#6 内野儀(舞台芸術批評)

◇悲劇でも喜劇でもなく

モーターサイクル・ドン・キホーテ公演チラシ(表)クリックすると画像が拡大します内野 常識的な思考からすると、今回のプロジェクトと宮沢さんはミスマッチかもしれないのですが、だからこそやってみる価値がある、と思ったんです。名前を挙げるのはどうかと思いますが、このプロジェクトなら、まあシェークスピアなんですから、蜷川幸雄さんや野村萬斎さんに声を掛けるのが順当かもしれません。予算的にどうよ、という問題はあるにせよ(笑)。でも、海外公演をしたり海外で有名だったりする人ではなく、とりあえず国内で、国内的な関係のネットワークに足場を置きつつ、思考を深化させている宮沢さんだからこと、何か起きるのではないか、という思いはありました。

そこで宮沢さんにはこれこれしか資金はない、ワークショップはどうかと声を掛けたら、わりとすぐ、ちゃんとした公演にした方がいいという話になった。最初からじゃあないんです。プロジェクトに関して私もよく分かっていない、当然のことながら宮沢さんも分からない。一体何なんだ(笑)。でも遊園地再生事業団は2006年の本公演がなかった。じゃあやってみたらどうかと、話がそういう方向になったんです。

そういう判断を固める前にもう一つ重要だったのは、ドラマターグをエグリントンみかさんが引き受けてくれたことです。私にはシェークスピアやルネッサンス文化に関して、宮沢さんに聞かれて答えるだけの知見がないわけですから、ドラマターグとして働いてくれる方が必要だと思っていました。エグリントンさんは博士論文執筆中の若手のシェークスピア研究者ですが、翻訳もされているし、東京国際芸術祭(TIF)で中東の劇団の公演でも仕事をされている。彼女がドラマターグの仕事をしてくれればこのプロジェクトができるかなと思った。アメリカ側との連絡など事務的仕事があるのと、シェークスピアの専門家なので宮沢さんの問いにも答えられる。彼女が引き受けてくれたからこのプロジェクトができると思った。最初の段階で彼女が「ドン・キホーテ」やカルデーニオに関する資料をそろえてくれて、宮沢さんに渡してくれました。

-いくつかの資料に見られる「カルデーニオ」物語と、宮沢さんの「モーターサイクル・ドン・キホーテ」はプロット的にずいぶん様変わりしているんですか。

モーターサイクル・ドン・キホーテ公演チラシ(裏)クリックすると画像が拡大します内野 宮沢さんは「ドン・キホーテ」そのものを主として参考にしたんじゃないでしょうか。一方で、グリーンブラットさんらの戯曲があって、それを反面教師的に扱ったという側面もあります。シェークスピアが書いたということで出版された2つの戯曲はどちらも悲劇です。セルバンテスの「ドン・キホーテ」のカルデーニオ挿話は悲劇的でもあるが、最終的には喜劇になっている。悲劇か喜劇か問題ではあるんですが、宮沢さんは悲劇でも喜劇でもなく、中間的なところに落ち着かせたと思います。プロット的には「ドン・キホーテ」に添っていますね。恋人が自分を愛しているかどうか信じられないので友人に口説かせる、というモチーフはシェークスピア的でもあるし、実際これはグリーンブラットとミー・ジュニアの書いた戯曲にも出てくる。宮沢さんの作品に出てきた劇中劇構造は、グリーンブラット作品にも登場します。ただグリーンブラットさんらの作品は、いってみれば無駄な部分をとことんそぎ落として、現代イタリアを舞台にしたすごく明るい作品です。むしろこんなに明るくていいのかと思えるくらい、現実味がない。そんな作品の中で、シェークスピアの失われた戯曲を結婚式の参加者と一緒にパーティーで演じる場面が出てきます。劇の中心は、恋のさや当て的なプロット展開になっていて、結婚しそうになっていた2人とその友人たちのあいだで、もつれた恋愛感情が生じ、場合によっては悲劇にもなりうるんだけれど、結局それぞれは収まるべき相手に収まってハッピーエンドになります。宮沢さんの作品はそれに比べたら日常的というか、あり得るような設定になっていました。にもかかわらずというか、だからこそ、というか、最終的にあらゆる関係が曖昧になっている。

