芸術政策の転換を
-文化芸術政策に熱心なのは民主党ですか。
平田 いや、表に出ている政策としては、民主党がだめダメなんです。ご承知のように、二大政党制になると、中間政党の方が文化政策に熱心になる傾向がどの国にもあって、日本でもいちばん勉強しているのは公明党と共産党です。そこの議員がいちばん勉強している。それと、文化政策は、政局の取引材料にしやすい。二大政党制になったときに中間政党が取引材料として教育とか文化とか、自分の党の機関誌の見出しに、成果として誇れるような項目を出す。要するに外交とか経済の大きなイッシューはどうしても二大政党のガチンコ勝負になっちゃうから、そこで、小さな専門的な議案を取引材料で通すのが、ヨーロッパのある意味健全な議会のあり方なんです。日本もやっと、これから、そういうことが戦略的にできる国になるってことじゃないですか。
-高萩さんにしても平田さんにしても、モデルはフランスなんですか。フランスははっきり「ソフトで食べよう」というスローガンを政策の基本にしている国じゃないですか。確かに航空宇宙産業とか軍事産業とか多少目立つ部門はありますが、産業の中心は農業で、最も外貨を稼ぐのが観光業でしょう。フランスの人口は6400万人ぐらいですが、外国からの観光客はそれより多くて約7500万人。日本の人口は1億2000万人で海外観光客が800万人ちょっと。これは大違いです。芸術が国内の需要を満たすということだけじゃなくて、『芸術立国論』に書かれたような発想の大転換を伴わないと、フランス式のやり方もうまく機能しないのではないでしょうか。
平田 ただ産業構造の転換にあたって、第三次産業、サービス業を下支えする、ぼくの理屈は、まあ最初は詭弁だったかもしれないけど、芸術っていうのは、先端研究であり基礎研究であるということを粘り強く言ってきた。第二次産業を支えるのが科学であり、技術。それに年間4兆円、5年計画で20兆円出している国がですよ、どう見たって第三次産業中心の国になっていかざるを得ないのに、芸術文化に対して1000億円とか2000億円のオーダーでしかお金を出していないのは、施策としてバランスを欠くんじゃないか。これを、この10年ずっと愚直に言ってきた。それは、少しずつ説得力を持つようになっていると思いますし、ぼくは可能性はあると思っています。
-文化庁の予算はこのところ1000億円余りで推移してますね。
平田 しかも日本の場合には、文化財保護が非常に大きな割合を占めている。4兆とは言わないけど、文化財保護も入れて1兆円はないと、ちょっときつい。まあ、どこまで入れるかによるんですけど、芸術教育とか国際文化交流なんかも入れて、文化関連予算全体で1兆円でいいと思う。
-さっき公明党と共産党が熱心だっておっしゃいましたけど、おそらく政権交代起きますよね。(民主党から)芸術文化政策をどうするかというアプローチもあるし、平田さんの方からのアプローチもあると思うんですけど、そのあたりはどうでしょう。
平田 年齢が近いこともあって、民主党の若手の議員とは非常に親しいです。時々、お酒も飲んだりしますが、私の方から何かアプローチをするということはありません。
-今年の2月、国会だったでしょうか、「ヤルタ会談」の舞台を見せたそうですが、あれはどういういきさつですか。
平田 これも、民主党を中心に親しい議員がいて、彼らが企画して憲政記念館でやりました。
-国会議員の有志がやったという形ですか。
平田 ええ、超党派で。共産党から自民党まで、公明党は斉藤鉄夫環境大臣、あと小池百合子さんとか、小渕優子大臣とか。
-何人ぐらい、どんな構成で。
平田 発起人の議員は30名くらいです。ただ、そのとき国会がいろいろもめてて大変な時期だったんで、実際に見に来た国会議員は30人ぐらい。お客さんは、全部で150人ぐらい来ました。マスコミの方もたくさん来ましたね。
-そういう話は聞いたことないですね。国会議員らを直接巻き込んでデモンストレーションするのは。
