柿喰う客「無差別」

2.<反>差別ではなく、<無>差別というたくらみ
  高橋英之

 拍子抜けするくらい軽い。冒頭、赤犬の肉を捌くことを生業としているイヌキチ(玉置玲央)が登場し、いきなり、その生業ゆえに村人たちに蔑まれ批難を浴びるシーンが展開される。イヌキチの葛藤のセリフとともに、作品名に含まれている「差別」という言葉が改めて頭の中に降り立ち、重々しい気分にさせられる。え? そのテーマでやるのかぁ、参ったなぁ。関西で育ち、この種の問題には自動的に敏感になるように訓練されている上、そこで教員採用試験に合格するため更なる修行も必須であった人間にとって、このテーマは身構えざるを得ない。そうする間に、「人ではない」だの、「穢れた」だの、これでもかとタブー感あふれるセリフが舞台を飛び交う。島崎藤村の『破戒』で感想文を書かなければならなくなったときの気分がよみがえる。こうなったら、もう、ドーンと真正面から受けとめて観るしかない。そう覚悟した頃、舞台には、生まれつき両手がなくしかも目が見えないモグラが登場しているではないか。え? ここに、障害者の問題も、重ねてしまうの? それは、大変なことになったなぁと、…そのような不安が襲う。やがて、その不安は、次から次へと展開される戦争やら、原爆症やら、神の死やら、近親相姦やらのテーマ群に押し流されてしまう。叫び声と踊りによって、頭の中がグルグルしてしまう。最後は、もう何が何だか分からない過剰なるスペクタクルとして盛り上がり、結局のところ、最初のテーマが一体なんだったのかも分からなくなってしまった。重いテーマ群を、いともあっさりと着地させてしまうこの軽み。ここに、柿喰う客の主宰・中屋敷法仁のたくらみを見た。

 生業ゆえに「穢れている」とする差別の眼差しに、反発をしつつも、イヌキチにはほかに生きる道もなく、あるがままの状況を受け入れて暮らしている。彼の希望は、「穢れ」の根源となっている赤犬の肉に触れさせないようにして、自らが育て上げた妹イヌコ(七味まゆ味)。イヌキチは、彼女を、清廉なる世界に隔離し、仏像を刻むことに精進させる。そうすることによって、妹は、自らの背負った「穢れ」を受けずに普通の人間になることができると信じている。あるとき、イヌキチは身重の雌犬を、腹の中の子犬もろとも殺めるのだが、偶然、子犬が1匹だけ生き残る。その子犬はヒトノコ(葉丸あすか)として、イヌコの手によって育てられ、やがて人間の言葉を解するようになる。しかし、ヒトノコは、人間の言葉が話せない。イヌキチは、「人ではない」とされていても、人間であることに変わりはない。しかし、ヒトノコはどのように努力しても犬でしかない。と、ここまでのストーリーだけを追いかけてみると、人間というカテゴリーの中での区別と差別という問題を超えて、さらに人間と獣という厳然たるカテゴリーの違いの者たちの間での区別と差別という問題が浮上してくる。<差別>というテーマを相対化して演劇化するこの流れは、まずは妥当であるように思える。

 しかし、中屋敷法仁は、そのような凡庸なる物語への期待を見事に裏切ってくれる。そもそも、柿喰う客という劇団の作品は、“物語”を描いているとは言い難いということができるかもしれない。舞台の上のセリフは、最近小劇場で主流派になった感のあるリアルな日常会話ではない。おどろおどろしい、ときに絶叫する舞台のセリフだ。しかも、その所作は、さりげない茶の間や美術館での動作やあるいは姿勢の再現ではない、大きく見得を切って、体全体を使って踊り、シュプレヒコールのような言葉のリズムを舞わせて、役者たちが群舞のように舞台を表現する。それは、かつてのアングラ芝居よりは、むしろ、能や狂言あるいは歌舞伎の世界に近い。中屋敷が描きたいのは、ストーリーの中にオチとカタルシスがあるような、“物語”ではないのだろう。観客を“物語”に取り込んでしまうのではなくて、舞台そのものを観させる。舞台という特別な空間での、その特異なる表現手段で、観客に向かってなにものかを投げ込んでくる。舞台と観客席の境界を、明確に区切って。あくまで、結界を張られた作り物の世界として舞台を構成する。

