トラファルガートランスフォームド「リチャード三世」

◎Tangled Cord, Strangled York, Mediated Tudor – 1970年代終盤の『リチャード三世』
 辻佐保子

 演出家ジェイミー・ロイドが芸術監督を務めるトラファルガー・トランスフォームド (Trafalgar Transformed) の第四弾である『リチャード三世』が、ロンドン中心部のトラファルガー広場に程近いトラファルガー・スタジオ1 (Trafalgar Studio 1) で現在上演されている。トラファルガー・トランスフォームドとは、普段劇場に足を運ばない若年層を観客として取り込むという使命を掲げるプロジェクトである。まだ二シーズン目であるものの、映画やテレビで活躍する俳優を主演に迎えたシェイクスピア劇の上演は話題を呼んでいる。昨年のジェームズ・マカヴォイ主演の『マクベス』に引き続き、今年は映画『ホビット』シリーズやBBCドラマ『シャーロック』で知られるマーティン・フリーマンがグロスター公リチャード役に迎えられた。

 本プロダクションの大きな特徴は、時代設定が1970年代に据えられていることである。これは、『リチャード三世』を実際の1970年代のイギリスに置き換えているという意味ではない(当然ながら現女王エリザベス二世は登場しない)。台詞も現代英語に書き換えられているわけではなく、背中に瘤があり片足を引きずるリチャードという従来の造形は踏襲されている。衣装と小道具が1970年代性を示すのである。たとえばリチャードは仕立ての良いダーク・カラーのスーツを纏い、リチャードの妃となるアンはパンタロン・スーツを着こなす。そして、劇終盤の戦闘場面で、兵士たちは迷彩柄のアーミー・スーツを身につけて機関銃を構えるといった具合である。この演出についてロイドは、劇冒頭の独白に登場する「不満の冬」(Winter of Discontent)が1970年代終盤ウィルソン政権末期の不穏な情勢を指すのに用いられたことから着想したと述べている(註1)。

【写真は「リチャード三世」公演から 撮影=Marc Brenner 提供=Trafalgar Transformed 禁無断転載】
【写真は「リチャード三世」公演から 撮影=Marc Brenner 提供=Trafalgar Transformed 禁無断転載】

 ところが、ロイドの着想に対して新聞批評の多くは、言葉遊びの域を出ておらず、15世紀後半のヨーク派とランカスター派間の内乱として名高い薔薇戦争の終結部を描いた『リチャード三世』上演のコンセプトとして妥当かどうか疑わしいと批判した(註2)。
この点に関して筆者も異論はなく、景気の低迷や終りの見えない冷戦による疲弊感といった1970年代終盤イギリスに漂っていた時代の空気が、『リチャード三世』の表象に新たな切り口を提示していたとは思われなかった。

 しかし、本プロダクションをサッチャー政権直前の時代精神とダイレクトに結びつけて解釈することに終始すると、1970年代終盤というコンセプトを元にどのような演出が可能となり、そこからどのような劇世界が立ち上がっていたかという点が見過ごされてしまうことも事実である。果たして、トラファルガー・トランスフォームド版『リチャード三世』は、新規の観客へすり寄る余りコンセプト負けしたプロダクションでしかないのであろうか。そうであるならばリチャードの最期が描かれる第五幕第四場ボスワースの戦い終盤で、銃を構えるリッチモンドに向かってリチャードが焦りをにじませつつおどけたように “A horse?” とこぼしたあの瞬間が、なぜ痛切なまでに滑稽かつ美しく仕上がったのであろうか。本稿では、トラファルガー・トランスフォームド版『リチャード三世』を異なる視点から見つめ直し、舞台装置、特にメディア機器に付与された象徴性と、リチャードとフィリップ・カンバス演じるリッチモンドとの対比に着目する。そして、本プロダクションの試みが一体どのような形で実を結んでいたかについて述べる。