平田 去年は民主党の勉強会で、これ多分、憲政史上初なんですけど、議員会館で演劇のワークショップを開いた。民主党の議員15人ぐらいに、演劇ワークショップを体験してもらいました。実際に参加してもらうとね、ワークショップがどれほど子どもに役に立つか、別に無理矢理台本持たせて演劇やらせるわけではないということを理解してもらえる。演劇とか演劇教育には、ものすごく固定したイメージがあるわけですよ。だからやってもらって理解してもらえる。民主党のネクストキャビネットの文部科学大臣の小宮山さん(小宮山洋子)は成城学園の出身です。成城は小学校3年から演劇の授業があるので、演劇教育には熱心です。民主党のマニフェストにも、「コミュニケーション教育」という形で入れてもらった。だから、これは意外にすっと通る可能性があります。なんだかんだ言って文化行政って全体から見れば小さいから、意外と、政権交代のどさくさ紛れに通ったりする。だからこそ、繰り返し、普段から言っておかないと。
-芸術政策関連の話になりますが、新国立劇場の芸術監督交代問題、平田さんは今回あまり表に出なかったですね。
平田 連名へのお誘いは受けましたけど、あの内容では全面的には賛同できないとお伝えしました。永井愛さんは、人間的には大変信頼していますし、おっしゃっていることは多分、すべて本当のことだと思います。ただ、それと、官僚、今回は、もう官僚だけじゃなくて、政官学ですから、それが一体となった時に、そこと闘うっていうのはまったく別のことなんです。そこには戦略とか戦術がないといけない。
-演劇関係者の記者会見や関係者の集会に参加して主張を聞きましたが、ちょっと心許ない気がしました。向こうは巨大な組織で、それに生活をかけて動いている。彼らと闘うには本当に、こちらが壊れるぐらい働かないとかなわない。結局交代人事は通ってしまいましたね。
平田 やはり闘うときには、こちらも命がけでですね、総力戦でやらないといけない。私は私のやり方で闘いたいと思っています。そのことは、直接永井さんにもお伝えしました。
桜美林から阪大へ
-大文字絡みの話はさておき、お聞きしたかったのは、平田さんが桜美林大で総合的な演劇教育と人材育成を兼ねて、非常に目ざましい成果を挙げられたんですが、われわれの目から見ると突然大阪大へ変わっちゃった。どういう問題が起きたのでしょう。
平田 桜美林はですね、うまく行ったと思います。6年いたんですけど、最初の4-5年でほぼいまの日本の大学でやれる限りのことをやったと思います。それなりの実質的な成果もあげた。けれども、私学なんで、成功すればするほど人数を増やされてしまう。最初は学科生は40人って話だったけど、ふたを開けてみたら70人ぐらいいる。それがすぐに100人になり、最終的に総合文化学部に改編するんで、演劇学科は150人にしてくれと言われた。それはできませんと言ったんです。いくら教員を増やしてもらっても、ぼくは学科長でしたから、ぼくを慕って全国から学生が来るわけです。学生は18歳から22歳でしょう。精神が不安定になったりする子はある一定の確率で出てくるわけですね。それが全部、ぼくのところ来る。実際、6年いてよく事故が起きなかったと思います。物理的な事故も、精神的な自殺とかも。よく堪えたと思いますけど。でも150人は無理。1対1で面倒見られる人数じゃないので。ということがまず一つ。
あと、入学定員のごまかしがあった。その不正には加担できませんということを言ってきた。要するに、他の人気のない学科と一緒くたに入り口で採って、最終的には全部うちの学科に来ちゃう。定員割れを表に出さないために、そういうことをするんです。
その二つが大きくて、学長とけんかしました。もう辞めようかなと思っているところに、阪大の鷲田清一さんから直接電話があった。桜美林大を辞めるときに学生の反対集会があったぐらいなんですけど、妻にも、辞めないと身体がストレスでもたないんじゃないかと言われました。芸術のためなら私はいくらでも闘いますけど、学長とのけんかは全然、それとは関係ないことなんですよ。桜美林では、大学も学長も、芸術に関する理解がなくて、たまたま演劇科をやってみたら人気があったっていうだけなんです。鷲田さんはそのとき大阪大学の副学長だったんですが、その後学長になって、もちろん芸術に対してものすごく理解があるし、桜美林の6年間が何だったんだと思うぐらい、いまは大学全体で大事にしてもらっています。やはり、周りから感謝されるところで仕事をしたい。