◇「お題」をもらってしっかり書く

-グリーンブラットさんが来日して公演をみたそうですね。

内野 宮沢さんの作品のプロットを翻訳して送りましたが、最初、映画「イージー・ライダー」を参照項にするかもしれないというようなことを話したら、驚かれて「うまく行くはずがない」と思ったみたいです。でも実際に見られたときには、そんなことはなくて、確かに多少は驚いてましたけど、「われわれは曖昧なものをわざとそぎ落として明晰な喜劇を目指したのに対して、宮沢作品はわれわれの作品のネガになっていて、人間関係がきわめて複雑で感情も入り組んでいて、しかも一筋縄でいかないような筋書きにしたことが興味深い」とおっしゃっていました。

-このプロジェクトは明瞭な素材や枠組み、基準が与えられず、大幅な自由が取り組み先に与えられているとしたら、それぞれの国や文化の態様や影響を受けた上演を国際比較するという研究課題自体は成立するんでしょうか。

内野 いやあ、私もずーっとそう思ってました(笑)。宮沢さんに聞いてみないとわからないんですが、作者にとってはお題を与えられた、ということじゃないでしょうか。そういう感じのようですよ。宮沢さんは劇作家の面が強いから、戯曲を演出しろと言えばやらないことはないでしょうけれども、そういうことにはあまり興味がない。ただ今回の場合は、自由に書くのではなく、お題をもらったという感じです。戯曲を書くのに、ある程度の縛りがあったわけです。あるトークの席で彼も「縛りがある方がいい」と話していました。「ある縛りがあるということで、しっかりした劇を書こうとした」とおっしゃっていました。その結果、テキストレベルでは普通の芝居というか、構造がしっかりとある骨太の戯曲になったということです。ですから、自由とは言っても、縛りとしての枠組みは絶対的にあるので、そこが比較ということへと繋がっていく。この作品を上演してくださいとなると、それは単に翻訳上演になるわけで、別に研究課題にするまでもなく、普通にやられているわけですから。

◇「新歴史主義」と「文化の流動性」

-今回の「文化の流動性」(cultural mobility)という考え方は、グリーンブラットさんの新歴史主義理論とどう重なるのですか。

内野 たとえばシェークスピアを取り上げるとき、普通はテキストの内部で考えます。こういうテーマがある、とか、そういうことですね。あるいは古い歴史主義であれば、こういう歴史的背景があったから、テキスト内の物語が、あるいは登場人物の形象がこうなったんだと説明しようとします。新歴史主義はそれとは明らかに違っていて、同時代の、抽象的に言えば文化的エネルギーと言うのかな、イデオロギーと言ってもいいんですけど、そういうものを参照します。どういうことかというと、同時代の歴史文書や政治文書を見ていって、そこで使われているレトリックやイメージ、あるいは恋愛に関するロジックを分析し、じゃあ、同じようなロジック、テーマ、イメージなどをシェークスピアは自身の作品でどう扱っているかを見ていく。実際その時代を生きていた人たちが何を感じ何を思っていたかは、いまのわれわれにはわかりません。しかしいろんな文献を当たっていくことによって、その時代の人々の感覚的なことが理解できるとするならば、それらと、対象となるテキストに書き込まれた感覚的な事柄がどういう関係にあるかを、それとも、その二つを関係づけるロジックは何かレトリックは何か、というようなことを見ていくんです。だから文学や演劇のテキストをそのものとして特権化するのではなく、テキスト内部に見えるロジックや感覚にまつわる多様な問題群を、ルネッサンスというか、シェークスピアが生きたエリザベス朝時代の大きな意味での社会文化政治的環境との往還関係のなかで、見ていく立場ということになるでしょうか。

今回のプロジェクトの場合、いまのグローバル化した世界で、ローカルな場所と関係でものを考えていく人たちが一方にいて、その対極にはハリウッドのようなグローバルな文化がある。今回のような単に異文化というだけでなく、歴史的にも異なる時間にあるテキスト、そうした関係から出てきた物語とか恋愛という主題を、ではローカルな水準でアーティストはどう扱うのか、どう扱いうるのか。そういうことが「文化の流動性」という言葉で現される問題意識なんだと思います。恋愛はある意味で普遍的でしょうが、ルネッサンス期のヨーロッパ、グローバル化したとされる西欧世界、それに、現代の日本では、その表れ方やそれが持つ意味や価値が明らかに違う。それらは時代や文化によって、あるいは階級によっても、違います。その点を考えてみる、ということだったのではないでしょうか。

