劇団オルケーニ「ショックヘッド・ピーター」

4.悪心を呑む
  中村直樹

 「死んだ、死んだ、死んだ」
 舞台上で顔の白い子供達は高らかに歌っている。
 「えぇぇぇぇぇ」
 悪い子達は救われることなく死んでいく。そのことに少なからずのショックを受ける。なんて怖い演劇なんだろう。
 「HAHAHAHAHAHA」
 周りに座る外国人は声をあげて笑っている。そのことに少なからずのショックを受ける。我々にとってはホラーだけれど、彼らにとってはコメディなのだ。

 ショックヘッドピーターは19世紀にドイツの精神科医「ハインリヒ・ホフマン」によって描かれた絵本である。それが20世紀にイギリスのパンクバンド「タイガーリリーズ」等によってミュージカル化された。そして21世紀にハンガリーの「劇団オルケーニ」によってハンガリー語にアレンジされた。そのような演劇が野田秀樹によって東京に招聘されたのである。

 最初に顔の白いロボズ博士が舞台上に現れる。あたかもサーカス団の団長のような格好である。少し汚れた幕が、巡回している旅一座の雰囲気を醸し出している。そのためこれから紹介される演目があたかも見世物のような印象を与えている。
 「家は幸せな巣だ。しかし足りないものがある」
 幕が開き、舞台上に現れた夫婦がこのような事をいっている。すると窓の外からコウノトリが顔をのぞかせる。そのコウノトリが一度窓の外に消えたあと、再度顔をのぞかせる。その口に赤ちゃんが咥えられていた。
 「まぁ、なんて可愛い」
 その赤ちゃんを受け取った二人は、鼻は俺に似た、額は私に似たとどうでもいい事で喧嘩する始末。しかし、あんなに望んでいた子供も数年後には髪は伸び放題で爪も伸び放題の不潔なピーターになってしまった。
 「なんてお前は汚いんだ」
 ままにならない現実に打ちのめされた夫婦は、ソファーの影にピーターを引きずりこんでバラバラにしてしまう。

 ぽっちゃりとしたアウグスタは、ある日スープが嫌いとなって食事を取らなくなった。どんどんとやせ衰えていくアウグスタはとうとう人形のように成り果て、スープポットに埋葬されて運ばれてしまった。

 いつも上の空のジョニーはボーっとしながら歩いていると犬につまずき川の中へ。夢におぼれた少年はそのまま川におぼれて川底へ。

 暴れん坊のフレデリックはいろんな人間に突っかかっていく。鞭でたたいた犬に逆襲されて、大怪我を負って死んでしまった。

 留守番をしていたハリエッタはマッチに興味津々。マッチを擦って遊んでいると、自分の服に火がついて燃え上がる。とうとう灰になってしまった。

 乱暴者の猟師が眠っている最中、香水の匂いをさせるウサギにライフルを奪われる。そのウサギはライフルを撃ちまくり、その弾は猟師の妻の元に飛んでいった。そして胸を貫いた。

 母親の言いつけを守れずにおしゃぶりのやめられないコンラッドは、家に侵入してきた恐ろしい仕立屋によって指を全部切り落とされてしまった。指をなくした彼の手から血が止まる事はけしてなかった。

 町で暴れる3人組は聖ニコラスの言葉を聴かずに悪いことを繰り返す。それに怒った聖ニコラスに三人は頭を勝ち割られてしまうというプレゼントを頂戴する。

 落ち着きのないフィリップは食事の最中も落ちつかない。そのためひっくり返る時にテーブルクロスを引っ張ってしまったからさあ大変。テーブルの上にある皿やフォークやナイフがフィリップに襲い掛かり突き刺さっていく。