もう一つは、桜美林大でこのままやっていたら、桜美林の経営のためにしかならないと感じていました。もちろん眼前の学生のためということならば桜美林の方がいいんです。30人なり50人なりの学生のためにはなると思う。立派な俳優や演劇人を育てることもできる。でもぼくも社会的立場とか、年齢を経るごとにもうちょっと広い公共性を考えなければなりませんね。眼前の人々の幸福と、「ぼくにしかできない仕事」を天秤にかけないといけない。確かに桜美林もぼくにしかできなかったかもしれないけど、他の人でももう代われるかもしれない。しかし大阪大学で、いま大学院で演劇教育をやって、うまくいけば入試制度改革ぐらいまでできるかもしれない。これは、今の日本では、たぶんぼくしかできない仕事です。そして、これが成功すれば、全国の国立大学に波及していくものであって、大学教育の中に演劇が必修化されていく。日本全体の演劇に対するものの見方を変えられる可能性もある。桜美林でいくら成功しても、演劇界では評価していただけるけれども、それが広い意味での社会的な波及効果があるかというと、それは限界があるだろう。どっちを選ぶか、芸術家は常にそこで判断しなければならないと思うんですけど、ぼくはもう少し広い意味での普遍性を選んだと思っています。
-大阪大学コミュニケーションデザイン・センターの教授として、いまどのようなことをされているんですか。
平田 大学院生にワークショップをしたり、全研究科から集まってきた院生がグループに分かれて演劇を作って発表する授業があるんですけど、そういった普通の授業が一つ。それから大きいのは、京阪電車と組んで京阪の中ノ島のど真ん中にフリースペースを作りました。そこでは毎日のようにカフェやイベントが開催されています。ぼくは設計と旗振り役だったんですけど、いまはほとんどぼくの手を離れています。あと主なのはロボット演劇ですね。
-大阪大の石黒浩教授と一緒にロボット演劇研究をされてますね。
平田 今度は脳研究とロボットを組み合わせた研究で、COE(注7)を取りましたから、さらに広がっていくでしょう。そういう意味ではもともと接点は多い。ぼくも10年ぐらい認知心理の仕事をしてきたので、広い範囲の研究になるし、期待しています。
-大阪では実演していましたが、東京でロボット演劇の予定はありませんか。
平田 来年愛知トリエンナーレでします。東京ではまだ予定はありません。愛知トリエンナーレはヤン・ファーブル、ローザス、大阪大学といったラインナップになります。ぼくは結構、組織に忠誠心が高いので、プログラムの名前は、平田オリザじゃなくて「大阪大学」で出してくださいとお願いしました。
-ヤン・ファーブルも置いてけぼりをくらうんじゃないかな(笑)。
認知心理学とロボット演劇
-認知心理学というと、東京大学の佐々木正人さんとの共同作業がよく知られていますが、ぼくが興味を持っているのは下條信輔さん(カリフォルニア工科大教授)の仕事なんです。付き合いはありませんか。
平田 ないですね。学問に関しても、ぼくの方から積極的にどうこうというのはあまりないんです。ただ、いま、石黒さんと仕事をしていて、この間もNHKでゴリラ研究の山際さん(山際寿一・京都大学大学院教授)とちょっと対談をしたりして、最近ずっと考えていることがあります。先ほども触れた「join」の座談会(注6)で、公的資金で演劇を作ることの意義を佐藤信さんと、高萩さんで、西川さん(西川信廣)が司会した。その最初にも言ったんですが、税金で演劇を作ることの「正とう性」っていったときの、justificationの方の正当性ですね、いまなぜここで演劇なのか、いまなぜここで芸術なのかっていうことは、これまでもずっと言ってきたように、産業構造の転換とか、コミュニティー形成とか、多文化共生とか、いろんな説明がつく。それはそれで、きちんとやってきたんですけど、もう一つ、legitimacyの方の正統性ですね、そっちをこの5年なり10年なりで、せっかく大学にいるので研究課題としてやりたい。「演じる」ってことは、人間にとっての基本的な要素の一つなんです。山際さんに聞いても、ほ乳類の中にサルがいて、類人猿がいて、ヒトがいるわけですけど、例えば父親って役をきちんと演じるのは、類人猿ぐらいにならないと演じられないらしい。でも、ゴリラでも二つ以上の役は演じられなくて、二つ以上の社会的な役割を演じられるのは人間しかいない。
