革命アイドル暴走ちゃん「騒音と闇 ドイツ凱旋ver.」

◎変わらないこと、変わったこと
 水牛健太郎

 二階堂瞳子が主宰していたバナナ学園純情乙女組(以下、バナナ学園)が公演中のトラブルにより、活動を休止したのは2012年の末のこと。それから1年9か月を経て、「革命アイドル暴走ちゃん」(以下、「暴走ちゃん」)なる新団体を率いて二階堂が東京に戻ってきた。ドイツで公演を成功させて戻ってきたという触れ込みだ。公演では「逆襲」という言葉も使われており、バナナ学園のリベンジ戦という位置づけを、堂々と打ち出している。

 若い男女による集団パフォーマンス、爆音、群舞、めまぐるしい展開、映像の使用など、やっていることの基本線は同じであり、その意味で「暴走ちゃん」がいわば「第二期バナナ学園」であることは歴然としている。それにも関わらず、公演を見て受けた印象はバナナ学園とはかなり違っていた。

 バナナ学園にあった混沌がかなり整理された。もちろんバナナ学園のパフォーマンスが感じさせた混沌も、十分コントロールされた一つの表現だったのだが、「暴走ちゃん」ではコントロールがより目に見える形になっている。

 中でも、性的な表現がほぼなくなったことが大きい。スクール水着だって性的なニュアンスはあるが、本当にそれぐらい。バナナ学園ではパフォーマーが観客の膝に乗ってグラインドしたりするというのが定番だったが、これもなくなった。また、観客にカッパを配って水をどんどんかけるのはバナナ学園と同じだが、プラスティック容器を持ったパフォーマーが一列に並んで一斉にかけるなど、水のかけ方がシステマティックな印象を与えるものになった。不意打ちが減った分、観客に安心感を与える。

【公演のようす。撮影:Cyclone_A、提供:革命アイドル暴走ちゃん、禁無断転載】

 こうしたことは全て、かつてのトラブルの教訓を踏まえたものなのだろう。観客との境界を侵犯していくことがかつてのバナナ学園のパフォーマンスの興奮を生み出していたのだが、その「侵犯」こそがまさに問題となった点でもあった。「暴走ちゃん」のパフォーマンスでは、観客とパフォーマーの間に、はるかに明確な一線が引かれている。これはもう、仕方ないというほかはない。かく言う私は事件後、バナナ学園に変化を迫った人間の一人なのだから、なおさらである。

 そして姿をあらわしたのは「表現」への意思である。バナナ学園のパフォーマンスも一つの表現であるには違いなかったが、何を表現しようとしているかは、混沌に紛れてほぼ分からなかった。ただエネルギーを体感するばかりだった。だが「暴走ちゃん」ではステージにじっくり目を向ける余裕があって、観客にはそこに何かを読もうとする欲望が生まれる。そのことは作り手も明らかに分かっていて、読み応えのある何かを提示しようとしている節があった。

 とはいえ、今のところはまだ生煮えだ。イコンとして掲げられたのは寺山修司。何人ものパフォーマーが寺山の顔写真をお面としてかぶり、寺山作品の引用のように、赤い鳥居やキツネの面、マント付きの学生服が登場する。クライマックスではマント付き学生服の一団が「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲を歌いながら一列になって行進する。

 「バナナ学園」でもよく使われた椎名林檎の曲も含めて、先行する表現者へのオマージュないし、彼らの表現のコラージュという感じである。特に寺山への傾倒は、「お騒がせ」の大先輩への敬意というか、何か「お守り」のような感覚も感じられて面白かった(余談だが、「お守り」と言えば、当日パンフに椹木野衣の文章を載せるなど、その最たるものだろう)。とはいえ、独自の表現としてはまだ成立していない。

 「表現」ということを考えるのならば、気になったのはタイトルである。「騒音と闇」というが、ふんだんにあった騒音はともかく、私には「闇」が見えなかった。

 タイトルに「闇」という言葉が入っているからには、仮にノリで付けたタイトルであったとしても、作り手は「闇」に興味があったわけである。じゃあ「闇」とは何か。闇はどこにあるのか。闇を表現するにはどうしたらいい? ちょっと面白い練習問題ぐらいにはなるかもしれない。