「もの」としてのメディア機器とリチャード

 座席数400に満たないトラファルガー・スタジオ1の上演空間は、決して広くない。その上、舞台後方にも置かれた観客席によって狭まった演技スペースには大小の舞台装置が並び、開放感があるとは言えない。三人がけの長机が二つ、中央向きでひと一人が通れるほどの間隔をあけて配置され、その上にはネームボードと会議用マイク、有線マイク、そして赤電話が置かれている。各長机の両脇にはタイプライターや電信の受信機、電話が置かれた二つの事務机が舞台前方を向いている。会議室とオフィスが合わさったような密室空間である。また、舞台下手前方には観客席へ張り出すように演技空間が設けられている。舞台上に二台置かれたブラウン管テレビは、時折舞台下手前方の演技スペースで進む上演を、特にステージ・シートの観客たちへ伝える役割を果たす(註3)。舞台全体を一瞥しただけで舞台装置、特に電話やマイクといったメディア機器が「もの」として視界を圧迫してくる。そしてこの閉塞感にこそ、『リチャード三世』を1970年代終盤のイメージで演出することの意味が込められていると考えられる。本稿では有線マイクと電話に着目していきたい。



【写真は「リチャード三世」公演から 撮影=Marc Brenner 提供=Trafalgar Transformed 禁無断転載】

 劇中でキャラクターがスピーチや呪詛、誓約を行う時に有線マイクが使われることから、独白やダイアローグとは異なる、パフォーマンスとして他者に語りかける発話モードの指標という機能を本公演でのマイクは担っていると言える(註4)。しかし、発話モードを峻別する機能と同様に、有線マイクというマテリアル自体、もっと言えばコードの存在が本プロダクションにおいては重要だと思われる。コードは観客の注意をひくには十分なほどの太さと長さと重みを有しており、キャラクターたちはそれぞれコードをさばきながら呪い、スピーチをし、誓いをたてる。コードがあることによって無線マイクでは描かれ得ない何があぶり出されるのか。それは、行動範囲の限界や、踏みつけたり足をひっかけたり躓いたり絡まる恐れの視覚上での提示である。マイクを音声拡大の装置としてではなく長い紐を持つ「もの」として見た時、同じヨーク派内での縺れた権力闘争という『リチャード三世』というテクストの枠組みを象徴的に表していると解釈できる。

 また、マイクだけでなく電話も、メディアとしての用途から逸脱して「もの」としての存在が前景化される瞬間が用意されている。たとえばローレン・オニール演じるアン殺害の場面で、リチャードは彼女の首に電話のコードを巻き付けて絞める。そしてボスワースの戦い前夜にリチャードが見る夢の中でアンの幽霊が登場して彼を苛む時も、電話のコードがリチャードの首に巻き付けられる。マイクと同様、電話のコードは音声信号を伝達する目的から離れて、キャラクターを縛りつけ、行動の自由を奪い、窒息させる紐と化す。電話のコードで首を絞めるという演出については、テクストが書かれたエリザベス朝に存在しなかった機器を用いることで時代の移行を手っ取り早く示していると捉えることは出来るだろう。だが、リチャードが手近に置かれた「もの」として電話を用いるのは、単なる演出上の遊び心というよりも、彼が王権を握っているヨーク派の一員でありながら秩序を内破していく存在であることを表すために作用していると考えられるのである。

 このように、1970年代終盤の政治状況や時代精神の反映ではなく、1970年代のメディア機器の、薄く軽く小さな21世紀のそれとは比べ物にならないマテリアルとしての存在の強さに着目して本プロダクションを見た時、ヨーク内部に身を置きながら足を取られないように頂点へと這い上がり、障害となる他者を縛り上げてくびり殺すグロスター公リチャードというイメージが立ち上がる。冗談混じりで着想されたという「1970年代終盤の『リチャード三世』」は、舞台装置や小道具を通じてテクストの核となる部分を明快に取り出しているのである。
 演技空間の持つ閉塞感や有線機器が「もの」であるがゆえに放たれる圧迫感に潰されずに王冠を戴くまでになったリチャードも、最終的にはランカスター派のリッチモンドによって倒され、王権は彼の手から離れる。なぜ、リッチモンドにそのようなことが可能だったのか。本プロダクションで王権の移行がどのように描かれているかを、リッチモンドがメディア機器とどのように向き合い、それがリチャードとどう異なるかという視点から見ていきたい。

「媒介」としてのメディア機器とリッチモンド

 トラファルガー・トランスフォームド版ではリッチモンドの出番は増やされ、元のテクストでは別のキャラクターによる台詞が一部彼に割りふられるという改変がなされた(註5)。とは言うものの、リッチモンドに加えられた台詞の量は微々たるものであったため、(特に劇の前半では)舞台上にはいるものの沈黙を通している存在感の希薄なキャラクターとなっていた。だが、この「いるにはいるけれど沈黙しているリッチモンド」像は秀逸であった。一般的に『リチャード三世』が悪漢劇と捉えられていることからも分かる通り、リチャードは非常に弁が立つ。誰が誰の失脚を狙い、誰が誰の暗殺を謀っているかをうそぶき、他者の発言の弱みや隙をついて破滅へと追いやるという手段をリチャードはとる。そのようなリチャードに対する最大の防御は沈黙ということになる。こうして、多弁なグロスター対寡黙なリッチモンドという対比が成り立つのである。そしてこの対比は、蜂起以降のリッチモンドがリチャードに劣らぬ熱弁を振るうことで大きく変化し、リッチモンドがリチャードを脅かす存在として台頭したことが端的に示される。このように本公演では、リチャードからリッチモンドへという軌跡がより鮮やかなものとなっている。だからこそ、いよいよ末路が迫ったリチャードによる最後の独白「馬を、馬を!/馬と引き替えに王国をやる!」“A horse, a horse! / My kingdom for a horse!” (90, 拙訳) は、時代設定と乖離しているにもかかわらず、銃を構えるリッチモンドの前で転落を何とかせき止めようと足掻くリチャードの滑稽さを見事に表すこととなったのである。

【写真は「リチャード三世」公演から 撮影=Marc  Brenner 提供=Trafalgar Transformed 禁無断転載】
【写真は「リチャード三世」公演から 撮影=Marc
Brenner 提供=Trafalgar Transformed 禁無断転載】

 それでは、リチャードを追いつめるリッチモンドは、メディア機器をどのように用いているのか。リッチモンドがメディア機器を初めて使うのはリチャードを倒した後、幕切れ間近である。この時、下手前方に張り出した演技スペースから上手で臣下が構えるテレビカメラを見つめながら、リッチモンドは平和宣言を行う。チューダー朝の開祖、リッチモンド伯ヘンリー・チューダーがヘンリー七世となる決定的な瞬間である。しかしながら、リッチモンドは独白の間に舞台の前方と後方にいる観客へ視線を向けない。「ロンドン市民」や「イングランド国民」をどこか舞台空間の外部に想定した演出である。それどころか、ステージ・シートに座る観客に至ってはリッチモンドの姿は死角となって見ることができず、座席の前に置かれたブラウン管テレビを介して見るほかない。このようにリッチモンドは、リチャードのようにメディア機器を「もの」としてではなく「媒介」として用いているのである。

 ここで、リチャードが王権を手中に収める場面に着目すると、全く対照的であることが分かる。リチャードの場合、今まさに『リチャード三世』の上演が行われているトラファルガー・スタジオ1の観客たちに「ロンドン市民/イングランド国民」の役割を付与し、彼らの前で忠臣バッキンガムと共に茶番を繰り広げる。すなわち、常以上に足をひきずり自ら不具であることを強調して王になるにはふさわしくないと謙遜するリチャードに対して、バッキンガムは王座につくよう熱烈に勧め、最終的にリチャードが折れるという芝居をうつのである。グロスター公リチャードからリチャード三世となる瞬間は、パフォーマンスとして仕立てられ観客に目撃されるのである。リチャードが観客=市民ないし国民を目の前にした上演という形で王位簒奪の締めくくりを提示するのは、彼があくまで派閥内部から口八丁手八丁働かせて王冠を手に入れることと密接に関わっているだろう。リチャードが障害を排除する様を見つめてきたトラファルガー・スタジオ1の観客と劇中の「ロンドン市民/イングランド国民」をイコールで結びつけることは、王となるその瞬間までもが、絡み合った利害関係の隙間を縫うように王位継承権上位の者を蹴落としていった過程と地続きであることを表しているのである。

