#4 中野成樹(POOL-5+フランケンズ)

アメリカ現代戯曲リーディング公演

中野成樹さん柳沢 アメリカの話が出たところで、アメリカ現代戯曲・劇作家シリーズのリーディング公演についてうかがいたいと思います。ジュリー・マリー・マイアット作『セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン』の演出を担当されるそうですが、女性の作品を女性演出家ではなく、あえて中野さんに振ったというわけでしょうか。

中野 どうしてでしょうね? いまは台本を読んで、どうしようか考え中です。しかし、リーディング公演ってのは何をどうやりゃいいでしょうかね(笑) 海外じゃ、きっとリーディングがあって、それをいろんな劇場の人がみにきて、いいと思ったらその作品を買って本公演をやるとか、そういったシステムがあるのかな?

正直、日本で行われるリーディング公演ってのは、いまいち正体が見えづらい気がします。プロデュースする側からすると予算を抑えられるし、海外公演をみたことのある研究者も口を挟みやすかったりして「アカデミックでいいじゃない!」「新しい可能性が見えるじゃない!」ということなんでしょうか? でも、とりあえずはきっちりした戯曲の紹介が求められてるのだろうし、しかしもう一方ではその戯曲の紹介に学者や研究者ではなくて多様な演出家が起用されるのは、お前のスタイルを見せなさいということでもあるのかな、と。おそらくこの二つが同時に求められているのだろうなといまは思ってますけど、リーディングで自分のスタイルをきっちりみせるのは難しいだろうな…というか、おれスタイルなんてないしな…とか、日々もんもんと(笑)。まず第一に作品を紹介すべきなんだからそうしようと思っても、例えば分かりやすく物語だけを伝えればいいのか、それとも先にお話ししたように作家が持っているだろう演劇を伝えればいいのか、作家が作品を書いた動機を紹介すればいいのかなど、いろいろ考えます。多分そのあたりの軸をはずしてしまうと、どうにもならない時間が過ぎていくだけになりそうですから。なんで、いま何となく考えているのは、だったらいっそ客さん全員に戯曲を配って、本当に全員で活字をおってみようかなとか。

柳沢 誤意訳というキーワードは今回も掲げるんですか。

中野 今回ははっきりとした翻訳者の方がいますからね。しかも、本邦初演で翻訳されるのも今回が初めてだし。演出上どうしてもテキストを変えたいという個所は出てくるかもしれませんが、リーディング公演でもあるし、誤意訳は名乗らないかもしれません。でも、誤意訳ってのはある意味、人との付き合い方への意思表明であると思ってもいまして。だから、こういう機会にこそ誤意訳を名乗るべきなんじゃないかなとは思ってますが。でも、なんせ今までは作者と会うことなかったし、多くの人は死んじゃってるし。でも、今回は生きてるからなあ(笑)。だからこそ誤意訳を貫かなきゃいかんとも思うけど、あっさりと揺らいじゃうかもしれませんね。作者、美人だし(笑)。そもそも誤意訳って何だよと言われると、なかなか明確な答えを持てていないので、逆にとてもいい機会だと思っています。

柳沢 どういう答えが出るか楽しみにしたいと思います。

ことばのフォルムと誤意訳

柳沢 年末にSTスポットで開かれた「創造者remix」公演(注10)はいかがでしたか。ペピン結構設計の石神夏希さんが書いた『新聞のすみっこに載ってる小説』の演出・出演でしたね。

中野 フランケンズ公演と比べると、まず作者が日本人だということが大きな違いです。あとやっぱり(作者が)生きてる。それで何が違ったかというと、石神さんが締め切りを大幅に遅れやがった(笑)。既成の翻訳ものなら締め切りが遅れるなんてことはないですからね。まずそこに気付きました(笑)。実際、日本の演劇では、これってかなり大きなことではないかと実感しましたね。その点フランケンズは、上演台本が多少遅れることがあっても、原作はずっと前からある。これが最大の違いかな。でも、そのほかの違いはそれほどなかった。

細かいことだと、舞台が日本で時代は現代だったから、ちょっとした所作やことば遣いのウソが利かないなあという怖さはあった。きっとみんなすぐ違和感を持つだろうし。あいつ下手だってすぐ思われちゃう。翻訳劇はそのへんのごまかしがいくらでも利くだろうし、というか、そのごまかしや開き直りこそがおもしろさの一つになるんだろうし。石神さんの本も同じようにやってみようと思ったけど、そうしたらショートコントっぽくなっちゃった。舞台が日本で現代だと、ウソとしても提示しにくいんだなあと思いました。本気でナチュラルにやるなら岡田君(が取り入れている超リアルな日本語)まで行かなきゃだめだなとも思ったし。だから、現代日本の設定で戯曲を書く人は、みんなはどのへんのところで妥協しているのかなあとも思いました。岡田君のせりふも結局はそうなんだけど、台本が書かれた時点でそれは文語じゃないですか。役者がせりふを覚えた時点で文語じゃないですか。じゃあ、その文語はナチュラルな会話の完全な再現をやりたいけどここまでしかできませんでしたという結果なのか、あるいは日常っぽい会話なんだけど詩や俳句、短歌のように磨き上げられたものなのか。だから、そのときは石神さんの本はそのどっちなのか探っていこうと思った。結果としては、石神さんは自分で私は詩人だと言っていたから、きっと詩なんだと思ってやりました。

