1.静寂の森の中のざわざわ
平林正男
水素爆発を起こした原子炉建屋。舞台中央にそびえる、黒いパイプだけで組まれた骨組みだけの抽象的な構造物が、芝居を見ているうちに福島第一原子力発電所の廃屋に見えてきてしまい、その印象が頭から離れなくなってしまいました。
舞台上には大きな六角形で作られた演技スペースがあります。黒パイプの構造物はその中央に位置していて、構造物のどまん中には天井まで届くほどの高い一本のパイプが立っています。六角形の結界の周りには、照明の灯体が、伏せられたり横に倒されたりと一見したところ無秩序にびっしりと放置されています。これらの装置が置かれた舞台空間を、白く大きな3枚のパネルが上手、下手、舞台奥から囲んでいます。
開演前、客入れには音楽は使われず、様々な鳥の声、風鈴、遠くから聞こえる感じのやや高い音の半鐘、それとはまた違う鐘の音、鹿威し(ししおどし)を思わせる音も聞こえてきます。全体に和風を感じさせる中、舞台奥のセンターに一筋だけ明かりが灯され、人の入り込まない深い森の夜を思わせます。人の声が聞こえない、静寂の中に笛の音が聞こえてきます。拍子木風の連打の後、おもむろに役者が現れ、開演です。
登場してきた族谷狗吉〈ヤカラヤイヌキチ〉(玉置玲央)は犬殺し。人間扱いされない血筋とされる族谷一族は「犬つぶし」をなりわいとして生きています。犬つぶしをする者は周りから犬のようにあしらわれます。犬として生きていけ、と両親は狗吉に語り聞かせますが、自分は人間だ、という強い思いを狗吉は抱いています。
そんな狗吉に妹・族谷狗子〈ヤカラヤイヌコ〉(七味まゆ味)ができました。狗吉は両親に「狗子を立派な犬殺しにする」と約束して狗子を引き取ります。しかし、狗吉は狗子を人間として育てはじめます。「穢れ」は自分が負うからと、狗子には犬殺しをさせずにノミを渡して仏像を彫らせます。狗子は言葉を覚えるよりも先に仏を彫ることを覚え、狗子を穢れさせずに暮らしを成り立たせるため、狗吉は犬つぶしを続けます。
神木を取ってくれば人と認めよう、という村人の声を信じた狗吉は、子をはらんだ母赤犬を「最後の業」としてつぶし、神殺しに向かいます。いっぽう、神・大楠古多万〈オオグスノコダマ〉(大村わたる)に捧げられる生け贄であったもぐらは、目が見えず、穴を掘る手もありません。そこで女の身体を張って神木を枯れさせ、自らが神・日不見姫神〈ヒミズヒメ〉(深谷由梨香)となり山に君臨します。枯れ果てた神からたやすく神木を手に入れた狗吉は兵隊となることができ、また大楠は枯れ木からキノコへと生まれ変わります。
狗吉が殺した母赤犬から一匹だけが命を永らえます。その犬・族谷人之子〈ヤカラヤヒトノコ〉は自分を助けた狗子を母と慕い、自分が人の子であると信じて育ちます。また、命を称える魂の舞を舞う真徳丸〈シントクマル〉(永島敬三)が日不見姫神に舞を奉納します。私だけを崇めてほしいと願う日不見姫神は、旅立とうとする真徳丸を軟禁します。キノコに身を変えた大楠古多万は日不見姫神をねたみ恨んで怨念の胞子をまき散らします。神の座を奪われたキノコの心は大きなキノコ雲となりキノコの神様を生み出します。
キノコの力の前では、あらゆる神の力は無力。戦争に負けて降参したとたん、神であった天皇陛下は人になってしまいました。畏敬の対象は神ではなくキノコになりました。戦争から帰り死の決心のついた兄狗吉とキノコの穢れを浴びた狗子は、新しい神〈いざなぎ・いざなみ〉となり、新しい世界を作ることを誓いあいます。
こんな世界を俯瞰する存在が天神様〈テンジンサマ〉(中屋敷法仁)。天神さまは物語の中で「すべてのことは、始まる為にのみ終えられる」「私はいつから私であったのか」「私が私でなくなったあとに何をしているのかだ」と、自ら作り上げた登場人物・真徳丸に語らせます。
今回の作品では、〈語り〉の特徴をまず感じました。最近見た中屋敷作品『絶頂マクベス』『悩殺ハムレット』『ナツヤスミ語辞典』では、どれもビートの効いた音楽に乗せてラップ調に語る台詞が独特だったのですが、今回は音楽に乗せて語られる言葉は皆無でした。その代わり、台詞の音自体が七五調を意識したものに感じられ、日本語の音韻自体を味わい、音律自身に乗って言葉が語られているように思われました。
最近見た上記の作品では、音楽に乗せて台詞だけではなく身体のリズムもとり所作がなされていたのですが、今回はそのような身体の振りもなく、人の手によって作られた音の世界から遠く離れた、森の奥深くの地を意識させられました。
柿喰う客の上演で必ず行われるアフタートーク。作品本体の批評が本来なのでしょうが、観劇した回でのアフタートークの内容についても触れておきたいとおもいます。客席から、無造作に置かれた灯体はどんな意味があるのか、伝統芸能を意識しているか、タブーとされる言葉についてなどの質問があり、いくつか興味深いやりとりがありました。