 大嵐の日、親の言いつけを守らずにコートもマフラーもしないで飛び出したロバートは、風にあおられてそのまま遠くへ飛んでいった。そしてそのまま行方が知れない。

 「死んだ、死んだ、死んだ」
 舞台上で顔の白い子供達は高らかに歌っている。悪い子達は救われることなく死んでいく。
 「あっはっはっはっは」
 最初に感じた恐怖はどこへやら、唐突に子供が死んでしまう事をついつい笑ってしまうようになっていた。そして、次の子供はどんな酷い目にあうのだろうと期待もするようになっていた。
 「恐怖が過ぎるとギャグとなる」と楳図かずおも言っている。恐怖が重ねられてコメディと感じられるようになっていたのかもしれない。

 たしかに悪趣味な演劇なのだ。しかし良識という色眼鏡を外す事によって見出せるブラックユーモアは絶妙だ。女優が男の子を演じ、男優が女の子を演じるという性別の逆転。顔を白塗りにすることで、あたかも死者が死を語っているような印象。あまりにもチープなセットや汚れた幕を用いることで生まれる作り物感。そしてどこか役者の持つ生活感が臭うような演技。これらを用いることで徹底的に現実感を排除されている。そのため演じられているものがとても嘘くさい。「メルヘン」という現実すらも存在させていない。だからこそ、観客が抱えている現実を舞台上に持ち込むことを一切許さない。言語が母国語ではなく、政治的な抑圧もなく、キリスト教的な常識を知らない日本ではなおさらだ。だからこそ、観客が持ち込めるのは感情だけなのだ。

 まず、舞台上にいる子供たちに共感する観客は当然のように「恐怖」を感じる。舞台上の悪い子たちのようなことをしてしまうと同じように死んでしまうのではないかと感じてしまう。そして、なぜそんなことで殺されてしまわなければならないのかという「悲哀」を感じるのだ。そして、舞台上にいる子供たちが酷い目にあうことを楽しみにしている観客はそこに「悦楽」を感じている。普段そのような子供に手を焼いている大人たち、子供達は自分達の代りに悪い子供達に罰を与えられることを楽しんでいるのだ。その上で私たちが正しいという「優越感」を感じるのである。これらの感情はけして褒められた感情ではない。つまり、この作品を観る観客に「よいこ」は一切存在しないのだ。「よいこ」はこのような作品を必要としないのである。「お前も一皮むけば悪い子となんにもかわらない」という強烈な毒が込められている。教訓話がものの見事に破壊された。まさにPUNK!!!!!

 生きていれば、良いことや悪いことを含めていろいろな目にあっていく。そしていろいろなことを思っていく。いつも「よいこ」でいられない。悪心を抱くこともある。だからこそ物語が必要なのだ。それも悲劇を喜劇にしてしまうような強烈なショックヘッドピーターのような作品を。そして自らの悪心を見出し、飲み込むのである。そして「よいこ」になって劇場を後にするのである。それは文化の差ではなく人間の性なのかもしれない。公演のチラシにある、芸術監督のマーチャイ・パールの「東京とブタペストは、決して遠く離れていない」という言葉はこのことを意味しているのかもしれない。

 そして、この作品はハンガリーのトップクラスの演劇なのだ。それほどまでに必要とされているのである。それほどまでにハンガリーという国は病んでいたのかもしれない。それほどまでにハンガリーに住む人々は健全なのかもしれない。だからこそ、この作品自体からハンガリーの匂いがプンプンとしている。そのような作品を野田秀樹は東京芸術劇のリニューアル第一弾として選び、東京芸術劇場もそれを認めたのである。
 「震災という不幸に見舞われた日本人に、悲劇すら喜劇にしてしまう力強い芝居を見せたい」
という配慮があるとも思えてくる。

 しかし野田秀樹はいろいろなものを内に抱えていそうだ。今回の招聘も実は彼がこのような作品を単に必要としているだけなのかもしれないなとも思えてくるのである。なので、真相は野田秀樹の胸の内。推察することしか出来ない。だから、野田秀樹が絶賛する東欧演劇を東京芸術劇場にて楽しむことが出来たという主観的感情で締めることとする。これだって、十分に意義のあることなのだ。

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