例えば俳句と短歌って、まるきり違いますよね。俳句は風景をとか、短歌は感情をとか。よく知らなくてすいませんが。そういうような大きな違いが、きっと戯曲にもあるだろうと思う。その一つのジャンルに翻訳劇があって、翻訳劇のせりふは翻訳されているけれども、ぼくは詩だと思っていて、翻訳劇という詩が大好きなんです。語尾とか大好きです。「…だもの」とか「…ですわ」とか、「お母様がそうおっしゃるのなら、きっとそうなのだと思いますわ」みたいな。音としてきれいだなって。

柳沢 ことばのフォルムが成り立っていて、詩としてあるレベルを保っていたら、翻訳劇でなくても日本の戯曲でも取り組んでみたいということですか。

中野 そうですね。取り組んでみたいですね。

柳沢 むかし岩松了作品を取り上げたときも、そういう関心がありましたか。

中野 当時はそこまで考えていませんでした。

柳沢 そうすると今回は、自覚的に日本の戯曲と取り組んだ初めての体験だったわけですか。

中野 そうですね。でも、じゃあ日本人のだれの作品を上演したいかと問われると、どっかでやはり歯止めのかかる部分もある。その正体は何なのかなあ…。距離が近いということかなあ。

柳沢 日本の現代詩と日本の現代戯曲は多分、問題を共有していると思う。それは、韻文との緊張がないということではないでしょうか。西洋の古典戯曲はシェークスピアにしてもモリエール、ラシーヌにしても、みな韻文で書かれているじゃないですか。戯曲を翻訳する時点で、原作の韻文性をどう日本語の形にするのか。ほとんどの翻訳戯曲において、その問題点がごっそり落ちている。日本の現代詩も五七五からいかに離れるかを考えてきたけれども、結局ただ改行すればなんでも詩になっちゃうだけ、という高橋源一郎の指摘(『日本文学盛衰史』)もあるぐらいです。逆に翻訳戯曲にことばのフォルムがある、詩的な響きがあるという中野さんの指摘はとても納得しました。モリエール原作『ラブコメ』公演のとき、ことばとしての美しさを感じたのですが、その辺の問題に普段から自覚的に取り組んでいるということが分かりました。演劇のことばを考えるとき、この点は忘れられていますね。

中野 そうかもしれないですね。

柳沢 ストーリーとキャラクターとライブ感のようなことだけではない、演劇の肝の部分があって、その一つがフォルムだと思います。中野さんは翻訳劇を通じてそこに出会ってる。いまの日本に腐るほど公演があるんだけれど、そういう点を直視している数少ない演出家の1人だと思うので、中野さんにはぜひ頑張ってほしい。

中野 なるほど、フォルムね…。きちんと考えたいですね。そう言われてあらためて自覚的になれましたね。

柳沢 翻訳するときに、その原作は日本に紹介されるほどの完成度があって、翻訳家はそのことばのフォルムと格闘しなければいけない。その結果として残っている翻訳作品にはやはり、光るものがたくさんあると思う。眠らせてしまうには惜しいですね。その生かし方に中野さんなりの工夫はいると思いますが。

中野 いま日本語で読める翻訳ものってのは、特に古典やもはや古典だろうと思われる作品はある意味で保証付きという面がある。だってわざわざ翻訳するくらいなんだから、ストーリーはおもしろいし、構成はしっかりしているし、テーマはぶれてないし。さらには、きっと日本語としても美しい。翻訳された方が相当な苦労をされた結果でしょう。ぼくはその翻訳されたものをさらに翻訳しちゃってるんだけど、フォルムね…。

よく「誤意訳」とは何かと聞かれますが、さっきチラリといった通り、ぼくはそこにいろんな意味合いを感じています。具体的な作業としては、原文があって出版されている翻訳があって、ぼくはそれを元に好き勝手に書き直している。原文が英語のときは一応原文も当たるけど、他の言語のときはやっぱり難しいので、できるかぎりたくさんの翻訳版を手に入れて、全体のイメージをつかんで、ふくらませて、好き勝手。登場人物を増やしたり減らしたり、新たなシーンを挿入したり。例えば結末とかお話の流れを大きく変えることはないですけど、でも演出とか構成ってことばじゃないレベルの変更をしている。だから、著作権の問題をどうクリアすればいいのかなという不安はある。もちろん毎回、この人の翻訳がベースになってるっていうのはある。でも登場人物が増えちゃって、新しいシーンがあったら、やっぱりもう原作とは違うのだろうし。タイトルは毎回原作とは違ってるし。本来あるべきシーンがまるきり別のシーンになってたり、親子の関係が親にすてられた兄弟の関係になってたり。でも、フォルムでいったらその翻訳のフォルムを維持しようとしてはいるのだろうし。

誤意訳か…。誤った意訳ですからねえ。でも、やっぱりそういった具体的な作業よりも、おおざっぱで間違った理解かもしれないけど、でもでもその相手と付き合ってみるという意思表明なんだろうなあ。あるいは、どんなに丁寧に人と付き合っても、相手の本当のことなんて分かりゃしねーだろうという価値観とか。もしかしたら、それはぼくの求めている演劇そのものなのかもしれないですけど。さっき言った「ウソ」の先に「誤意訳」ってことばがあるのかもしれない。だから早いとこ、中野は誤意訳という演劇を持っていると言われるようにならなきゃいけませんね。そのためには、もっとわかりやすくクリアにすべき問題点をひとつひとつ解決しなくてはいけない。山積みですが(笑)。>>

注10)創造者remix
2005年末、横浜のSTスポットで開かれた公演(2005年12月22日-24日)。スパーキングシアター‘05 「創造者remix」。石神夏希作、中野成樹演出(STスポット契約アーティスト)『新聞のすみっこに載ってる小説』と鈴木ユキオ×ドン・キホーテ」。