 スペクタクルの溢れる舞台に、続いて登場するのは、両手がなくしかも視力も失ってしまっている雌モグラ(深谷由梨香)。自らの家族であるはずの親モグラや兄弟モグラによって、そのモグラは、他のモグラたちとは異なる身体ゆえに、神のいけにえとして差し出される。「差別」というタイトルの印象とともに、身体障害者への排除の眼差しという、もうひとつの差別がテーマとしては想起される。しかし、この雌モグラはその差別を甘受しない。その身をあえて淫らにふるまわせ、人のみならず神をもたぶらかし、大きな墓穴を掘らせることで、神たるオオグスノコダマ(大村わたる)の宿る木をなぎ倒す。そして、ついには、その雌モグラは、自らが神となりヒミズヒメと名乗る。障害をもつ者が、その身体的に絶対的に不利な状況の中、差別の視線を振り払いながら、ありとあらゆる手練手管を使って、のし上がっていくという物語であれば、最近、世田谷パブリックシアターで上演された井上ひさしの『藪原検校』が思い起こされる。つまり、悪になる決意をした者のピカレスク・ロマンスである。しかし、中屋敷は、この“物語”の流れも追いかけ切らないで、あっという間にヒミズヒメを神の座から引き下ろす。神をあがめたてまつる踊りを舞うシントクマル(永島敬三)に心を奪わさせて、流罪を受けて人から神となったテンジンサマ(中屋敷法仁)に裁かせ、ヒミズヒメは、また手と視力も失ったモグラにもどってしまう。その間、どうやら戦争がくりひろげられ、イヌキチは人間となるために志願するが、気がつけば敗戦し、イヌコは原爆症に侵されている。兄弟そろって、地に落ちる二人に、人間になりたい犬のヒトノコが最後の御奉公とばかりに、その身を二人に差し出す。

 この大団円あたりから、この作品がどういう話だったか分けが分からなくなってくる。同和問題をテーマとしていたのか、身体障害者への差別を取り上げていたのか、差別される者がまた別のカテゴリーの者を差別するという差別の重層構造が主軸であったのか。あるいは、差別を克服して、何者かになろうとして駆け上がっていく姿を描いたのか。はたまた、そうした複数の差別が、重なり合うように存在しているといういまの社会の実態に切り込むことが目的だったのか。さらには、戦争に対する批判であったり、原子力のような科学を妄信する結果の悲劇であったのか。

 作品を観終わった後、その全てが的外れであるという気がした。そもそも、この作品の題名は『無差別』なのだが、それは、次々に舞台で繰り出される差別たちについて、どのひとつの差別をも差別しないという意味での<無>差別であったのではないか。つまり、同和であるとか、民族であるとか、身体障害であるとか、何かの病気であるとか、あるいはいわれなき何かであるとか、とにかくどのような差別であれ、それのひとつを取り上げて特権的な地位に置かないということの宣言ではなかったか。柿喰う客は、珍しく、全ての公演の終演後にアフタートークを行っているが、自分が見た回のアフタートークで、中屋敷法仁は次のようなことを述べていた。

 「同和問題とか、身体障害とか、そんなことを日常会話の中で簡単に語るのは無理ですよね」

これは、あたり前のことではあるが、秀逸な視点であると思う。当事者でなければ、その差別なり困難を語ることはできないということはない。しかし、いま、他人の差別なり困難を、人はむしろ不必要に深刻に語りすぎているのかもしれない。それは、元新聞記者のライター佐々木俊尚が近著『「当事者」の時代』の中で大胆に指摘して、賛否両論を巻き起こした<マイノリティ憑依>と重なりあう視点ではないかと思う。他人の受けている差別や困難を、まるで自分に憑依させるかごとくに語ってしまうことによって、安全なポジションを確保するという身ぶりを、佐々木俊尚は<マイノリティ憑依>と呼んだ。その著書の中で彼はこう指摘する。

 「<マイノリティ憑依>してしまったらどうなるのだろう、
 ここから見える視界は、晴れ渡って気持ちいい、
 まるで山頂から見下ろす雲海のようだ。」

 弱い立場の者に憑依することで、まわりの全ての者を断罪する気持ちよさ。そういう安易なポジショニングには、慎重になるべきだという指摘を佐々木はする。彼がかつて身をおいたジャーナリズムの世界で、この<マイノリティ憑依>という身ぶりが、いつのまにか<誇り>として語られていることへの違和感がつきつけられる。実は、演劇という表現手段は、この<マイノリティ憑依>と相性がよい。観客を、擬似的に当事者の位置に連れ去り、そこから擬似体験をさせることによって、何か感得させる。あるいは、正確には、何かに共感し感得したかのような錯覚を構成させてしまうその手法、つまり、ニセモノをまるでホンモノとして伝える手法は、まさに演劇が築き上げた得意分野なのである。演劇人の中に、弱者の立場に立ちたがる人が多いのは、<マイノリティ憑依>の気分のよさと、演劇という手法の相性の良さがあるともいえる。しかし、中屋敷は、<反>差別のメッセージを掲げて、観客に対して、自らを絶対の勝ちポジションに身を隠すようなことはしていない。あえて、<無>差別というタイトルを掲げてみせた。重々しい差別と怨嗟のオンパレードに、<反>旗を掲げて、雄叫びを上げるのではない。むしろ、そうした差別の群れを舞台にそのまま上げて、まるで静かに鎮魂させるかのように、<無>の境地にいざなう。舞台では激しく役者を舞わせ、叫ばせてはいるのだが、そこに立ちあがったものは、<反>差別ではなく、正しく<無>差別であったということではないかと思う。そして、中屋敷のこのたくらみは、<反>たるものが、自動的に正しさをまとうことができた時代の終わりを象徴するという点において、非常にインパクトのある成功を収めていた。
観劇日=2012年9月23日(日)18時公演

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