世田谷パブリックシアター「現代能楽集 VI 奇ッ怪 其之弐」

◎<劇的>なるものの威力
 高橋 英之

「現代能楽集VI『奇ッ怪 其ノ弐』」公演チラシ 「このあとすぐ、アレが、この村を襲ったんだよ」

 このセリフと同時に、全ての光が失われ、音が止み、舞台の上で繰り広げられていた希望あふれる村の祭りの準備の雰囲気がたちどころに消え、正に、<劇的>なるものが降臨した。
 劇作家・木下順二は、<劇的>なるものの効果として、「逆転を伴う発見」ということ指摘している。能の物語ではなく構造そのものにチャレンジした前川知大の『現代能楽集』は、紛れもなく<劇的>なるものを舞台に立ち上げた。死者として舞台に立つシテと、その姿をひたすら見守ることによって魂の救済を試みるワキ。死者と生者の出会いとなる前場と、死者たちの記憶の場を呼び覚ます後場。この夢幻能の構造の力を借りて、前川知大は衝撃的な「逆転を伴う発見」をもたらしてくれた。
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Ort-d.d「女中とアラスカ-不条理劇二本立て公演-」/ジャン・ジュネ「女中たち」

◎女中たちの自壊する嘘の世界に、大山金太郎の幻を見た
 高橋 英之

 舞台を見ながら、奇妙なシンクロをしてしまった。こともあろうに、あの大山金太郎と。そう、『熱海殺人事件』(作:つかこうへい)のあの犯人役と。

 大山金太郎「なしてね、おいが職工じゃからね」
 ソランジュ「わたくしは女中です」

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青年団「砂と兵隊」

◎女優・村井まどかの微妙に歪む唇に、平成のロマンチック・アイロニーを見た
 高橋 英之

「砂と兵隊」公演チラシ兵士・西川 「いや、そりゃ、まあ、砂漠ですから」(閉じられた唇)
新婚・妻  「同じ砂漠じゃん」(開かれた唇)
家族・次女 「全部、砂漠じゃん」(微妙にゆがんだ唇)

 うっかりしてた。日本がイラクに派兵をしたことなどすっかり忘れてしまっていた。いや、もちろん、うっかりなどという表現は不適切だろう。正確にいえば、「忘れていた」わけでもない。その単語を聞けば、「思い出す」ことなどさりげなくやってみせることはできたはずだった。2003年12月、専守防衛を憲法に刻み、世界10傑に入る軍事予算を持つ組織をあえて「自衛」隊と呼んでいたにもかかわらず、小泉劇場と呼ばれた当時の政治が一大決断をしたはずのイラク派兵。首相が「自衛隊の活動している地域は非戦闘地域」という冗談のような答弁をした翌年に発表された『砂と兵隊』が、そうした日本の時代的状況を背景にしていることは疑いもない。ところが、かくも重大とされたことが、記憶としては存在していても、問題意識としては淡くも消え去ろうとしていた。劇場の席に座って、当日パンフレットに目を通しながら、そのことに気づいてやや愕然とした。しかし、それは仕方のないことだ。なぜならば、自分は、派兵が決定された当時も、そしていま現在も、歴史の傍観者にすぎないからだ。いや、少なくともこれは自分だけではない。何よりも、舞台の上の登場人物たちがそうであった。
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中野成樹+フランケンズ「寝台特急”君のいるところ”号」

◎ホンモノを構成する重要なソーントン・ワイルダーのニセモノに東京で出会う
髙橋英之

寝台特急ホンモノに出会う旅は、必ずニセモノから始まってしまう。それは、ホンモノであるがゆえに、数多のニセモノが登場してしまうためだが、そのニセモノの中には時として単なる偽物として切って捨てることができない存在になってしまうものがある。『寝台特急“君のいるところ”号』がそうしたニセモノのひとつであるかどうかは、こまばアゴラの席に着いた時は知る由もなかった。不幸にして、中野成樹+フランケンズという名前も、ソーントン・ワイルダーという名前も、全く知らなかったのだから。

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