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランドスタッフ。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。2014年9月より、慶應義塾大学文学部で非常勤講師。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro

【上演記録】
革命アイドル暴走ちゃん 東京デビュー戦「騒音と闇 ドイツ凱旋ver.」
こまばアゴラ劇場(2014年9月25日〜30日)

構成・音楽・演出 二階堂瞳子
出演 加藤真砂美 アマンダ ワデル 高村枝里(以上、革命アイドル暴走ちゃん) 相原 歩 安藤ゆかり 伊藤彩奈 伊谷亜子 金佳奈実 高麗哲也 小林ありさ 佐賀モトキ 紗弓 鈴木もも 染谷彩花 ダイナマイト・バディ夫 竹田有希子 出来本泰史 飛田大輔 橋本考世 廣瀬 瞬 藤田一陽 藤本紗也香 宝保里実 堀井和也 森 みどり 谷田部美咲 山岡貴之

舞台監督/森下紀彦 
映像/矢口龍汰 
照明/伊藤 孝 
音響/筧 良太 
衣裳/スガナミタカユキ
演出助手/安藤達朗 杉山 幸 服部無双 寺澤亜彩加 長谷川 弘
記録撮影/Cyclone_A 
チラシ・BGI Design/ホシマリ 
題字/加藤真砂美 
映像撮影/矢口龍汰 樺澤 良
制作協力/森澤友一朗 WEB・DVD
編集・制作/樺澤 良
提携/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催/革命アイドル暴走ちゃん

チケット料金
早割(25日20時&26日16時、事前精算)2,800円
事前購入割引(事前精算)3,200円
Tシャツ付き(当日渡し、事前精算)5,800円
高校生以下(要学生証提示、事前精算)1,000円
超暴走チケット(10ステ分、事前精算)30,000円
当日精算・当日券3,500円
※早割の当日精算、当日券は+400円

 

 

「革命アイドル暴走ちゃん「騒音と闇 ドイツ凱旋ver.」」への1件のフィードバック

  1. 《騒音と闇》を観劇した、一観客として申し上げますが、ちょっとその言い草はひどいと思います。

    「読む―読まれる」という劇場の制度から逸脱し、《劇場》そのものを新しく打ち立てようとした、そして、わたしたちに暴走を強いる膨大なイメージ群を受難し肉化することで、(かつてのダダのように)時代と関係を切り結ぼうとした、バナナ学園に対して「何を表現しているかわからなかった」。それでもって、「事件後、バナナ学園に変化を迫った人間の一人」にもかかわらず、自らは全く傷つくことのない批評家様の高みから「独自の表現としてはまだ成立していない」と宣うのですか?

    「だが「暴走ちゃん」ではステージにじっくり目を向ける余裕があって、観客にはそこに何かを読もうとする欲望が生まれる。そのことは作り手も明らかに分かっていて、読み応えのある何かを提示しようとしている節があった。」

    と、筆者が言う、劇場の制度をこそ、疑うべきであるのに。そこに演劇を閉じ込めようとする人によって、劇場が全くつまらない、というか時代に追いつかない場所になっていることを理解しないで、バナナ学園から暴走ちゃんに至る活動に対して、何が言えるのでしょうか?

    つまりは。
    私が言いたいのは、自ら「バナナ学園に変化を迫った」と述べているにも関わらず、それまでの活動の意義と、現在の活動の可能性を見ようとしないで、高見の見物をする「善意の視線」に、非常に腹立たしい想いがしたことです。

    関わるなら、相手の立場を理解した上で関わり、理解し得ないのであれば放っておくことが、大人としての態度なのではないか、と思います。こうした公共性を持つ批評のサイトで、誰かの可能性をつぶすような感想は無意味でしょう。

    私も筆者の背景を知っているわけではないので、このコメントもあまり大人なコメントではないでしょうが、しかしそれでも、これはあまりにも・・・です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください