憩中、ぱらぱらとパンフレットを眺めていたときである。
 舞台美術に関する記述があり、そこに、あの椿は劇場のバトンの上から一つ一つ、人間が落としている、と書かれていた。
 椿の入ったカゴを小脇に抱え、バトンの上からタイミングを伺うスタッフさんの写真も載っていた。
 それを見た瞬間、脳天に雷が落ちたような衝撃が、私の全身に走った。
 一つ一つ……? 
 スタッフさんが、椿の花を落としている……? 
 ということは、椿の花を落とすためだけに、何人ものスタッフさんが劇場の天井裏で待機してたってこと……? 
 しかも劇場によって天井の高さが違うから、会場がかわるたびにそこにあわせて椿を落とすタイミングを変えるって言うこと……?!
 ただ椿を落とす、そのためだけに、これだけの労力がかかっているということ、そして、その労力に見合うだけの効果がしっかりあるということに、私は身が震えるほどの感動を覚えた。いや実際に震えていた。あのときの、ワナワナと揺れる視界をいまでもよく覚えている。
 これが、プロの仕事なんだ。
 作品を作るっていうのは、こういうことなんだ。
 私もあちら側に行きたい! プロとして作品を作りたい!
 帰りの電車に揺られているときには、すでに決意は固まっていた。
 演劇の、プロになろう。プロとして生きていこう。
 「なんとなく」で生きていた人生から余分なものが一気に抜け落ち、つるんつるんのぴかんぴかんになったのを感じた。

 これが私の「もう一度見たい舞台」である。
 そして、「もう二度と見たくない舞台」でもある。
 ここまで読んできてくださった方には、伝わっているといいのだが、私にとってこの『卒塔婆小町』観劇体験は、かなり特殊なものである。
もちろん、作品そのものの完成度も、素晴らしかったと思う。でも、年を経て、冷静に考えてみると、
 私が高校生だったこと
 一人でお金を払ってお芝居を見る、初めての体験だったこと
 演劇のこと、まだなにも知らなかったこと
 などなど、作品の完成度以上に、受け手の私の状態が、この観劇体験を特別なものにしたんだ、そんな風に思う。
 いや、でももしかしたら今見てもあのときと同じように感激できるかも知れない、いや、でももうあんな風には感激できないかも知れない。
 『卒塔婆小町』のことを思い出すといつもそんな逡巡が、私の中を巡る。
 まるで初恋の相手のことを考えているみたいだ。
 
 この連載のテーマは「もう一度見たい舞台」
 だけど、ここを見ているほとんど多くの人は、「もう二度と見られない」ことにこそ演劇の魅力がある、そのことを十分にご存じだろう。
 今日見た演劇はもう二度と見られない。
 たとえ同じ作品を再び見たとて、今日感じた感動は二度と感じることは出来ない。
 演劇は私たちに、人生の不可逆性を思い出させてくれる。
 毎日同じように日が昇り沈んでも、今日という日は二度と戻ってこない、そんな、誰でも知っているのにけっこう簡単に忘れてしまう真実を、演劇は鮮やかに思い出させてくれるのだ。
 複製可能なコンテンツが世の中にあふれている今、演劇の魅力は今も昔もかわることなく輝いている。
 その輝きの片隅に、自分がいられることの幸せをかみしめ、高校二年生の私の期待に背くことのないように、これからも創作を行っていこう、そんなことを思った。

Untitled【筆者略歴】
 高羽彩(たかは・あや)
Krei.inc所属、脚本家:演出家:役者
1983年生まれ。早稲田大学第二文学部卒。
04年に演劇プロデュースユニット「タカハ劇団」を旗揚げ。
以降、タカハ劇団全作品の脚本、演出をつとめる。
脚本の持つ緻密な物語性と生々しくチープでありながら何処か叙情的な言語感覚が旗揚げ当初から高い評価を得る。
随所にコメディー的な要素を散りばめながらも、どこか冷徹とも言える終着点へと向かっていく骨太かつリリカルな世界観が特徴。
近年では舞台脚本演出の他に、アニメやラジオドラマのシナリオ、小説の執筆など活躍の場を広げている。


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