3.「あるがままで在ること」への憧れと嫉妬、そして怒り
工藤優希
『My Sweet Home ~マイホームよりスイートな場所はない~』
「ショックヘッド・ピーター」ではとても皮肉めいて聞こえてくる台詞だ。
この劇中に登場する個性豊かないたずらっ子たちは、現代で心の赴くままに感じ、行動し、生きることの難しさを軽快な生演奏にのせてユーモラスに教えてくれる。
いたずらっ子たちのなかでも、赤ん坊のコンラッドのエピソードは非常に興味深いものがあったので取り上げてみたい。彼女は、おしゃぶりをするのを止められずに仕立て屋さんに指を切られて殺されてしまう。愛の結晶である我が子に、どうしてこんなことをしてしまったのか。コンラッドの母親に代わって考えてみたい。
人間は、母のお腹から産み落とされて初めて外の世界と接触する。言葉が話せないうちは、オギャーと泣き叫んで、自分の気持ちををなんとか周りに知らせようとし、周りの人間は、赤ん坊の気持ちを汲み取ろうと必死に問いかける。「どうしたの~?」「お腹すいたの~」と。純粋・無垢な赤ん坊。我慢をしらない赤ん坊。なぜだか、イラッとしてしまうときはないだろうか。
「いいなぁ~、赤ちゃんは何でも許される。わたしはたっくさん我慢してることだらけで疲れちゃうなぁ」「赤ちゃんばっかり、ズルい」
コンラッドは、まだまだおしゃぶりが止められない可愛い赤ん坊。そんなコンラッドを母親は厳しく叱る。たしかに、おしゃぶりを大きくなってもしているのは困りものだが、コンラッドはまだ赤ん坊なのだ。お母さんが外にお出かけしてしまうことが寂しくて、その心をなんとか抑えようと、指をぎゅーっとしゃぶりながら寂しさを封じ込めているように見える。
そんなことは露知らず、母親は子育てがきちんと出来ないダメな母親というレッテルを世間から貼られることを恐れているのか、自分のやりたいことを我慢して子育てをしているという状況に苛立ちを感じているのか、ただただ叱る。母親の心のなかはこんな感じだろうか。
「どうして言うことを聞いてくれないの?」「ママのことが嫌いなの?」「どうしてわたしばっかり我慢しなくちゃいけないの」
イライラは頂点に達して、愛しているはずのこどもに怒りをぶつけてしまうのだろう。なんて悲しい愛情表現だろうか。
このエピソードの最後は、仕立て屋がコンラッドの指をはさみでチョキチョキ切断し、出血多量で死ぬという結末だ。とてもショッキングで現実とは乖離しているように思えるが、世の中に虐待死があるのも事実。大人たちのなんらかの行為によって、こどもが死に至るケースもあるのだ。
どうして、こんな状況が発生してしまうのか。
そこで初めて、「あるがまま」であることの難しさを痛感する。人は、生きていく中で社会に適応していくために自分をコントロールする術を学んでいく。コントロールすると言うと聞こえは良い。しかし、人によっては自己犠牲を過度に行い自分を押し殺してしまう人、感情を感じないようにロボット化する人、そんな人が現代には多く存在しているのでは、と時たま通りすがる人々の生気のない眼を見て感じる。生きていくためには、我慢しなくてはならない場面がたしかにある。自分の立ち位置も変化し、負う責任も大きくなってくる。我慢、我慢の日々。否応に、自分とは異なる「あるがまま」な存在に目がいく。
例えば、空気が読めない人は「KYな人」とレッテルを貼られてダメな人間であるとイメージが作られているが、実はそこに自分の意見をはっきり言える「あるがまま」な存在への強い憧れが潜んでいるように思えてならない。本当は自分もそうしたい。だが、そんなことしたら生きていけない、今の我慢している自分を否定してしまうことになってしまう。変な仲間意識のようなものが芽生え、無意識の集団意識がその空間を埋め尽くし、自分と違うものを排除しようとし始める。自己防衛だ。
憧れは嫉妬となり、そうはなれない自分と比較して不満となり、やがてその不満は怒りに変化し、憧れの対象へと向かう。愛しているが故に、その怒りのボルテージは激しさを増し、対象を激しく傷つける。
「ショックヘッド・ピーター」は、こどもたちに向けた過激でショッキングな物語という枠をとび越えて、観るものの内面を揺さぶってくる。今回とりあげたコンラッドのエピソードだけでなく、各登場人物のエピソードに共通することは「あるがまま」に在るものへの我慢からくる怒りの行為(=大人のしつけ)の辿る末路だ。
しつけは大切。だが、その行為をするにあたって親の心にこどもへの慈しみではなく、嫉妬や怒りの感情が多くを占めているとき、一度立ち止まって深く深呼吸をしよう。自分を責める必要はない。自分自身の心と向き合い、許すことが出来たなら、可愛い我が子を愛する気持ちが蘇ってくるはずだ。