ロボットからのアプローチとか、類人猿からヒトになって、その後の文化人類学的なアプローチも含めて、なぜヒトは演じるのか、演じるってことがコミュニティーの形成に関してどういう役割を果たしてきたのか、いろいろな人の話を聞いて体系的にまとめる本をいま作りたいと思っています。
-もう出版の話は進んでいますか。
平田 まあまあ、ぼちぼちです。他にもやらなきゃいけないことがいろいろあるので。ただ、ここでやりたいのは、ホモ・サピエンスとかホモ・ルーデンスとかいろいろな定義がありますね、遊ぶヒトだとか考えるヒトだとか。そこで「演じるヒト」っていう考え方があってもいいんじゃないかと、それを一つ立論したい。
-下條さんの著書(注8)から触発されるのは、みなさんは演じる、ある意味で見せる側。私たちはまあ、普段いろいろ演じてはいても、劇場という組織された空間に入ると、見る側になりますよね。見る側が舞台に同化したり反発したり、様々な感情の動きを持ってしまうのはなぜだろうか。どういう機序でそんなふうに動くのか、動かされるのか。そこにすごく興味がある。
平田 石黒さんもまさに同じ考えで、ロボット工学ってのが、純粋な工学から始まって、次に人間工学、さらに人間工学だけでは限界があって彼は認知心理にアプローチをして、リアルに見えるのはなぜかという側のことを考えるようになった最初のロボット学者なんです。そうやっていくうちに、認知心理はご存知のように、分析・解析にすごく時間がかかるけれど、ぼくがその場に行くと、分析しないで一発でできる。なぜ平田オリザが「あと一秒、間を開けて」と言うとリアルになるのか、人々がよりリアルに感じるのはなぜかっていうのを解析した方が早いっていうのが佐々木正人研究室でしたし、石黒さんの結論もそうなんですね。結構そこは芸術の役割が残っている。ひょっとしたら、それが芸術の最後の役割かもしれませんね。そこも解析しつくされちゃったらもう終わりなんだけど、でも多分その、何かの飛躍が起きるときに、芸術家の役割って非常に大きい。
-当然ご存知でしょうけど、光センサーのついた一対のロボットに、簡単な行動原理を組み込んで動かすと、あたかも人間関係のようにくっついたり離れたり、恋愛をしているかのように見えてしまうという実験があるじゃないですか。そういう仕組みを演出の側では、どのように見えるかと計算してやっているんだけども、観客の側はその通り乗せられてしまう。その構造がなかなか面白い。どうしてそうなるのかっていうのは、もう少し学者にがんばって解明してもらいたいと思います。佐々木研究室の方が青年団の稽古を録画して分析した研究(注9)は読むのが面倒になるほど大変な作業でしたね。
平田 あれは本当に大変なんです。結局、よく分からないから。
-結論が分かっている話を、一生懸命後付けしているだけではないかという気もしますが。
平田 だからね、佐々木正人に言わせると、分かるのは1パーセントだと。だからよく研究結果を何年かに一度、研究者自ら、うちの劇団員に発表してもらうんだけど、劇団員の最後の感想は「それ当たり前でしょう」「何の意味があるの?」っていうことになる。でも学問っていうのはそうやってちょっとずつしか進まないんですよ。
-佐々木さんが国立劇場の研修生として文楽修行した体験記をその本で読みましたが、文章や文体は直感と飛躍に満ちていて、学者の仕事を超えてますね。
平田 彼のやっている地道な研究は本当にちょっとずつしか進まないんだけど、佐々木正人っていうのはちょっと特殊な人間で、いんちきなんですよね(笑)。はったりというか、それが、ぼくと似ているところがある。アフォーダンス理論自体が難しいので、世間一般向けに読み替えていくためには、ちょっといんちきがないとできないんだと思う。それができたことによって、認知心理は佐々木正人っていうちょっとしたスターを得たんだと思います。>>