 他方、劇場に詰めかける観客には視線をくれず、テレビカメラを介して市民や国民と身体的・物理的距離を確保した状態でリッチモンドが王となることは、リチャードが王位に登り詰めた直後にフランスへと亡命してイングランドから物理的に離れることで難を逃れたことや、銃という身体的接触を必要としない武器によってリチャードの息の根を止めたこと、そもそもランカスター派の出という部外者であることとも結びついてくる。さらに、テクストでは言及されるのみであるが、リチャードの長兄エドワード四世の娘エリザベスとの結婚という「媒介」を通じてヨークとランカスター両派を結びつけることとも繋がってくる。内部から秩序を攪乱し戴冠したリチャードから王権を奪取するには、距離をとり、あくまで外部から責めたてねばならない。そして対立する二項を結びつけなければならない。そのようなリッチモンドの態度が、メディア機器への向き合い方にも表れているのである。

さらなる知的興奮に向けての課題と期待

 様々な場所で指摘されている通り、トラファルガー・トランスフォームド版『リチャード三世』をテクストとウィルソン政権末期の時代状況との連関という切り口から眺めると、踏み込みが足りず中途半端であったことは否定できない。しかしながら舞台装置や小道具という切り口から見ると、一見観客へのすり寄りに思われるプロダクションのコンセプトが、同じ派閥内の権力闘争が生み出す息苦しさと閉塞感や、リチャードからリッチモンドへという権力の移行の表象に対して有効に作用していることが明らかとなった。その点で「1970年代終盤の『リチャード三世』」というプロダクションの試みは実を結んでいたことが窺える。

 目の前に立ち上がる劇世界がどのようなものか探る喜びがトラファルガー・トランスフォームド版には確かにあった。この喜びがさらなる知的興奮へと発展するためには、本プロダクションで積み残されてしまった部分、すなわちテクストに描き込まれた主題と演出が付与する主題との間で取り結ばれるスリリングな関係性が今後のプロダクションで提示されることが求められるだろう。その上さらに、トラファルガー・トランスフォームドの理念である新たな観客を開拓して迎え入れるという部分もクリアーされ続けなければならない。まだ若いプロジェクトに課されたハードルは高いが、近いうちに軽やかに達成されるであろうことに期待を込めつつ、稿を締めくくりたい。
(2014年8月1日、2日観劇)

