3.人が去ったところからドラマが始まる
須田久美子
ある生徒の自殺未遂をきっかけに、面倒見がよく生徒や同僚から尊敬を集めていた女教師(主人公)の秘密が暴かれる。この女教師、実は、幼児がそのまま大人になったような、自己チューで性悪のサイコパスであった。同僚の教師たちは、彼女のそうした人格は、彼女が思春期の頃に起こしたある事件がトラウマになって形成されたのではないかと考え、彼女を庇う教師も現れる。しかし、女教師はそんな同僚に感謝するどころか、秘密が広がるのを恐れ、周囲の人々の弱みを握ろうと謀略を図る。全てはトラウマのせい!と開き直った主人公、その暴走は職員室を混乱に陥れる―。
観劇後に購入した戯曲の帯にある鶴屋南北戯曲賞選評(抜粋)いわく、本作は「“トラウマ語り”の欺瞞を鋭くえぐるシリアスコメディ」。
2006年初演のこの作品を、わたしは今公演で初めて観た。実は“トラウマ”だとか“サイコパス”だとか、そういうものを扱ったドラマや演劇があまり好きではない。飽きている。月に3~4本程度は演劇を観るようになってまだ2年も経たないが、その短い間に、トラウマを抱えたサイコパスやそうした人物に振り回される人々を描いた演劇作品を数本観た気がする。6年前当時はそういうものが新鮮だったのかもしれないが、今は、正直「またか…」と思ってしまう。
そんなわけで、観る前は「好きなタイプの作品ではなさそう、寝なければいいな…」くらいで、あまり期待していなかったのだが、意外にもとても面白かった。好きではないのに面白い・楽しいと感じられたのは何故だろう、面白さのおおもとは何なのか―。それを考えていた時、ある公演のアフタートークで平田オリザ氏の「(舞台から)人が去ったところからドラマが始まる」という言葉を聞いた。それを聞いて、「あ、『遭難、』が面白かったのは、ひとつはこれかもしれない。」と思った。
「人が去ったところからドラマが始まる」。
例えば、3人の人物が舞台にいる。1人が舞台から去る。すると、残された2人は去った1人の悪口を言い始める。話はそこから面白くなる、そこからドラマが始まる―ということだ。
職員室を舞台にした一幕七場の『遭難、』も、そういう風に展開していく場面がいくつもある。例えば一場の冒頭。舞台の職員室に登場人物全員(自殺を図った生徒仁科の母親と4人の教師)が居る。そこから、仁科の母親が抜け、学年主任の不破が抜け、仁科の担任江國が抜け、最後に主人公里見と同僚の石原の2人きりになる。すると、それまで話しかけられても返事せず、押し黙ったままだった石原が突然口を開く。「里見先生ですよね。」「仁科から手紙もらったの…里見先生、ですよね。」。これをきっかけに、里見の秘密と本性が暴かれていくことになる。
二場。この場も一場冒頭と同じ人物配置で始まる。仁科が去り教師だけになると、石原は里見の秘密(教師としての責任を問われる問題行動)を不破と江國に告げてしまう。だが、それはトラウマのせいということになり、里見の件はひとまず他の教師たちには口外しないでおこうということになる。不破と江國が床にしゃがみこんで泣いている里見を案じながら職員室を出ていく。石原と二人だけになると、里見は深々と下げていた頭を起こし、ケロッとした様子で「…なんと、トラウマ、でした。」。
里見と石原、不破と江國、不破と仁科の母親…登場人物が二人きりになると、「きっとまた何かが起こるんだ」と期待し、果たして意外な展開が待っていた。好みではないモチーフ、ストーリーでありながら飽きずに楽しめた理由は、一つには、極端なキャラクターや事件だけに頼らない、“舞台から人が去る度に何かが起こる”といった定石を用いた脚本にあるのだろう。人物や展開は過激だけれど、脚本は正攻法。そんな作りの作品なのかもしれない。
ラストシーンは、初演と演出を変えたようだが、印象的だった。
職員室に一人残された里見。彼女は机の下に隠したお菓子を食べ始める。職員室の外に静かに振っていた雪は、いつの間にか室内にまで降りしきり、お菓子を食べる里見は、ピンチフードを食べながら救助されるのを待っている遭難者のようだ。救いはやってくるのか。見失った人生の道を見つけることができるのか。次は、何が起こるのか―。
(2012年10月6日19時の回観劇)