作・演出の中屋敷さんは、美術についても差別言語についても、舞台に乗せられたすべてのものに対して〈観客の皆さんがどのようなことを思い感じてくれたかが大事〉と答えていました。〈舞台上に置かれた照明機材については、森、瓦礫、死者の魂、精子…などなどさまざまなことを言われてきましたが、どのように思っていただいてもかまわない、どう見られるかがとても楽しみ〉と答えられます。
また、差別言語についても〈それらの言葉を聞いた観客のみなさんがどんなことを感じるか、どんな思いを起こすか、ということを提示したい〉と語ります。〈作者からタブーについて強いメッセージを出しているというつもりはない〉と。〈神とか放射能とかが何であるのかを、みなさんから教えてもらいたい〉という思いだと言います。〈タブーとされる言葉や事柄を使って『危険なことをしていますね』で終わってほしくない、みなさんがどうおもいどう感じたかを教えてほしい〉と重ねて語ります。
いま問題とされることはどのようなことであるのかを鋭く提示し、見ているものの心をざわざわと毛羽立たせていく。そんな試みや企てが劇作に潜んでいるのだと感じました。
さて、その劇作家の罠にはまって様々なことを考えました。
まず「無差別」ということについてです。無差別と言いながら物語には差別の構造がたくさん示されます。人間として生まれながらもその血筋によって人間扱いをされないという部落差別。狗吉、狗子はその差別を被っている一族だろうと推測されます。明治になって「新平民」となっても解消されない差別。人間として扱われるために、狗吉は皇軍の兵士になることを望みます。
軍隊に入ることによって格差を克服して平等を勝ち取ろうという狗吉を見て、赤木智弘氏の「国民全員が苦しむ平等を」と訴えた〈戦争待望論〉と言われた論考を思い出しました。2007年に「論座」に発表されたその文章の中で赤木氏は「私を戦争に向かわせないでほしい」と言いつつも、平和の名の下の格差が強制され続けるのならば、何も失うもののない私にとって戦争はチャンスだ、と論じています。
2006年に格差社会という言葉が流行語大賞トップテンに入りました。そこから6年、状況はあまり変わっていないようにおもいます。昨年の大震災によっていわば〈国民全員が苦しむ平等社会〉が一時は生じたのですが、震災から時が経ち復興への道筋が長期化する困難なものであることが明らかになるにつれ、被災地とそれ以外の地域との間に新たな格差が生まれてきているようにも感じます。
そんな格差をすべて吹き飛ばす絶対的な平等、「平安」をもたらす力が、キノコの力なのでしょう。放射能を制御する力を人間が手にするのはまだまだずっと先のことのように思えます。宇宙空間を飛び越えて進むワープ航法を生み出す科学力が手に入れられる『宇宙戦艦ヤマト』の時代になっても、放射能除去装置については遠く14万8千光年離れた大マゼラン星雲の惑星イスカンダルまではるばる取りに行かなければならないのですから。神をも超えるキノコの力が鎮座するお堂に「もんじゅ」の名がつけられているのは深い慧眼があってのことに違いありません。
明らかで見えやすかった近代の部落差別の状況から、現代の差別はより見えにくくなってきたようにおもいます。見えにくくなっても続く、差別の心は人がみなどこかに持っているものなのでしょう。性差別、年齢差別、職業差別、人種差別など、特定の集団や人物を排斥する感情は過去からずうっと続いてきたものなのだとおもいます。〈異種〉を排除する心の作用は、集団の自衛のために必要な心理なのかもしれません。
だからこそ差別の解消は意識的になされなければならないわけです。日本国憲法でもわざわざ国民は「差別されない」と平等権の保障が謳われているように、無差別の社会を作るには不断の努力が求められるのでしょう。
私の働く〈現場〉で取りざたされる差別は、〈いじめ〉です。学校で〈いじめ〉は過去から問題になっていて、他人を差別するな、という声かけ意識付けはずっとなされ続けています。いっぽう、高校生との演劇づくりに関わるなかで、演劇のよさとは、違う人間を違うまま認め合うことではないかと私はおもっています。同じになってしまってはつまらない。違いがあり、違う個性を認めてぶつかり合うからこそ面白いのです。学校に、お互いの違った個性を認め合う演劇教育がもっと広がれば、〈いじめ〉は減っていくかもしれない、そんなことにも思いを馳せました。
自分のありのままの姿を見つめてその姿と力を信じられるようになった狗吉と狗子は、自ら神になり新しい世界を生み出そうと試みます。その企てが成功するかどうかはわかりません。けれど「すべては始まることのために終えられる」わけです。キノコの力に支配された世界を読み替えて新しい枠組みの世界を作り出す。その試みの先に何があるのかもわかりません。ただ、周りからどのように見られる、読まれる、評価されるかに依らずに自らの道を開拓していこうとする姿は、劇作家のまた劇団の今と重ね合わせてみることができ、どこか希望を感じさせられた幕切れでした。