◇伝統演劇より同時代の問題性を

内野 もう一つあって、それぞれの文化の中に強い伝統的な演劇があって、たとえば日本には歌舞伎や能、狂言があって、そこに異文化のテキストがどう受け入れられるかということがあります。私は意識的に外しましたが、おそらくグリーンブラットさんは当初、そのあたりを考えていたのではないかと思います。高橋康也先生が手掛けていらっしゃるんですが、シェークスピアの戯曲に出てくるファルスタッフを主人公にして、狂言の「法螺侍」を作ったりされていました。おそらく今回も、シェークスピア的な喜劇を、伝統演劇的な枠組みでやってみる、というようなことが当初、想定されていたんじゃないでしょうか。私はシェークスピアの専門でもないし、伝統演劇の専門でもありません。ですから、それはそうだよねということで(笑)意識的に外したつもりです。そうしないと同時代の問題性は出てこないと思ったんです。伝統演劇はありますから、それでシェークスピアはできるでしょうが、だから何?ということになってしまう。

次はインドでやるらしいのですが、インドでは伝統演劇のスタイルで今回のプロジェクトをやるようです。やればできるんです。狂言の形式を使うというような入り方をすれば。インドの伝統演劇カタカリなんかでも、同時代的社会文化政治問題を、シェークスピアを使いながらラディカルに演じている人たちもいるくらいです、やればできます。でも私としては、日本というと伝統演劇を期待されるのは、当然なのかもしれませんが、ちょっと違うと前から言いたいと思っていたということがあって、あえて外したいと思いました。それで宮沢さんかな、と思ったわけです。

-伝統演劇のスタイルで所与のテキストを演じるだろうという先方の期待は、暗黙のうちに抱く予断や固定観念を増幅させかねないということだったのでしょうか。

内野 日本の文化といえば、伝統物だっていうのは、まあ、ずっとあるわけですね。西洋的な視線からは、という限定が必要ですが。それが単にオリエンタリズムだとは言えない面があるとすれば、たとえば新劇のシェークスピア上演を見て、英国人が、何かを発見するかといえば、しないでしょう? 何で猿まねするのとは思うでしょうが(笑)。どこが違うのかわからない。異文化には明示的に違うものを期待するのが、「自然」です。で、能や歌舞伎は英国にはないですからね(笑)。蜷川幸雄さんだって、最初はそういう「違い」を強調する演出をしていましたが、向こうに受け容れられてゆくプロセスのなかで、いわば「英国」対「日本」という図式から抜け出して、「ニナワガの演出」という固有性を獲得していった。それは作家性を発揮しないでテキストに語らせるということはヨーロッパ大陸では単にアナクロですが、英国では標準的な方法論だったといえます。

ただ、じゃあ、このプロジェクトにどういうアーティストがよいか、ということに関しては、私個人の勝手な考え方ではなくて、実はグリーンブラットさんは、日本の現代演劇を数多く招聘しているニューヨークにある ジャパン・ソサエティーに聞いてみたら、このプロジェクトを実現できる劇作家として宮沢章夫さんと川村毅さん(注7)の2人の名前が挙がったそうです。川村さんの名前を出しちゃうと、なんでオレに来ないんだと言われると困るんだけど(笑)。川村さんは最近作風が変わりましたが、西洋古典を扱うと創造的に壊してしまうという感じでしょうか。それもおもしろいともちろん思っていて、宮沢さんが断ったら川村さんにお願いしようと思っていたくらいです。単純にどっちが上っていう順位があるわけじゃなかったんですが、川村さんは若い時からすでに国際的に活躍されていて、海外公演も多い。ニューヨークでアメリカ人俳優を使った演出もしている。一方宮沢さんは、国内的な関係に足場を置いてずっと活動をしてきた。で、私としては、まず宮沢さんに、今回のプロジェクトのような、今までの関係とは明らかに切断している文脈での上演というのを投げてみたいと思ったわけなんです。>>

注7川村毅
1959年 12月東京生まれ、横浜育ち。作家・演出家・俳優・T factory主宰。1980年 劇団第三エロチカ創立。以来全作品の演出、劇作を担当。 1985年 「新宿八犬伝 第一巻-犬の誕生-」で第30回岸田戯曲賞を26歳で受賞。ほかに「ニッポン・ウォーズ」「マクベスという名の男」「ハムレットクローン」など。映画、テレビなどに作品を提供。’02年より京都造形芸術大学助教授。
http://www1.odn.ne.jp/info/t_factory/tkroom/pro/index.htm(川村毅 プロフィール)