註1 公演プログラム参照。プログラムには、「不満の冬」の背景やコンテクストの解説に紙幅が割かれていた。このような配慮も新規観客の開拓というトラファルガー・トランスフォームドのミッションに則したものと推察できる。
註2 たとえばガーディアンのマイケル・ビリントンは、1979年に「不満の冬」という言葉が使われたのは「便利なキャッチフレーズ」としてであったため、『リチャード三世』の演出に使うにしても「洒落が利きすぎている」と指摘した。また、テレグラフのチャールズ・スペンサーは、わざわざ1970年代としなくても『リチャード三世』は十分現代に通用する複雑さを持つテクストであるとして、現代化に疑問を呈している。
参照:Michael Billington, “Richard III review,” The Guardian.
http://www.theguardian.com/stage/2014/jul/09/richard-iii-review-trafalgar-studios-lon
don-martin-freeman (2014. 08. 05 閲覧)
Charles Spencer, “Richard III, Trafalgar Studio, review,” Telegraph.
http://www.telegraph.co.uk/culture/theatre/theatre-reviews/10957012/Richard-III-Traf
algar-Studios-review-underpowered.html (2014. 08. 05 閲覧)
註3 筆者は通常の観客席とステージ・シートとで一回ずつ本プロダクションを見たが、ステージ・シートからは舞台前方で展開される重要な出来事が死角になっていた(王の肖像写真がヘンリー六世からエドワード四世、そしてリチャード三世へ、徐々に大きなものへと切り替わっていくなど)。それに対して、ステージ・シートに座らなければ見えない決定的な展開はなかったと記憶している。つまり、舞台空間で何が表象されているかという点で観客間に認識の不均衡が大きく生じたこととなる。本稿ではこれ以上踏み込まないものの、俳優と観客との物理的距離の近接以上の機能がステージ・シートにあったか否かは別途検討の余地があるだろう。
註4 たとえば劇の冒頭では、勝利にわき歓声をあげるキャラクターたちに向かって、マイクを手にしたリチャードが 「今や不満の冬も去り/ヨークという太陽の降り注ぐ輝かしい夏が訪れた」“Now is the winter of discontent / Made glorious summer by this sun of the York” (3, 拙訳) とスピーチを始める。だが、スピーチの途中でリチャードはマイクを離し、観客に向けて 「だが、俺は色恋に戯れる質じゃない」“But I, that am not shaped for sportive tricks” (3, 拙訳) と独白を始める。また、マーガレットがヨーク派への呪詛を吐く時にもマイクは用いられる。
註5 トラファルガー・トランスフォームドの公式Twitterアカウントによると、「元の戯曲ではリッチモンドはそこまで登場しなかった。そのため今回のプロダクションでは、元々他のキャラクターが喋っていた台詞を彼に振った」 “Richmond isn’t in the original play much, so in this production he has been given lines originally spoken by other characters.”(@TrafTransformed, 2014. 07. 15, 拙訳)とのことである。また、台詞が増やされたのはリッチモンドだけでなく、ケイツビーやティレルにも暗殺者の台詞が割りふられている。
参照:https://twitter.com/TrafTransformed/status/488795870729891841
参考資料:William Shakespeare. King Richard III. A Public Domain Book.
—. Richard III. Edited by Jamie Lloyd. London: Nick Hern Books, 2014.
    William Shakespeare’s Richard III. Trafalgar Studios. (公演プログラム)
    
【筆者略歴】
辻佐保子(つじ・さほこ)
1987年生。日本学術振興会特別研究員。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍(表象・メディア論コース)。研究対象はアメリカン・ミュージカルとミュージカル映画。ニューヨーク市立大学マーティン・E・セーガル演劇センターにて客員研究員。
    
【上演記録】
Trafalgar Transformed  Richard III
Trafalgar Studio 1(2014年7月1日―9月27日)
<CREATIVE TEAM>
DIRECTOR / Jamie Lloyd
DESIGNER / Soutra Gilmour
LIGHTING / Charles Balfour
SOUND & MUSIC / Ben and Max Ringham
FIGHT DIRECTOR / Kate Waters
VOICE & TEXT / Barbara Houseman
VIDEO & PROJECTION / Duncan McLean
HAIR & WIGS / Richard Mawbey
ASSOCIATE DIRECTOR / Richard Fitch
<CAST>
Martin Freeman / Richard
Alasdair Buchan / Ensemble
Simon Coombs / Tyrrel
Philip Cumbus / Richmond
Madeleine Harland / Ensemble
Julie Jupp / Ensemble
Gerald Kyd / Catesby
Joshua Lacey / Rivers
Paul Leonard / Lord Stanley
Gabrielle Lloyd / Duchess of York
Forbes Masson / Hastings
Paul McEwan / King Edward VI/Bishop of Ely
Gina McKee / Queen Elizabeth
Mark Meadows / Clarence/Lord Mayor
Vinta Morgan / Duke of Norfolk/Ensemble
Lauren O’Neil / Lady Anne
Maggie Steed / Queen Margaret
Jo Stone-Fewings / Buckingham

    

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